それは、羨望だったのだろう。
今この瞬間のように暁光の中にあり、常に自分には届かぬ場所で笑うその男に対する、純粋なる羨望。
そう、いつも笑っていたのだ。笑っていることに何ら深い理由もなく、ただ彼は自らの周囲にある全てのものを楽しんでいるだけ。それは、自分も理解していた、はずだ。
ではその認識が歪んでしまったのは、いつからだっただろう。
「 『闇駆ける神馬』!」
暁の空に響くラビットの声。声は本来目には見えない力を両の足に収束させて青い足場を生み出し、人間の限界を超えた速度と空を駆ける力を呼び起こす。
だが、セプターはそのラビットに追いついてみせる。正確には、ラビットの行動を思考ではなく反射的に予測し剣を振るう。全ては、セプターの類稀なる戦闘センスが成せる、神にも等しい妙技。
ラビットの振るう青白い刃と、セプターの振るう銀の刃がある一点で全力でぶつかり合い、離れる。
ラビットは痺れる左腕を振って空中に離脱し、セプターは地上からラビットを見上げる。
その表情は何処までも晴れやかな、笑み。ラビットがよく知っている、無邪気な……子供のような笑い方。
「来いよ」
ああ、何もかも変わっていない。
ラビットは思いながら空を蹴る。今度は直線的な動きではなく、打ち込みに行くように見せかけて、微かに軌道を変える。これをラビットが普通にやってみせたのならばセプターも簡単に反応できるだろうが、得意の速度強化魔法によって加速したラビットの動きを完全に掴むのは、いくらセプターでも難しい。
ラビットは空から駆け下りてきた勢いのまま、軽くフェイントをかけて誘ったセプター重たい一撃を紙一重で避ける。そして、右の肩……取り付けられた義肢刃の制御部を狙って左手の刃を閃かせる。
だが、セプターも即座にラビットの考えに気づいたのだろう、ぎりぎりのところで体勢を変えたため、ラビットの刃はセプターの肩口を掠めるだけに終わった。
同時に感じる、背筋の凍るような感覚。
ラビットは攻撃が失敗したと思うよりも先に地を蹴って間合いから離れていた。次の瞬間には、ラビットが一瞬前にいた場所を銀色の閃きが掠めていく。
「相変わらず、人間業じゃないな、セプター……」
ラビットはセプターが一息で踏み込んでこないぎりぎりの場所を見定めながら、口の中で呟く。セプターの義肢刃はいくら使用者の意に従って動くとはいえその巨大な刃、その重量や振りぬく際の抵抗は半端ではない。
だが、セプターは剣の重さなど感じてもいないかのごとく、一度は外した刃を返す勢いでラビットを斬りかかってきたのだ。しかも超速度で動くラビットを捉える形で。
考えている間にも、セプターはラビットに向かって踏み込んでくる。迷いを知らない魂は、銀色の刃の形をして真っ直ぐに……どこまでも真っ直ぐに、ラビットにその切っ先を見せ付ける。
耳に聞こえる高く澄んだ歌声に後押しされるように、セプターはもう一歩を踏み出しながら笑顔でラビットを見据える。明るい、しかし容赦のない光を湛えた若葉の色の瞳。
かつては、その目をまともに見ることすら、出来なかった。
そう、認識が決定的に歪んだのは、あの瞬間から。
きっとこれを言ったらセプターは笑うだろう、馬鹿な事を言う、と。
だが、全てを認めた今ならばはっきりとわかる。自分のセプターに対する感情は、単なる羨望から、悪意に近い感情にまで歪められていくことになった。七年前の事件を引き金にして。
あの事件までは、自分は確かにセプターの背を見ていたが、それがすぐ側にあるのだと信じられた。自分もまたそこに立っているのだと、そこが居場所なのだと、実感できた。
だが、あの事件で自分はセプターを傷つけ、また自身も立つことができなくなった。
その間にもセプターは前に進んでいく。初めから手の届かないものが、はるか先にまで歩んでいく、自分の見えない場所にまで遠ざかる、そんな妄念に囚われた。
元よりセプターと自分は根本的に違う、そんなことすらも忘れて。
ラビットは、今度こそ真っ直ぐにセプターの目を見据えた。
見据えて、不器用に笑う。
繰り出された銀色の光はラビットの左腕を掠めて過ぎ去り、ラビットの纏う漆黒のコートの腕が裂ける。だが、ラビットは構わず左腕の刃を反転させてセプターを狙う。
視線の交差。
笑う二人。片や楽しげに、片や不器用に。
何て不謹慎なと思わなくもないが、このような戦いを一度経験したことがある、とラビットは思う。やはりその時も相手はこの男で、手にしている武器はお互いにこれほど物々しい兵器ではなくて訓練用の偽の武器。
おそらくは、戦闘訓練だったのだろう。生まれながらにして戦いの才を持って生まれた目の前の男と、戦うことを嫌いながら力を封じるために力を貪欲に求めた自分との。それはそれで奇妙な構図だったのだと、今では思う。
その時も本気で打ち合っていたはずなのに、周りからは「ふざけるな」と叱咤されたことも覚えている。当時はやけに理不尽に感じたものだが、今になってその理由がわかった。
あの時も笑っていたのだ。自分も、セプターも。
刃を交えるたびに、脳裏に閃くのは遠い日の記憶。蘇る悲しみと喜びとをない交ぜにした感情と共に、ラビットは青白い刃を振るう。
セプターはやはりその攻撃も綺麗に避けて見せ、銀光纏う刃を振り下ろす。刃と刃が触れる音、幾度目かの間。白い砂を巻き上げながら、空に舞い上がるラビット。冷たい風に、黒いコートがはためいた。
「楽しそうだな、セプター」
今にも溢れてしまいそうな自分の感情を押し殺し、空中のラビットは言葉を放つ。セプターはラビットを見上げたまま、きっぱりと言った。
「楽しいさ」
白い砂交じりの風に、陽光の色の髪が揺れる。豊穣の金色も、若葉の緑も、この地球からは既に失われた色。セプター自身が体現するのは全ての過去であり、また人が求める未来であり。枯れた白と、血の赤しか持たないラビットには決して届かない場所。
だが、セプターはこう言うのだ。疑いもなく。
「お前だってそうだろ?」
お互いに生まれた場所が違い、これから行く道が違っていても。
ラビットも今ならば認めることができる。セプターと同じように、疑うことはなく。
今だけは同じ場所を見ている。同じ場所に立っている。今の自分は、初めてこの男を正面から見据えているのだ。
「……ああ!」
強く、強く頷いて、ラビットは空を駆け下りながら左手を大きく振りかざした。
そして、全てが破綻したのは、五年前。
全てが自分の犯した過ちと、彼女の優しさによって白の原野に帰した、その一日前。
そこまでの二年で、自分の中に生まれた悪意は少しずつではあるが消化できていた、はずだったというのに。
簡単な、そう、おそらく簡単な言い争いだったのだと思う。セプターにとっては。
だが、自分にはわからなかったのだ。許すことができなかったのだ。
何よりも、セプターの出した結論をどうにかして否定しようとする自分が、醜くて嫌で仕方がなかったのだ。
ラビットの左手に嵌められた篭手が輝き、ついにその本質を顕にする。
掲げる青白い刃は一から六に増え、全てが翼のようにラビットの左の手の甲から伸びる。全てが光輝く翼であると同時に何よりも切れ味の鋭い刃。その武器を、セプターは知っていた。
「とんでもねえなあ、お前」
セプターは剣を構えなおして、息を飲む。
「何処で手に入れたんだ……『堕天使の片翼』なんて」
先代軍神、トルクアレト・スティンガーが自在に操ったという白兵戦用光子兵器。本来は両手の甲につけることによって六対の翼を広げる、それこそトルクアレトの通称でもある十二の翼を持つ光輝の堕天使『ルシファー』のごとき美しくも凶悪な武器。
その片翼を、ラビットが今まさに本来の形で振るおうとしている。
だが、いくら強力な武器とて使いこなせなければ意味はない。長く伸びた六枚の刃をどう振るうのか。ラビットとて、実際に軍神だった頃のトルクアレトを見たことはない。
それでも戦い方はわからないわけではない。トルクアレトの戦いを目にしたことはないが、かつて軍神トルクアレトであった者の教えは嫌というほどに受けている。それは、セプターも同じことではあるが。
迷うな。
ラビットは六枚の刃を振りかざし、迫りつつあるセプターの目を見つめる。
セプターの目は鏡のようにラビットの姿を映しこむ。かつては黒と青の色彩を映していたはずの瞳の中に見出すのは、その全ての色を奪われた白と赤。
その実本質的には何も失ってはいなかったのだと、気づいている。
逆に守らなければいけない約束は増え、忘れてはいけない記憶も増えた。初めて実感した幸福はもうこの手から零れ落ちて二度と戻らないけれど、自分は今、新たな幸福のために前を見る。
レイ・セプター。
ラビットがずっと否定し抗い続けてきた『クレセント・クライウルフ』とは違う意味での『理想』。ある意味ラビットが抱いていた全ての『理想』を象徴する存在。
「私は、貴方とは違う」
呟いて、左手を振り下ろす。だが、それはセプターとの間合いの一歩外。セプターは一体ラビットが何をしたのかわからず戸惑いながらも、力強く最後の一歩を踏み出して……
自らの過ちに、気づいた。
目の前に迫っていたのは、矢と化した青白い刃。そう、『堕天使の片翼』は単なる白兵武器ではなく、その刃自体が短距離に対する射撃武器としての役割も担っていたのだ。
基本的には射撃を苦手とするラビットだが、後一歩で刃が届く位置まで接近していれば間違いはない。セプターは迫り来る刃を払うが、ほんの少しずつの時間差をつけて放たれた二の刃、三の刃が直線的にセプターの肩を、足を。残りの二枚の刃が曲線軌道で側面を狙う。避ける道筋をことごとく潰す、正確無比な射撃だ。
「……っ!」
退がる、という選択肢は、セプターに存在するはずが無かった。
セプターは迷わず足への攻撃を避けることは諦めた。そして攻撃手段を奪おうとする刃を一刀の元に薙ぎ払う。その刃を反転させると、向かってくるラビットに向けて突き出し……
ラビットは、既にその場にはいなかった。
しまった、と思った。
『思った』ことそれ自体がセプターの最大の隙となった。
背後から右の肩を貫く光刃。
最後にラビットに残されていた一片の翼が、初めて確かにセプターを捉えたのだ。
この瞬間、ラビットは初めて、セプターに届いたのだ。
「やられたなあ」
ラビットに背を向けたまま、セプターは笑う。ラビットはセプターの肩から刃を抜き、消した。
セプターが、動かなくなった右の肩を押さえてこちらを向いた。何処までも晴れやかな笑顔をその顔に浮かべたまま。ラビットも、お決まりの目を細めて口端を軽く歪める笑みでそれに応えた。
「その笑い方も、変わらねえな」
「ああ」
別に、好きでこんな笑い方をするわけではないのだけれど、とラビットは思う。本当は、今目の前でセプターのように笑えればよいと望んですらいる。
だが、セプターならわかってくれると思った。自分が何を思って笑うのか。笑みにも見えない笑い方だけれど、そこにどのような感情を込めているのか。
「私は行くよ、セプター。いい加減待たせすぎているものでな」
改めて、はっきりと言葉にする。セプターはもはや立ちはだかることなどせず、ラビットのために道を開けた。それから、言った。
「……なあ、一つだけ」
「何だ」
「お前に、謝らなきゃならないことがあるんだ」
ラビットは一際深く目を細めて、セプターを見た。
「私もだ」
「え?」
「貴様の言わんとしてることが私にわからないとでも思ったか? どうせ五年前の話だろう。……あの時は、貴様にも私にも非があると思っているし、本当に下らない諍いだった」
だから、と。ラビットはセプターに向けて言い放った。
「すまなかったな。そして、私の言ったことなど気にするな。今の今まで悩み迷い続けているなど、馬鹿の貴様らしくもない、レイ・セプター」
「馬鹿、って」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い?」
「いや、ははっ、すっきりしたよ。ありがとう。それから、あの時は本当にごめんな」
セプターは笑いながら、ラビットを見た。全てを貫くような、折れる事を知らない槍のように真っ直ぐな瞳で。
「行ってこい。今のお前になら誰も敵わないさ」
「言われなくとも」
ラビットはセプターの横を通り過ぎる瞬間に、口の中で呟くように、言った。
「……ありがとう、セプター」
そして、駆け出す。
トワの待つ『子午線の塔』は、すぐ目の前に聳え立っているのだから。
「最後まで迷ってたのは俺の方、か……」
セプターは左手で放送無線機を拾い上げる。セシリアの歌も終わりを告げていた。
暁の空は珍しく綺麗な色に染まっていて。
「俺も行くよ。アイツには負けられないよな、セシリア」
セプターが仰ぎ見るのは広い空、そして運命の場所『子午線の塔』。
そこに消えていった古い友の無事とその未来を、セプターは心から祈った。
Planet-BLUE