Planet-BLUE

139 螺旋の果てへ

 ラビットは重たい扉を開けた。
 目には見えない経度零度線上に建てられたこの塔の中は、何処までも高い吹き抜けになっていた。そして、壁に沿って長く長く伸びる螺旋階段が、上へとラビットを誘っている。
 だが、ラビットは壁に手をついて、息をつく。トワは真上にいるのだというのに、身体に力が入らない。
 血を失いすぎたか、と思う。ルークに貫かれた右肩からの血液の流出は既に体内機構により止められてはいたが、それまでに失ってしまった血液は決して戻らない。痛みがなかったからセプターとの戦いの中でもさほど気にはならなかったが、逆に痛みを感じないということは、ラビットの限界が近いということでもある。
 ……時間が無い。
 青ざめた顔でもう一度塔の上を仰ぐ。
 そして、意を決したように一歩目を踏み出した。
 塔のあちこちにはステンドグラスが嵌めこまれ、朝の光を受けて色とりどりの模様を階段に投げかけている。
 一歩、また一歩。
 重たい身体を引きずるように、すぐにでも折れてしまいそうな膝を上げて、階段を踏む。だが、その目は真っ直ぐに上へと向けていた。目指す場所を見つめる目に迷いはなかった。
 トワ。
 口の中でその名を呼んで、ふと左のポケットの中に手を入れる。そこに暖かな硝子玉の感触を確かめると、改めて足を前に出す。
 降り注ぐ色とりどりの光は、今のラビットの中にあふれている記憶そのもののようにも見えた。
 トワ。
 出会いは突然だった。それは多分、お互いの事情を知るクロウ・ミラージュによって仕組まれていたことだったのだと今となって思うが、ラビットもトワも、初めはそれを偶然だと疑わなかった。
 よく出来た硝子細工を思わせる透き通った青銀の髪に、遠い日の海の色をそのまま映しこんだ青の瞳。自分のコートの裾を掴み震えている小さく儚げな姿は今までに見たことがないものなのに、声だけはどこかで聞いたことがあるような、気がした。
 声の響きが、『彼女』によく似ていたのだ。
 ラビットの否定しようとした過去の記憶の中でなお生き続け、最後までラビットを見守っていた、『彼女』に。
 もちろんそれだけではなく、実際にトワとは一度出会っていたのだけれども、その記憶は心の奥底に封じられていて、今まで気づくことはなかった。
 もう一歩、踏み出して。その度に、記憶はラビットの中で鮮やかに蘇っていく。
 『無限色彩』。トワは、そう言った。『無限色彩の、「白の二番」を探している』のだと。
 その時は、『知らない』と決定的な嘘をつきながらも、はっきりと思った。
 『白の二番』が、見つからなければいい、と。
 ラビットはおそらく誰よりも『白の二番』をよく知っていて、だからこそそのように思った。同時に、だからこそ、トワの理由は聞けなかった。聞いてしまえば、見つからなければよいと思った自分の心が揺らいでしまうと思ったから。
 単に、それは自分が逃げているだけだと、気づかないはずはなかったのに。
 誰よりも自分に近かったトワの本当の願いに、気づかないはずはなかったのに。
 自分で自分を否定しようとするあまり、気づいてやろうともしなかった。がむしゃらに「守る」ということだけを口にして、その実トワのことなど本当の意味で考えていなかったのかもしれない。
 かつて、自分は『青』なのだ、と言ってトワは泣いた。
 トワは何よりも自分の力を恐れ、また自分の力がもたらす悲劇を恐れ、それ以上に、自分の力によってトワという『自身』を見てもらえないことを恐れていた。
 その苦痛は、ラビットもよくわかっていた。
 心ない言葉。向けられた切っ先。拒絶の思考と、流れ込む自分に対する恐怖の感情。それらを当たり前のように与えられてきた自分と、できる限りそれらからは遠ざけられながらも、その存在に気づいていたトワ。
 孤独、だったのだろう。誰かが横にいたとしても、ずっと。
 足を踏み出すと、その足が青く染まって見えた。横にあるステンドグラスは、ほとんどが青と緑の硝子で出来ていて、足元に落ちた色は光の微かな揺らぎを受けてまるで深く広く何処までも続く海の色のようにも思えた。
 海。それは、自分がかつて持っていた色であり、トワが抱いている色でもある。その質は大きく異なれど。
 自分が抱いていたものが深淵の海だとすれば、トワの抱くものは自分の意志とは無関係に何処までも広がっていく、果てなき海。それを抱いている本人が怖れないはずもなく、また誰かが理解するはずもない。
 そう、自分の中に広がる海の深さと広さを知っている人間以外は。
 自分が今までトワにしてきたことを思い返し、ラビットは口端を歪める。
 罪深いものだ、と自嘲しながら。
 だが、今ラビットはここにいる。まだ間に合うかもしれないし、もう手遅れかもしれない。それでも、ここに立っている。否定をやめ、もう一度きちんと向き合うために、螺旋の果てへ。トワの待つ、空の下へ。
 気を抜けば止まってしまいそうな足を叱咤し、もう一段。
 このくらい、何てことはない。今まで自分とトワが歩いてきた道を思えば……
 赤い軍服を身にまとった連邦の軍人に追われ、帝国の暗部にも追われ。あちこちの、滅びかけた町や実際に滅んでしまった場所をめぐり、悲しく優しい人々と出会い、別れて。
 思い返して見れば、この旅もそう、悪くなかったと思う。もちろん良いことばかりではなく、辛いことも多かった。けれども、何故だろう。この場所に来て、トワの言っていたことが初めて理解できた気がしたのだ。
『わたし、ラビットと一緒にこの星を見たいの』
『その「白」は、この星を美しいって言ったんだって』
『わたしもそれを確かめたかったの』
『だってラビットも、そう思っているんでしょう?』
 出会いと別れを繰り返し、色とりどりのモザイク模様のように組み上げられた記憶の数々。この地球はとっくのとうに捨て去られ、灰色をしているのに……ここで紡ぎあげた記憶は鮮やかな色彩を伴い、ラビットの中に残り続けている。
 同時に、それはトワと出会う前からそうだったと、今更気づく。
 忘れられない『彼女』を初めて見た場所は微かな橙の光に照らされたホール。その中で紅のドレス……そう、彼の中で何かが壊れてしまった、全てを一度無に帰してしまった瞬間に着ていたものと同じ色のドレス……をまとって現れた『彼女』。
 ほら、はっきり思い出せるでしょう、と記憶の中の『彼女』は笑う。明るいブラウンの瞳を細め、オリーブ色の髪を揺らし。
 思い出せるよ、とラビットはもう記憶の中以外の何処にもいない『彼女』に向かって不器用に笑いかけた。きっと、トワがいなければ、こうやって『彼女』……過去と向き合うことも二度と出来なかった。
 だから、もう一段。もう一段上らなくては。この先に、待っている人がいるのだ。自分をここまで連れてきてくれた、大切な人に会いにきたのだ。
 身体は震え、感覚が残っているはずの左腕も、壁の冷たさと自らの体温を区別できなくなり始めている。血液が足りず白く薄れ掛ける意識は記憶と現実の合間を彷徨い、正常な思考も失われつつある。
 それでも、前へ。
 もはやラビットが思考の闇に埋没することはない。目は真っ直ぐに塔の上へと向けられ、あと少しのところで届くところまで来ているのだと理解する。
 だが、その「あと少し」が遥かに遠いのだということもわかる。
 深い傷を負い、また長年病に侵され続けてきた身体が悲鳴を上げる。もうお前に残された時間はないのだと非情に告げる。
 まだ。
 まだだ。
 ラビットは唇を噛む。ポケットの中のビー玉を握り締める。
 今まで間違い続けてきたのは認めよう。今もなお間違っているのかもしれない。それでもラビットは一心に望むのだ。もう少しで手が届く最上階に向けて、ビー玉を握った左手を伸ばし。

 トワに会いたい、と。

 その瞬間、ラビットの目に何かが映った。それは鋭敏すぎるラビットの中の無限色彩が捉えた、幻視だったのかもしれないけれど。
 本来、階下から最上階の様子はほとんど見えないはずなのだ。
 だが、階段と最上階を繋ぐ柵の向こう、ラビットの目に見えたのは……
 石造りの床の上に跪き、天井の抜けた空に輝き歌い続ける『ゼロ』の光を受け、祈るように目を閉じている少女の姿。

 そして、その後ろに幽鬼のように立ちつくす、巨大な赤い影、だった。