Planet-BLUE

136 色のない悲しみと

 ルークは笑みを浮かべることも忘れて、ラビットに向かって踏み込んでいた。一息で詰まる間合い、収束した思いは何よりも鋭い殺意の刃。ラビットはそれを見下ろして、無限色彩の翼を広げる。
 純白の翼はちょうどラビットとルークの間に割り込むように広がり、微かにお互いの姿を透かす。ルークはその翼を貫き通そうと刃を突きたてて……
 世界が、歪む。
「……っ!」
 ルークが息を飲む。刃を突き立てられたラビットの翼はその一点を中心に色をなくし、それでいて爆発的に広がった。ルークは目を庇って二、三歩下がり、目を開けた地点でその異常に気づいた。
 自分は、一瞬前まで夜明け前の荒野に立っていたというのに。
 目を開けばそこは真っ白な、世界。空も大地もない、ただ白い世界。いや、正確に言うのであればそれは「白」という色すらも存在しない……無色の、世界。
 ――何だ、ここは。
 ルークがそう思ったところで、声が、響いた。
「ここは貴方の心の世界だ、ルーク」
 見れば、ラビットがやはりルークと同じように、無色の中空に立っていた。漆黒の外套を身に纏い、純白の髪を揺らして真紅の瞳でこちらを見つめている。
 『あの時』とそっくりそのまま逆転した色彩で、しかしその本質は全く変わっていない、化け物。ルークは冷たい汗で滑りそうになる刀の柄を握りなおす。
「何故」
 思わず、呟きが漏れた。
 この前は、自分からラビットを『ルークの世界』に導いた。だが、今は違う。
 今度はラビットの方から、無理やりに『ルークの世界』を現出させたのだ。その身に宿る強力無比な無限色彩で。
「私と貴方はよく似ている……前に相対した時もそう思った。故に同調もしやすいのだ。力を怖れ、力を欲し、身体に紋章を刻み、武器を取る。だがそれでも怖れは消えない。そうだろう、ルーク」
 無表情に、淡々と言葉を紡ぐ白い男。色眼鏡の下の赤い瞳は、盲いていながらも相手の心の底を見透かす静かな光を伴い、ルークを真っ直ぐに見据えている。
 これは現実か否か。それすらもわからないし、考えるのも無意味だとルークにはわかっていた。無限色彩は己の心に左右される、不安定にして絶対的な力。
「……黙れ」
「貴方が持つ力もそうだ」
「黙れっ!」
 ルークは刀を掲げて叫んだ。ルークの世界はその叫びに反応し、見えない無数の刃となってこの世界の異物たるラビットに襲い掛かる。ラビットはその場から一歩も動かないまま、左の腕を振るう。左腕から伸びる翼がラビットを庇うように広がり、刃を叩き落とす。
 だが、構わずルークは突っ込む。手にした刀で翼を切り裂こうとするが、翼は予想以上の硬さをもってルークの一撃を阻んだ。
 ぎぃん、という硬質の音。鉄と鉄とが触れ合う、響き。
 通れ、とルークは願う。折れそうなほどに力を込めた刀が、再び『心』という名の力を纏い始める。
 折れるわけにはいかないのだ。ルークは思う。折れてしまえば、自分の存在意義が全て消えてしまうだろう。自分は結局のところこの『心』の力……作り物の無限色彩一つで立ってきた。それ以外を持って生まれてくることはなく、またそれしか望まれることがなく。
 自分はそういう存在なのだ。人の手によって、戦うためだけに生み出された自分は、やはりこういう形でしか自らの存在意義を見出すことは出来ない。
 それは、絶対的に目の前の白兎とは相容れない部分。いくらラビットが『白』で、今まで無限色彩に振り回されて生きてきたとしても、この男は多くのものを持っているではないか。自分にはない、多くのものを。
 ……それを、「似ている」などとはよく言ったものだ。
「違うネ、シロウサギ」
 ルークは壮絶に笑った。力を込めた刃が、段々と翼に沈み込んでいく。翼越しにこちらを見つめるラビットの目が、細められた気がした。
 次の瞬間、翼が完全に切り裂かれ、何とか一撃を避けようとしたラビットの右の肩に深々と刀が突き刺さる。
 ラビットは表情一つ動かさずに、ルークを見つめていた。滴り落ちる血の色と同じ紅の瞳を、ルークは金色の目で見つめ返す。
「アンタとワタシは根本的に相容れない……そうやってワタシを惑わせようとしても無駄だネ」
 本当に、苛立たせてくれる、この白い男は。
 ルークは思いながら刺さったままの刃に力を込める。
 初めて出会った時からそうだった。この男は表情こそ浮かべないが常に強い意志をその目に宿している。意志の正体が何なのかは対峙する時々によって微妙に変わっていたけれども、いつも何かを貫こうとする力が込められているのはわかった。
 だから、初めて出会った時に思ったのだ。
 この男の意志を折ることができたら。その澄ました顔をぐしゃぐしゃに崩してやれたら、どれだけ自分は満たされるだろうか。それを考えただけで今まで足りなかった部分が満たされるような、奇妙な喜びを感じていた。
 だが、逆に。
 いつか自分を折るのもこの男だという、漠然とした不安を感じていたのも、事実。
「そうか」
 ラビットは何処までも淡々と、言い放つ。
「そうかもしれない。だが、貴方の抱く怖れと私の抱く怖れは、根源的なところでよく似ているはずだ……わかるか、ルーク」
 黙れ、もう、喋るな。
 胸の中に広がる嫌な熱を振り払うように、ラビットの肩口に刺さった刀をそのまま振りぬこうとするが、その瞬間、刃が空を切った。気づけばラビットの姿がその場から消え、ルークの横に現れていた。
 ラビットは左手で刺された右肩を押さえながら、はっきりと、言った。
「貴方が本当に怖れているのは、不安を感じているのは、私……かつて貴方が見た『化け物』に対してではないのだろう?」
「何……?」
「貴方がこの場で私との決着を望んだのは、そういう意味で私が貴方に似ていたからだ。貴方と私は確かに違う存在だが、私が貴方に私の影を見出したように、貴方は私に貴方自身の影を見出した」
 ルークは考える前に駆け出していた。血を纏った刃をそのまま、今度こそラビットの胸に叩き込むために。
「……貴方が、私が、怖れているのは『自分自身』だ。そうだろう?」
 ラビットの声は、半分は聞こえていなかったのだと、思う。だがルークの脳裏には『あの時』がまざまざと再生されていた。
 白い廊下に立つ、白い服を赤い血に染めた黒髪の化け物。
 生と死の間で狂気に犯され、敵を殺し、仲間を殺し、自分を殺そうとした奴の目は何処までも深い青で、彼はその中に映し出された自分の姿を見出した。
 その自分もまた目の前に立つ化け物を恐れながら、それ以上に自分もいつかはこうなるという恐怖を覚えたことを、思い出す。
 同時に、とても悲しかったことも、思い出す。
 自分も『あの時』の化け物と同じもの。無限の色彩を負って生きる事を宿命付けられた存在。それがただ、自然に運命付けられたものか人為的だったかの違い、それだけ。
 ああ、そうだ。
 白兎の言うとおりだ。
 自分は、初めて出会った時から『白兎』に『自分』を見出していたのだ。ラビットが抱いていた恐怖を無意識に感じて、同じ恐怖を抱く存在を打ち負かすことが出来れば自分が抱いている恐怖もまた葬ることができるのだと信じていた。
 自分があの化け物を見て感じてしまった悲しみを、消化できると信じていた。
 だが、それは――
「それでは貴方が満たされることはない、決して。言ったとおり、私と貴方は似ているだけで異なるもの。それに」
 ラビットは左手を右腕から離し、肉薄するルークに正面から向き直る。その左手には、いつの間にか純白の……無限色彩で形作ったのであろう剣が握られていた。
「言っただろう、私は貴方には負けるわけにはいかない。私の心を、折らせやしない」
 自らの心を剥き出しの力に変換するルークと、他人の心と自分の心を束ねて力へと昇華させるラビット。本質的に似ていて異なる力が、ぶつかり合う。
「シロウサギぃぃ!」
 刀をラビットの剣に打ちつけ、ルークは吼える。
 無言で応えるラビット。
 刃が合わさった一点から迸る光が、世界を満たし、そして。
 
 世界は再び反転し、元の荒野へと還る。
 ルークは大地に仰向けに倒れ、ラビットを見上げていた。ラビットは右の肩を抑えながら荒い息をついている。左手の剣はいつしか風に霧散し、舞い上がる白い砂と見分けがつかなくなっていた。
「……綺麗事だネ、どこまでも」
 ルークの呟きも風に流されていく。ラビットは深く息を吐いて、言った。
「綺麗事とて貫ければ真実。そう、今だけでも思いたい。それだけだ」
「甘いネエ、甘すぎる」
 だが、とルークは思いながら自分の右手に握った刀の柄を見る。白い剣の一撃で、刃は根元から折れてしまっていた。本気で折る気で向かって行ったというのに、結局折られたのはこちらだった。最後の最後まで、自分はラビットを折ることはできなかった……
 その甘さすらも貫き通す気か……化け物が。
 無意識に、舌打ちをしていた。折られてしまった刃は元には戻らない。自分の中にぽかんと大きな穴が穿たれた気がして、酷く空虚だった。
 しかし、恐怖はなかった。悲しみもなかった。
 何故か、その空虚は妙に清々しかった。
「私は貴方が嫌いだ、ルーク。その私がこんなことを言うのはいい加減皮肉めいているかもしれないが」
 ルークを見下ろしたまま、ラビットは静かに言った。
「貴方の無色の世界が、いつか色づく事を、願っている」
「……っ!」
「じゃあな。二度と会わない事を願う」
 ラビットは黒い外套を翻し、走っていく。だらりと垂れ下がった右腕を揺らしながら。確かラビットは病気で右腕の感覚を失っていたと聞いていたが、もうそれは肩口まで至っていたのか、とルークは霞がかった頭で考える。
 それから、ラビットの背を見つめて吐き捨てるように呟く。
「全く、とんでもない皮肉だネ。普通は冗談でもあんなことは言わないってのにネエ」
 だが、それがラビットの本心であることもわかってしまったから。わかってしまう辺り、やはりあの男と自分の感覚は近いのだろうと思うと、嫌になる。ラビットの「嫌い」というのは同族嫌悪なのか否か、今やルークがそれを知ることはできなかったのだが。
「さあ、ワタシは、どうしようかネエ……」
 呟いて、ルークは目を閉じる。
 上官であったキングは帝国を離れ、ルークも自由になった。最後に折りたかった相手に折られ、何も残らなくなった自分は、何をしようか。
 ああ、そうか。
 『何をしようか』と考えることすら、初めてなのだ。わからないに決まっている。
 それがとても新鮮でルークは微笑んだ。今までにない、穏やかな笑い方で。
 
  ――その後、彼の姿を見た者は、いない。