ラビットの能力によって最上階から落とされたバルバトス・スティンガーの身体はそのまま螺旋階段の最下部にあたる床に叩きつけられるかのように見えた。
だが、その直前で、彼の身体を絡め取るものがあった。その目には見えない「糸」は、しなやかにスティンガーの身体を包み込むと、落下の速度を弱める。
思念で構築した糸を操りながら、ルーナ・セイントはうっすらと微笑みすらも浮かべながら目を閉じているスティンガーを見据えて、呟く。
「……『キング』 」
終わったのだ。壁に張り巡らされたステンドグラスの光を浴びながら、セイントは悟った。
スティンガーが負けた地点で、ここから先の出来事は全て、この塔の頂点に立った、二人の無限色彩保持者の手に委ねられた。
自分たちの戦いは、これで終わり。
糸に包まれたスティンガーの身体が、床の上に横たえられる。特に銃を握っていたのであろう右の腕に酷い火傷を負っていたが、それ以外に目立った傷はなかった。セイントはもう一度ここからは見えない階上を仰いだ。
無意識に、手加減をしたのだろうか。
奇妙なものを感じながらも、セイントはそう思わずにはいられなかった。事前情報では、スティンガーを攻撃したあの男の能力……無限色彩は、決して制御の利くものではないと言われていたというのに――
「無限色彩は心の力、ということですかね」
背後から、声をかけられて、セイントは反射的に振り向き脳内では攻撃的な「糸」を構築しつつ、そこにいる相手を視認する。
朝日の光を背景に、入り口を塞ぐように立っていたのは痩身の男……ここにいるはずのない、男だった。
「メーア……大佐?」
「ご苦労様でした、セイント少尉……いや、『クイーン』と呼んだ方がよろしいですかね」
メーアは一歩セイントに向かって歩み寄る。セイントは表情を強張らせ、スティンガーを庇うように腕を広げて一歩下がったが、その時違和感に気付いた。
メーアの足元に、影が伸びていない。
「そう、立体映像ですよ」
セイントの表情から感情を読み取ったのか、メーアは相変わらず真意の掴みづらい微笑みを浮かべて自分の横に浮かぶ二つの護身用デバイスを指してみせた。どうやら、この二つのデバイスがメーアの映像をこの場所に存在させているらしい。
「私自身が本部を離れるにはなかなか骨が折れますが、この二つを船に潜り込ませておくくらいは容易いものですよ」
「スティンガー大佐の船以外を止めたのは、貴方の指示ですか?」
セイントも、『青』奪還のために派遣される船のほとんどが原因不明の足止めを食らったという話は通信で聞いていた。しかしメーアは笑顔で首を横に振って見せた。
「まさか。全てはあのくたばりぞこない、トルクアレト……いえ、今はトゥールでしたね。トゥール・スティンガーの差し金ですよ。今や私もあの男の指示で動く身なのですがね」
メーアはいつになく饒舌だった。何か、この状況を楽しんでいる風ですらある。考えてみれば、メーアの笑い方も、確かに掴みづらいものであることは変わらないが、今までセイントが見たどの表情よりも穏やかに見えた。見間違いかもしれないが。
「何をしに来たのです? 『青』を連れ戻そうと?」
セイントは慎重に問う。メーアのデバイスは護身用というだけはあり、攻撃的なプログラムも組んであるはずだ。目的によってはこちらを攻撃してくる可能性も十分にありうる。
特に、全てが露見しているこの状態ならなおさらだ。
だが、メーアはセイントの緊張に反し、再びゆっくりと首を横に振る。
「まさか。私は彼女の幸せを望んでいるだけ。ある意味、貴女の上司であるそこの男……『キング』もそうでしょう。ただ、何をもって『幸せ』とするかは、彼女が決めることなのだと、気付かされましたけどね」
誰に、とは言わないが。
多分、それもトゥール・スティンガーによってだろう。
かつて『キング』、スティンガーは最大にして最強の駒である『クイーン』たるセイントに言った。
『この計画には、二つの障害があると考えていい。一つはヴィンター・メーア。奴は「青」に詳しく、また私とはまた違う方法で「青」を追っている。初めから動くことはないだろうが、的確にこちらの動きを牽制してくるだろう』
『では、もう一つは?』
『シリウス・ヴァルキリーとトゥール・スティンガーの二人。いや、全ては後者が担っている、と言ってもよいか。奴は、何も知らない』
『知らない?』
初めは言われている意味が分からなかった。だが実際に蓋を開けてみると、確かにトゥールに『青』についての知識はほとんど無かった。無限色彩擁護派であることは事実だったが、単にそれだけであったのだ。
『ああ、知らない。だが、最後に我々の前に立ちはだかるのは、間違いなく奴だ』
誰よりもトゥールを知っていて、同時に誰よりもトゥールを怖れていたのもまたスティンガーだった。故にセイントは軍の中で情報を操作し、また『ナイト』も使って内部を混乱させた。
しかしトゥール・スティンガーはそれすらも利用して『青』の真実まで辿り着いた。何も知らなかったはずの、トゥールが、だ。
『トゥールは、天才だからな』
その時、『キング』スティンガーが最後に漏らした言葉を思い出す。それは同じ血を引きながら自分の理解を超えた領域に辿り着いた実の弟に対する羨望のように取れなくもなかった……普通ならばまずそう考えるだろう……が、セイントには、むしろ純粋な賛美のように聞こえた。
事実、そうだったのだろう、とセイントは思っている。
「ただ、『キング』の計画を崩したのは、私とあの男だけではない……何よりも」
セイントの内心の言葉をそのまま継いで、メーアは階上を見上げる。ステンドグラスの光が色づいた雨のように降り注ぎ、世界を万色に染め上げているような錯覚を覚える。
「白兎。彼の存在が、『青』と……我々の運命を変えた」
ぐっと、セイントは息を飲む。
誰も予測しなかった、『青』の守護者。死んだと思われていた、異端にして最強とも言われた無限色彩保持者……無色にして万色の、『白』。
白兎、というふざけた呼び名すら、今となっては『青』の導き手としてはっきりとした役割を元からシナリオ上に記していたかのように、見える。
「まあ、白兎の存在も初めからトゥール・スティンガーの計算の中には入っていたようですけどね。……さて」
メーアは階上から、セイントに目を戻す。
「私の目的は、後ろのその男……『キング』と『クイーン』たる貴女に裁きを与えるため、アークに連れ戻すことです。貴方方は軍を欺き、また全てを欺いて『青』を奪おうとした……人を欺き続けた私がこのような事を言うのもなかなか皮肉な話ですけどね」
ただ、とメーアは付け加え、光の中で目を細める。立体映像なのだから実際に光の眩しさを感じているわけではないだろうが、芸の細かいことである。
「貴女が私の勧告に従うかどうかは勝手です。もちろん従わないといえば私もそれなりの手段を取りますが、貴女の能力を持ってすれば逃げることも容易でしょう。その先は保証しませんが」
淡々と紡がれるメーアの言葉。
セイントは、手の中に握り締めていた思念の糸を中空に放った。放たれた糸はセイントの目にはきらきらと輝いて、色に満ちた光の中に溶け込んでいくように見えた。
「……どうしますか?」
メーアの声が回答を促す。セイントはメーアに背を向けて、倒れているスティンガーを見つめた。スティンガーは何も語らない。ただ、全てが終わったのだと示しただけで。自らの終末を定めた、というだけで。
それならば、自分が決めた終わりは。
「私は」
地球へと向かったスティンガー隊、隊長バルバトス・スティンガー大佐の乗る船以外の全ての船が、宇宙上で謎の異常を起こし近くのステーションに寄港したという報せは、既に本部にも届いていた。
「カルマも、上手くやってくれたようね」
トゥール・スティンガーはベンチに腰かけて、窓の外を見た。彼の目に映るものは綺麗な夕焼け……きっとセントラルアークは明日もよく晴れるのだろう。その横に座ったシリウス・M・ヴァルキリーは「そうだな」と頷いた。
「トゥール、一つ聞いていいか」
「何?」
「何故、スティンガーを見逃した? カルマに指示したのはお前だろう、トゥール。何故奴だけを地球に向かわせた」
「見逃したんじゃないわよ。決着を、つけさせてやっただけ」
トゥールは軽く目を伏せた。あの男を告発するのは自分ではない。これは元より自分の物語ではないのだ、余計な手出しをする必要はない。もちろん……今までに十分手出しはしていたが。
しかし、最後の瞬間にその場に立っているのは自分ではない。それだけは残酷なほどにはっきりとしていた。
「何とも、嫌な事件だったな」
ヴァルキリーは、言った。透き通った紫苑の瞳は、西から差し込む光を受けて普段より赤みを帯びて見えた。
「そうね。でも、あたしはいい加減楽しませてもらっちゃったけど」
トゥールはくすくすと笑って、それからこつんと頭を横に座るヴァルキリーの肩に預けた。
「それも、これで終わり」
「……そう、だな」
長く、息をついたのはどちらだっただろうか。遠くでは騒がしい足音と鋭く指示を飛ばす誰かの声が聞こえていたけれど、この場所だけはやけに静かだった。一面の窓に映る夕焼けはもうすぐ夜の闇へと変わろうとしている。
こちらの夜が明ける頃には、向こうでも全てが終わっているだろう。結末をトゥールが知ることはないが、おそらくは彼が考えている結末とそう大きくは変わらないだろう。
ゆっくりと腕をかざせば、赤い光に照らされてきらきらと輝く篭手のような武器。この片割れを白兎と呼ばれる古い友人に渡したのは、いつのことだっただろうか。遠い昔のことのようにも、つい昨日のことだったようにも思える。
あの、笑顔を忘れた白兎は、今頃どのような顔をしているだろうか。
それも、今や想像することしかできなかったけれど。
きっと、トゥールの思っていた通りの表情を浮かべていると、信じている。
「ねえ、シリウス……?」
トゥールは腕を下ろして目を閉ざし、体重をヴァルキリーの方に預けたまま、口の中で呟いた。
「何だ?」
ヴァルキリーは消え行く夕日を見つめたまま静かに問い返す。
長い、長い沈黙が流れた。
そして、最後までトゥールの返事は、無かった。
「……そうだな。ゆっくり休め、トゥール」
細い指でトゥールの黄色の髪を梳くヴァルキリーの声は闇に閉ざされていく世界に響いた。微かに、しかしはっきりと。
それもまた、一つの結末。
Planet-BLUE