Planet-BLUE

140 赤い華

 少女は、自分の背後に立つ赤い影……バルバトス・スティンガーの存在に気づいていないようで、目を閉じて一心に祈っているようだった。何に対して祈っているのかは、わからないけれど。
 スティンガーは微かに笑みを浮かべる。
 気づかなければ、それでいい。
 そのまま、何も知らずに終わればよいのだとスティンガーは思いながら、ゆっくりと腕を上げた。その手に握られているのは、一丁の銃。
 今のスティンガーには、たった一つの銃しか残されていなかった、ともいえる。
 今までの行動全てはこの瞬間に収束する……そう思うだけで、スティンガーは何とも形容しがたい心持ちになった。このまま時間が止まってしまえばいいと願わなくもなかった。自分と、目の前で自分に背を向けている青い少女。
 だが、もう時間が残されていないことも確かだった。
 先ほどから、足を引きずるようにして階段を上る音が聞こえている。おそらくは、今まで地球に舞い降りてきたこの少女と共に行動し、また今もなおこの場所まで追い続けてきた男、『白兎』だろう。
 『白兎』。
 トゥールやヴァルキリー、メーアといった予測された障害とは違い、それでいてスティンガーの計画を元の形から大きく歪めていったのは、間違いなくこの男の存在だったといえる。
 白兎の正体には、気づいていなかったわけではない。ただし、気づいたのはかなり時間が経ってからだ……そして、気づいた瞬間にこの男が最大の敵となることを、理解した。決して、敵うはずもない敵であるということも。
 白兎が辿り着く前に、全てを終わらせなくてはならない。
 何故、生きていたのか。
 そう問うのが無為であることはわかっていても、問わずにはいられない。
 何故、生きようと願ったのか。
 ぽつりぽつりと生まれる疑問が、銃口を微かに揺らす。ここまで来て思考することに何の意味もなかったけれども、実際に顔を合わせたことなどほとんどない白兎に対して、声には出さずに呼びかける。

 ……『白兎』。
 お前は一体何を考えて、この場所に立ったのだろうか。
 足を引きずり、朽ちようとする身体で、それでも求めるものは何だ。
 そして、この小さな銃一つで私が求めているものは何だ。
 お前の判断が正しいのか、私の判断が正しいのか……
 おそらく、どちらも正しくはないのだろう。
 そうだろう。
 私も正しくない。
 お前も正しくない。
 我々が振りかざしているのは元より空虚な『正当性』などではなく。
 きっと、傍から見れば無意味でありながら、決して折ることのできない『意地』なのだろう。
 だから、私はこの場所で全てを終わらせる。私と私の愛する者の愚かさが呼んだ、一連の悲劇を……私にしかできない形で。
 誰にも止めさせはしない。
 お前にもだ、『白兎』。
 ……だが。

 なあ、『白兎』。

 ありえない話ではあるが、もし私がもう少し早くお前の存在に気づけていたら。
 きっと、私は――――


 ゆっくりと、影の腕が上げられる。
 そこに握られていた銃と、銃口の向けられた先を認めた瞬間、ラビットは冷たくなりかけていた全身の血液が急に熱くなるような錯覚に陥った。いや、もしかすると錯覚ですらなかったのかもしれない。
 駆け寄ろうとしても足は意識に反してのろのろとした動きで階段を一つ踏むだけ。一段でも二段でも飛ばして、影の腕に握られている銃を奪い取らなくてはならないのに。
 ここで、終わらせるわけにはいかないのだ。自分の旅を……何よりも、彼女の旅を。
「まだだ……」
 ラビットは呟き、その声が左腕のジュエルを目覚めさせる。ラビットの心の形そのものである白い翼が展開され、薄暗い塔の中で燐光を放つ。
 だが、それだけでは届かない。ラビット自身の力の形だけでは、あの影を止めることはできない。
 想像するのだ。あの塔の頂点に、そしてトワに、あの影に届くものをイメージするのだ。想像はそのまま創造に繋がる。無限色彩とは、本来そういう力なのだ。
 その間にも、影は銃の安全装置を外す。ラビットの目……いや、正確に言うのならばラビットが持つ無限色彩は、影が銃を握り締める手にどのくらいの力が入っているのかすらも、はっきりと見て取ることができた。
 間に合わない。
 熱くなったかと思えば、冷たいものが背筋を走る。ラビットの力は、まだ肩の上に収まったまま放たれようとはしない。まだ意識という名の力が収束されていないのだ。ラビットが息を止めた、その瞬間。
『……大丈夫』
 ラビットの耳元で囁く、声。
『だって、貴方は何にでもなれるから』
 もう何処にもいない人の声が、何度もラビットの耳の奥で響く。それはもう戻れない過去であり、それでいて今のラビットを形作っているもの。
 だから、自信を持って、あの場所に届く翼を願えばいい。
 声はそう言った。ラビットの力はラビットのもの、そして、その力は思いを形にする力。強く願うのだ。今度こそ、本当の意味で彼女に『出会う』ために。この長くも短い旅を自分たちの手で終わらせるために。
 白くに染まった思考の中に、ぽつりと浮かんだイメージは赤い華。それは失われながらもラビットの中で生き続ける、過去の象徴。ラビットが初めて得た、幸福の色。彼女が好きだった色であり、彼女そのものの色でもあった。
「これで、最後だ。……そうだろう、ミューズ」
 ゆっくり、まるでスローモーションのように、影がその引き金に人差し指をかけるのがわかった。ラビットも、ゆっくりと左腕をあげる。実際には、それは一瞬のことだったのだろう。だが、ラビットの感覚の中で、刹那は永遠にも感じられた。
 ラビットの左腕を、目には見えない指先が支える。その瞬間、ラビットが掲げていた白い翼が真紅に染まる。
「貴女の遺した力を、借りるよ」
 ゆっくりと流れる時間の中。記憶の底で、彼女が、笑った気がした。ラビットも、笑おうとした。自分の顔が見えないのだから、上手く笑えていたのかはわからないけれど。
 翼は炎に。炎は華に。
 燃え盛る赤い華を抱く左腕を掲げて、ラビットは吼えた。言葉にならない声で、自らの力を解き放った。
 塔の頂上に向けて……トワに銃口を向ける、紅の影に向けて。


 誰かの叫ぶ声が聞こえた。高く、高く。獣の雄叫びのごとく塔の中に反響し反転する声は、目の前の少女の耳にも届いたらしい。びくりと身体を震わせて、空を見上げる。
「ラビット?」
 少女は小さく呟いた。スティンガーは構わず、引き金にかけた人差し指に力を入れようとした。
 その時だった。
 少女が、突然スティンガーの方を振り返った。
 驚きと恐怖に丸く見開かれた青い瞳が、スティンガーを射る。

 澄み切った海色の瞳。
 あまりに、その目は似すぎていた。
 自らを責め青い空に消えてしまった、愛する人に。

 引き金にかけた指が、動かない。

「……リィ」

 スティンガーが無意識にその名前を呟いた瞬間。
 階下から放たれた真紅の華が、スティンガーの身体を包んだ。
 熱と衝撃を受け、手に握り締めていた銃がこぼれ、床に落ちる音を遠くに聞きながら、スティンガーは自らを包む炎の奥に、こちらに向かって駆け上ってくる『白兎』の姿を見た。
 純白の髪に白い肌。その中で一際強い色を持った、真紅の瞳。姿形はスティンガーが知る誰とも似ていないけれど、目に宿った光を何処かで見たことがあった。
 深い悲しみをその奥に秘めながらも、決して淀むことはなく。愚直なまでに本来ありもしないはずの光を求めながら、その思いを貫き通し、最後に光を手にするだけの確かな力を持った、瞳。
 ……そうだ。奴に似ているのだ。
 あの、忌々しい弟、トゥール・スティンガーに。
 それもそうか、とスティンガーは思う。白兎もトゥールも、目指していた場所は結局のところ同じ。ただ、白兎は自らの足で闇雲に目的の地を目指し、トゥールはそんな白兎のために裏で動いていた、ただそれだけのこと。
――――全ては、トゥールの描いたシナリオに帰した、ということか。
 スティンガーは思いながら、炎の中で目を閉じる。その表情は、安らかなもので。

 ああ、白兎。
 本当にお前に早く気づけていれば。
 私の望む結末の形も、変わっていたかもしれないな……

 そこで、スティンガーの意識は闇に落ちた。


 実際には、炎の華はほんの一瞬のものだった。
 放たれた炎はトワを狙っていた影を包み込み、手にしていた銃を取り落とさせる。だが、それと同時にぐらりと揺れた影は、それほど高くない階段の柵を越えた。
 既に勢いを付けて階段を上っていたラビットは反射的に手を伸ばしたが、その手は空を切り、影はそのまま階下へと落下していく。
 微かな胸の痛みを覚えながらも、ラビットは呆然とそれを見つめていることしかできなかった。
「ラビット」
 ラビットを我に返らせたのは、鈴の鳴るような、声。
 ラビットはゆっくりとそちらを見る。
 床に膝をついていたトワが、何処までも青い瞳でこちらを見つめていた。
「トワ」
 ラビットも、心の底から望んでいたその名を、呼ぶ。
 トワは安堵と喜びに笑顔を浮かべかけたが、すぐに表情を硬くする。そして、静かに言った。
「何で、ここに来たの?」
 トワの表情がふと歪む。今にも泣き出しそうに。
「……さよなら、したよね。ラビットは、帰らないの?」
「ああ、そうだな。帰るよ」
 一歩、トワに向けて歩みだす。トワはびくりと震え、怯えた表情でラビットを見上げた。
 ラビットを恐れているわけではないのは、わかる。ただ、トワは純粋に恐怖していた。その理由も、今のラビットにはわかる。
「来ちゃだめ」
 トワは今にも消え入りそうな声で言った。
「ラビットは帰るの。あの天文台に。龍飛が待ってるんでしょう? わたしは大丈夫だから……」
「ああ。だが、帰るのは、貴女との約束を守ってからだ」
 もう一歩足を踏み出して……ラビットはがくりと膝をついた。トワの目の前で。トワは、今になってラビットの右肩が血に染まっていることに気づいたのだろう、慌ててそこに手をかざす。
「ラビット、大丈夫? すぐに、治すから……」
 自らの力を傷口に向けようとしたトワを、ラビットは左右非対称の笑みを作って「構わない」と制する。それから、今までずっと握り締めていた左手を、開いた。
 そこには、青い小さなビー玉が載せられていた。ビー玉は、トワの力を受けて青い輝きを自ら放っていた。
「……約束を、守りに来たんだ」
 トワは、目を丸くしてビー玉とラビットを交互に見た。ラビットが何を言っているのかわからなかったのかも、しれない。ラビットは深く息をつくと、微笑みとは言いがたい笑みを浮かべたまま、言った。
「そう、ずっと昔に約束しただろう、『貴女が大切なものを見つけた時には、必ず一緒にいる』と」
 トワは、はっとしてラビットを見た。
 ラビットは、穏やかな目でトワを見た。
 やがて、トワの目からぽろぽろと涙が溢れた。
「そう、だったんだ……ごめんなさい、わたし」
 トワは涙を拭くことも忘れて、ラビットを見つめていた。ラビットはトワの手を自らの左手に重ねさせる。自分の手は酷く冷たいけれど、トワの小さな手は確かな温もりを伴っていた。それは、自分が理由を忘れながらもずっと持ち続けていたビー玉の温もりと、同じ。
「……話を、しなくてはならない」
 ラビットは左手に微かに力を込めた。
「話?」
「そう、貴女に話していなかった、昔話」
 濡れた青の目を上げて首を傾げるトワの身体を抱き寄せて、静かに告げる。


「私……クレセント・クライウルフとラビットの、長い長い昔話だ」