Planet-BLUE

142 三日月と白兎の昔話

 『子午線の塔』、その頂点に頭上をさえぎるものはなく、吹き荒ぶ風が体温を奪う。ラビットは腕の中にいるトワの温もりを感じながら、輝く『ゼロ』を見上げて口を開いた。
「貴女は、私が『誰』であるのかを知っているはずだ。だが……私は、貴女に対して、そして自分自身に対して否定を続けていた。その否定の理由を、話したことはなかったと思う」
「ラビット……」
「聞いてくれ。そして……私の願いを、知ってほしい」
 こちらを見上げるトワの目は何処までも青く。それを見るだけで、心は澄み渡るような思いがした。
 今ならば話せる。だが同時に今でなくては、話せない。
 ラビットは、奇妙な静けさの中で、ゆっくりと口を開いた。


 私の名は「ラビット」と呼ばれるようになる前にはクレセント・クライウルフといった。貴女もよく知っている名前だと思う。
 だが、否定の始まりは、私がそう呼ばれるよりも前のことだ。
 私は幼い頃から他の人間とはまともに口の利けない、臆病な子供だった。そして、その頃には既に人の心をおぼろげに読み取る能力を身につけていた。それが『無限色彩』という力だとは、当時の私が知る由もなかったが。
 人を恐れるようになったことと、その能力を身につけるたこと。どちらが先なのか、今の私には思い出すことは出来ないが、どちらにせよ私は人間を恐れ、隠れるように生きていた。
 そんな私の救いは家族だった。優しい両親と兄弟。それが、私の世界の全てだった。
 そう、思い込んでいた。
 両親が、私に刃を向けるまでは。
 おそらく両親は、私の能力を、そして私自身を怖れていたのだろう。何故私がそれに気付かなかったのか、貴女は不思議に思うかもしれないが……私は、心から両親を信じていたのだ。疑いがなかったからこそ、両親の心を暴くことを考えもしなかったのだ。その瞬間までは、ずっと。
 私は、その時初めて、「読み取る」だけにしか使っていなかった自らの能力を無意識に外に向けていた。
 そうやって、私は両親を殺した。
 それが、多分私の否定の始まりだったのだと思う。私は、恐ろしかったのだ。親に刃を向けられたその事実よりも、親にそうさせてしまった自分自身が。親を殺してしまった力が。そう願ってしまった自分が。自分の何もかもが、恐ろしかった。
 開放した私の力を察知したのだろうか、すぐに軍が私の元に訪れ、私は軍の研究所送りとなった。実際、私もそれを望んでいた。私は親殺しの化け物で、研究所で実験生物として扱われるのが当然と、幼いながらに本気で思っていた。
 そこに現れたのがシリウスだった。そう、あの、シリウス・M・ヴァルキリーだ。
 彼女は研究所にいた私を引き取り、手元で養子として育てた……理由は、私には未だによくわからない。ただ、私にとってシリウスは確かに母親であり、また私に『クレセント・クライウルフ』という名を与えてもう一度人間として生きる事を肯定した、ただ一人の人間だった。
 私は自らを否定しながら、彼女が私に向ける温かな感情を否定することはできず、結局は彼女の元で『クレセント』として生きることに決めた。
 私は自分の持つ力から目を背けて……そして、自分の力に頼らぬよう、必死に学び、また自らが扱える強大な力を欲した。自分と、自分の周りにいる人間を守るため、あの時のような悲劇を繰り返さないために、進んで開発途中の魔法の発動実験にも加わった。
 同時に、私は出来る限り、人と関わる事を避けていた。私が否定する力は、人の中身を暴きたて、壊す可能性がある。私は何よりもそれを怖れたし、私の事を知る人間もまた私を怖れていた。私は常に独りで、それでよいと思っていた。
 その頃に出会ったのが、レイ・セプターだった。
 当時のセプターは貴女が知るセプターと、根本的には何も変わらない。頭は悪いが、私とは対照的に誰からも愛され、愛されるだけのひたむきさがある、そんな男だった。
 だが、そのセプターはやけに私に懐いていた。誰からも嫌われていた私にだ。周囲は不可解だと口をそろえて言ったよ。言われた私だってそうだ。今となっては、何となくわかる気もするけれど。
 多分……多分、だが。
 私とセプターは、ある意味では正反対で、ある意味では全く同じ、だったのだと思う。決して私とセプターが最後まで交わることは無かったけれど、お互いに、常に背中合わせだったけれど。
 何だかんだで、セプターを最後まで突き放すことが出来なかったのは、私もまた、セプターを認めていたからだ。ある意味で、誰よりも。私は奴にないものを持っていて、奴は私にないものをいくらでも持っていた……二人で、足りない部分を補うには丁度良かったのかもしれない。
 だから、最終的には私とセプターは組んで行動するようになった。正直、私は自分の決心が揺らぐのがこんなに早いとは思わなかった。自分で自分に呆れたよ。誰とも関わらないよう生きていくと、決めたばかりだったというのに。
 まあ、それでもセプターとの行動は決して私にとっても悪いことはなかった。セプターと共に軍に上がり、その時は私の能力が知られていたからだろう、軍の中でも閑職とも言える部署に送られた。そして、私はそれで満足していた。
 本当に……馬鹿なことばかりしていた、当時は。ああ言ったがセプターはやはり馬鹿でな、私は何度セプターのせいで生死の狭間を見たのかわからない。いや、生きているからこそ言えることなのだが。
 とにかく、そこでは、いろいろな人間を見た。いろいろな場所に行った。私は、いろいろなものを『感じ取った』。誰とも関わらず、何にも触れずに生きる……そんな生き方をしていれば決して知ることの出来なかった事を、知った。その時には、私の能力もほとんど発現することはなかった。発現したとしても微かな精神感応程度。それすらも、私は進んで使うことは無かったが。
 今まではこんな風に思ったことも無かったが、当時の私もまた、「幸せ」だったのかもしれない。この何でもない日々がずっと続くと、思い込んでしまったくらいに。
 ……だが、その日々も長くは続かなかった。
 ここから先は、貴女も、知っているはずだ。私が一度語ったことであり、セプターから聞いたことでもあり、貴女が私の中に記憶を見出したことがあり、また私と貴女の共通の記憶の一つ、でもある。
 一時的に休戦状態になっていた、帝国との争いが段々と激しくなり、軍は戦闘のために人員を必要とした。戦争とは程遠い部署にいた我々もまた、戦闘作戦へと駆り出されていくことになる。実際、それで何人もの仲間が死んだ。
 そして、私とセプターを含んだ隊は、極秘裏に連邦領内に建造されていた帝国側の研究施設……通称『シュリーカー・ラボ』へと向かった。
 そこでは人工的に超能力者、正確に言うのであれば『人工無限色彩』、『無色の色彩』を作る研究をしていた。私たちが何度も出会うことになった人工無限色彩保持者ルークも、実はあの場所で一度出会っていたのだ。
 ただ、私にその時の記憶はほとんどない。研究所での戦闘に入った瞬間から、私はおかしくなってしまった。こうなることが上にわかっていなかったはずはない。上がどのような基準で私をあの研究所に送り込んだのか、それは私が知ることではないし、知りたくもない。
 殺意、死、恐怖。それら全てが、私の中に入り込む感覚だけは覚えている。思い出すだけで叫びだしたくなるような、狂気……そう、狂気だ。私はその狂気に流されるまま、敵を殺し、味方を殺した。
 能力そのものが暴走しなかったのは、奇跡的だったと思う。ただ、気付いた時には全てが終わっていた。私は、取り返しのつかない事をしてしまった。後で聞いた話では、あの戦いで味方が負った死傷の大半は私の手によるものだ。そう、セプターの右腕を奪ったのも、私だ。
 なのに、何故セプターは笑っているのか。
 正気に戻った私に向かって笑って、『良かった』とのたまうのか。
 私には理解不能だった。違う、理解はできたのだ。あの単純なセプターの考えることが私に理解できないはずもない。だが、『受け入れられなかった』のだ。
 責めてくれた方がずっと楽だというのに、セプターは笑うのだ。ただ私の無事を喜ぶのだ。私はどうすればいい、頭を下げて許しを請うことすら、させてくれなかったのだ。セプターが何も考えず純粋に笑っていたのはわかっている、それが私には一番辛かった。
 許すも許さないも、セプターの中には無くて。初めからそこに怒りなど存在しない。私はこれだけ自責の念に悩まされながら、それを昇華する場所すら与えてもらえない。
 だから、拒絶に至った。
 もう、全てを終わりにしようと思った。何も考えられなくなった方がずっと楽だと思った。だからシリウスとトゥールの反対も振り切って、実験体として研究所に入る気ですらいた。絶え間ない投薬と人を人とも思わぬ実験の中で自分を失ってしまえればよいと思っていた。
 だが、その時にセプター名義で一枚のチケットが届いた。
 それはミューズとセシリアの、セントラルアークで行われる演奏会のチケットだった。私は生まれてこの方演奏会というものを聴きに行ったことがなかった。元より人が多く存在する場所というものを嫌っていたからな。
 ただ、もうこれで外に出ることも最後かと思うと、足は自然とそちらに向いていた。
 トーン姉妹の名は昔から知っていた。私と同年代でありながら、天才と称される音楽家姉妹。彼女らの紡ぐ音が放送無線から流れればそれとすぐにわかる……つまりその頃から既に彼女らのファンだったということだ。セプターは当時既に彼女らと面識があり、同時に私がファンであることを知っていて、最後にチケットを寄越したのだと思う。
 気づけば私はセントラルアーク最大の音楽堂にいた。音楽堂は人で埋め尽くされていて、当時酷く能力の感度が敏くなっていた私には苦痛でしかなかった。
 しかし、それも二人が舞台に上がった瞬間に、変わった。
 本当に、二人は天才だと思う。今でも、それは変わらない。彼女らが奏で、歌い上げる音楽には、力がある。私の意識が捉えていた周囲の思考、という名の雑音は消え、全ては音に支配される。周囲の思考も二人の曲へと向けられていたから意識の雑音が消えるのも当然といえば当然だったのかもしれない。
 それと同時に、私にもまだ、音楽を聴いて何かを感じる心が残っていたのかと思った。
 結局のところ、私はまだその時には他のものを、そして自分を拒絶しきれていなかった。最後まで拒絶できなかったと言ってもいいと思う。
 その後セプターにミューズを紹介された時も、私はそれを受け入れてしまった。その頃には既に研究所に入るという話も白紙になっていた。私は軍を抜け、軍に監視されながらも、ミューズと会い続けることになる。
 ミューズは不思議な女性だった。
 自由でしなやかで、温かい。南風のような、人だった。私は彼女の奏でる音以上に、彼女自身に惹かれていった。
 そして彼女は、私が抱いている闇を全て知りながら、私を受け入れてくれた。
 そう……ミューズが、私に『幸せであること』の意味を教えてくれた。否定を繰り返すことの無意味さも、ミューズは笑いながら何度も私に説いてみせた。それでも、私は彼女の言葉を、今になるまで真には理解していなかったのだと、思う。
 私とミューズが結婚したのは、私が彼女と永遠に別れることになる一ヶ月前くらいの話だ。別段、それで生活が変わったわけではない。私とミューズ、セプターとセシリア。四人での、奇妙な生活。
 罪を抱いたままでも、幸福を感じている自分。それが、どうしても理解できないまま、時が過ぎた。その頃には、セプターへの拒絶も随分和らいでいたのだが……その時、セプターは私とは全く正反対の事を考えていた。
 ……そうか、貴女はセプターから聞いたのか。
 私とセプターは、あの時の丁度一日前、確かに言い争いをした。多分、我々が共に行動するようになってから、最初で最後の下らない言い争いだったと思う。それまで私が一方的に奴を拒絶することはあっても、お互いに自らの意志をぶつけることは無かった。貴女は意外に思うかもしれないが、な。
 その言い争いだが、内容自体は決して下らないものではなかったと、私は思っている。
 セプターは、戦地へ赴くつもりだったのだ。しかも、上が立てた無謀な作戦に参加して、だ。セプターが『アレス部隊』と呼ばれる部隊の隊長であることは知っているだろう。『アレス部隊』は軍の精鋭で構成された遊撃部隊。だが、その性質上死傷率も高い。
 その上、馬鹿な上の連中……実際に自らが戦地に駆り出されたこともない、日和った連中だ……そいつらがまともな作戦を立てられると思うか。だが、セプターは迷わずその作戦の切り込み隊長に志願した。
 私には理解できなかった。セプターには、セシリアがいる。奴の帰りを待っている人間がいるんだ。なのに、何故それを裏切るような行為をする。セプターは絶対に帰るというが、何処にその証拠がある。
 だが、実のところセプターも必死だったのだと、今になって思うよ。奴も私と同じ、自分の立つ場所を見失いかけていたのだろう。奴は馬鹿で、戦場にしか自らの存在価値を見出せなかったのだ、当時、色々なものを見失ってしまっていた私を見ていたから、尚更焦ったのだろう。
 私とセプターは、そういう意味でよく似ている。
 本来求めるものを見失ったまま、別のものに縋る。自らも気付かないまま、な。
 結局私とセプターの意志はぶつかるだけで折り合うことはなかった。そのままセプターはセシリアを連れて家を出た。翌日がミューズの独奏会だというのに、だ。
 皮肉にも、その選択が一番正しかった、ということになるのだが。
 あの日、何が起こったのか、それはわざわざ説明するまでもないだろう。
 私は今まで色々な人間の恨みを買っていた。私が把握している範囲から、把握していない範囲まで。結局あの日私が誰の思惑によって狙われたのか、私には今でもわからない。
 ただ、はっきりとわかるのは、あの日私は殺されるはずで、だがそれを予見したミューズが私の身代わりになった、その事実だけだ。
 ……馬鹿な事を考えたものだ。あの日、大人しく殺されてやろう、など。
 ミューズは、多分呆れていただろうな。あれだけ言っても、理解していなかったのか、と。事実、私を庇って死に行くというのに、最後までミューズは笑っていたよ。私に向けて。
 そして、最後に私に言ったんだ。
『幸せを、忘れないで』
 と。
 笑えるだろう、私は、今の今までこの言葉を忘れていたのだ。無意識に、耳を閉ざしていたのかもしれない。自分の罪を認めるのが恐ろしかったというのもある。だが、それ以上に今までの幸福を覚えていることが、何よりも辛かった。辛すぎたのだ。
 優しさと、温かさ。それが、皮肉にも私の苦しみの根幹にあったのだ。
 私はミューズにそう言われた側から、まず私自身を否定しにかかった。そして私を取り巻く全てを否定しにかかった。
 その結果があの白の原野であり、今の私、だ。
 全てを原野に帰しても、私の『色』を奪っても。私の中に存在する力は消えなかったし、私を消し去ることは出来なかった。
 ……それからの私は死人のようなものだった。何からも逃げるように、何も感じないように、ただ独りでいることを望んでいた。
 ここでの最後の一年、天文台で貴女と出会う、その時までは。


「わかるか、トワ」
 その、全てを白に帰した瞬間に色を失った赤い目を伏せて、静かに、ラビットは言った。
「……私は、消えたかったのだ。ずっと、何もかもを否定して消えたかったのだ」
 トワはじっと、黙ってラビットを見上げている。
 ラビットは淡々と、しかし確かな熱を込めて言葉を紡ぐ。
「ただ、どれだけ否定しても、貴女との約束が忘れられなかった。約束の証のビー玉が、常に私の手の中にあったのだ」