Planet-BLUE

137 最後の対峙

 セシリア・トーンは黒いスカートの裾を揺らして、そこに立った。
 この部屋に窓はなく、空に輝く『ゼロ』を確認することはできないけれど、もうすぐそれがこの星を滅ぼすのであろう。跡形もなく。それとも、奇跡でも起こることはあるのだろうか。そんなことはわからない。
 もう、この星に残るつもりはなかった。自分を愛している人が、残ることを望まないから。また、自分が愛している人を残して逝きたくは、なかったから。そう思えるようになったのは、皮肉にも頑な過ぎて自分と人を傷つけてばかりのあの男のおかげだった。
 これが終われば、自分はこの星を出ていく。
 だが、その前に。
 この星に向けて。この星を愛した、愛する人へ。そして……
「聞こえていますか」
 目の前のマイク……その向こうにいるはずの聴衆に向けて、セシリアは言った。ここ、第二区画街の放送塔の管理者が数人残って働いていたのは喜ぶべきことだった。ここには星間放送を発信する設備が整っている、地球でも数少ない場所だったから。
 セシリアの唇から、澄んだ声が放たれる。
「皆様お久しぶりです、こちら地球のセシリア・トーン。聞こえていますか、私は今、地球にいます」
 マイク越しにしか語ることはできず、それを聞いている人間が何を思うかは、セシリアにもわからない。それでも、彼女は言葉を紡ぎ続ける。
「あと少しで、『ゼロ』がここを消し去ってしまうでしょう。その前に私はここを出て行こうと思います。ただ、その前に一つだけ、私のわがままを叶えてもらおうと思いました」
 目を閉じれば、思い浮かぶのは灰色の大地と白い空。それでもとても暖かかった記憶。愛する人と、姉と、姉の愛した人との短くも優しい記憶。
 ああ、結局自分はそれを望んでいたのだと、今更ながら気づく。
「私はこの地球で生まれ育ちました。この地球で思い出を紡ぎました。だから、最後にこの思いを歌いたい……この場所で」
 今まで歌うのを止めていたのは、歌っていた頃を思い出すのが恐かったから。もう戻れない記憶を蘇らせるのが恐かったから。
 だけど、もう大丈夫。決して思い出には戻れないけれど、これからまた思い出を紡ぐのだ。悲しいことも苦しいこともあるだろうが、きっとその中にまた温もりを、優しさを、見出すことができると信じて。
「聞いてください。今は亡き姉が、私のために遺してくれた歌」
 ……今考えてみると、姉は、生まれながらに不思議な力を持っていたミューズは、多分こうなることを知っていたのだと思う。だから自分にこの歌を遺したのだ。この歌を、歌って欲しいと望んだのだ。
 ありがとう、姉さん。
 私も、やっと前に進める。
「……『暁の飛翔』 」
 
 声……
 血を流す重い右腕を左手で支え、歩きながら徐々に明るくなりゆく空を見上げていたラビットは、ノイズ交じりの声を聞いた。
 それは、五年間歌を封じていたセシリア・トーンの声。
「やっと、動き出したんだ」
 そして冷たい空気を貫く、懐かしい響き。
 ラビットはそちらを見た。白い荒野に遺された瓦礫の上に一つの影。影は手にしていた放送無線機……声は確かにそこから聞こえていた……を置くと、瓦礫の上から飛び降りた。白い砂が風に舞う。
「長かったな、この五年」
「そうだな」
 夜が明けようとしている薄闇の中でさえ、その金色の髪は輝いて見える。こちらを見据える若葉の色をした瞳は常に明るい光を伴っていて。
 自分はそうなれない。
 そう、思っていたものを全て持ったこの男をどれだけ羨んだことだろうか。この男と初めて出会ったその時から、今の今まで。ラビットは目を細めて、まぶしいものを見るような目でその男を見た。
 レイ・セプター。
 戦いと死を司る軍神となることを宿命付けられながら、死神になるには優しすぎたこの男のことを、ラビットはある側面においては誰よりもよく知っていた。
 知っていたからこそ、セプターがこの場所で自分を待っていることも予測できていた。
「お前にはいろいろ、言いたいことがあるんだ。この五年間のこと。今までのこと。これからのこと……だけど」
 セプターは一歩こちらに歩み寄る。その表情はどこまでも清々しい笑顔だった。
「お前は行かなきゃならないんだよな、あの子のところに」
 ラビットは頷いた。頷きながら、左手をゆっくりと下ろす。
 穏やかな、流れるような歌声が響き始めた。『暁の飛翔』……それは、ラビットの知らない歌だった。ただ、メロディラインだけは知っている。昔、そう、自分が今まで否定し続けてきた過去のある瞬間に、愛する女性が一度だけピアノで弾いてみせてくれた。
『どうかな』
 その時も、彼女は笑顔だったと思い出す。彼が「いいと思う」と答えると、その笑みが深まったのだった。
『これはね、私にとって大切な、全ての人に贈りたい曲なの……いつか届くといいな』
 ――届いているよ、ミューズ。
 ラビットは自分の血で染まった左手を握り締める。あの時の自分には彼女の言っている意味がわからなかったけれど、今ならはっきりとわかる。
 彼女は今この瞬間の自分たちのために、この曲を書いたのだ。彼女にとっての『いつか』はまさしく今なのだ。
 セプターとラビットは立ち尽くす。おそらくセプターも、自分の愛する者の歌に耳を傾けているのだろう。だが、やがてゆっくりと口を開く。
「時間はない、か。お互いに」
「ああ」
 自分だって言いたいことが山ほどある。言わなければならないことだって、あるはずなのだ。けれど。
「いい加減、待たせてしまったんだ」
 ポケットの中にあるビー玉の熱が、ラビットを駆り立てる。セプターの背後にそびえる塔の上へと彼を導こうとしている。塔の頂点に輝いて見えるのは、全てを滅ぼす青い光……『ゼロ』。
「現金なものだと、貴方は笑うか?」
「いや、お互い様じゃないかな、それも」
 セプターは苦笑する。苦笑しながらも、失われた右腕の代わりに取り付けられた刃が地面すれすれまで下げられる。
 ラビットはそれを見て、口端を皮肉げに歪めてみせた。
「貴方は優しいな……苛立たしくなるほどに」
「それはこっちの台詞だ。自分じゃ気づいていないのかもしれないけどさ、お前だって優しすぎる。はっきり言って、見ていて辛くなる」
 セプターもわざとらしく顔を歪める。そのやり取りが酷くおかしくて、ラビットは左右非対称の笑顔のまま、呟いた。
「……『お互い様』か」
「そういうことだと思うぜ」
「貴方に説教されるとは思わなかったな。嫌な話だ」
 言って、ラビットは左腕を前に伸ばした。セプターもゆらりと右腕を構える。
 お互い何も言わずとも、相手が何を考えているのかは、わかる。ラビットがわざわざ無限色彩でセプターの心を読まなくともわかるように、精神を読む力など持たないはずのセプターもラビットが考えていることを明確に理解している。
 そのくらい、当たり前だというように。
「……で、そこを通してくれるのだろうな、セプター? 私は急いでいる」
 答えはわかっていながら、ラビットは口端に歪んだ笑みを作ったまま言い放つ。セプターは右腕の刃を真っ直ぐにラビットに向けて、笑う。
「ああ、通してやるよ。俺を倒せればな」
 セプターもまたお互いにとっくにわかっているはずの答えを、はっきりと言った。
「俺たちの歪んだ五年間に決着をつけよう、『ラビット』……お前も、それを望んでここに来たんだろ?」
 そう、この男を回避してトワの元に向かうことは、今のラビットならば簡単なことだった。だが、ラビットはそれを望まず、セプターの言う『決着』のためにここにいる。
 それは傍から見れば無意味かもしれない。下らない感情かもしれない。誰かが今の彼らを見れば、きっと笑うだろうとラビットは思う。多分、セプターもそう思っている。それでも二人が……言葉を交わすにはあまりに少ない時間しか残されていない二人が全てを清算するには、こうするしかない。
「本当に不器用だな、貴方も、私も」
 ラビットは呟き、左腕を振るった。左腕に嵌めた籠手から青白い光の刃が伸びる。そしてその籠手を額に当てて、目を伏せて祈った。この『翼』の名を持つ武器を託したかつての軍神を思いながら。
 彼は、見てくれているだろうか。自分が今ここに立っているということを。迷い続けて、やっとここに辿り着いたということを。
 ――ありがとう。貴方が居なければ、ここまで辿り着けなかった。
 旅立った日から彼の姿を見てはいない。だが、何となくわかっていた。あのお人よしの元軍神は、自分のために今の今まで手を尽くしてくれていたのだ。
 だから、自分はここにいる。
「……これで最後だ」
 呟き、目を開ける。
 セプターは笑顔で待っていた。ラビットの祈りが終わるその瞬間を。
 だから、それが『優しい』のだとラビットは思う。セプターはその優しさゆえに『軍神』になれずにいる。ただ、その優しさがなければセプターはセプターではない……とラビットは思う。皮肉な話だけれども。
 ひゅん、と。
 ラビットが振るった刃が青白い軌跡を空に残す。
「さあ始めよう、セプター」
 相手は『軍神』にはなれずとも、神に一番近い男。まともに戦えば勝ち目はない……それは幾度もの対峙で、またそれ以前の経験でとうに理解していることだ。
 しかし、負ける気はしない。セプターに戦いに関する天性の才能が備わっているように、自分にもまた備わっている、誰よりも大きな力がある。
 戦う前から折れるな、立て、真っ直ぐに前を見据えろ。それこそが自分の『力』になる。
「ああ」
 セプターも自らの刃を振るって構える。傍から見れば隙だらけにも見えるラビットの我流の構え、対照的に一分の隙もない、戦う者にとっての最大の手本のようにも見える、セプターの定型的な構え。
 自分とセプターは何もかもが対照的で、だからこそ今まで背を合わせていられた。同時に、お互いに常に相手の影を胸に抱いて生きてきた。道を分かたれたはずの今この瞬間もなお。
 それも、今終わろうとしている。
 今までこの戦場を照らしていた人工的な光ではない、夜明けの太陽の光が空を白く染める。その瞬間、瓦礫の上に置かれていた放送無線機から聞こえる歌声の質が変わる。
 穏やかなメロディから一転、深い呼吸を経て、変拍子のアレグロへ。
 同時に二人も、歌声に合わせて大地を、蹴る。