Planet-BLUE

134 変わらぬもの

 手を引かれていた。
 この手がまだ小さかった頃の話だ。
 自分はとても背が低くて、何もかもを見上げていたと思い出す。背の高い影は手を引きながら、笑っていた。
 自分も笑顔を浮かべて、まだおぼつかない足取りながらも光の中に駆け出す。
 そんな、当たり前のことすらも許されなくなったのは、やはり遠い昔の話ではあるのだが。
 
 変なことを思い出した、とラビットは思う。
 そんなことを考えていては、目の前の男を倒すことも出来ないというのに。
 ケイン・コランダム。連邦最強の魔法士。前回何とか退けられたものの、今回は前回と同じ手は使えないだろう。こちらの手はほとんど見破られている……それに。
 左手で、重たい右腕に触れる。この腕では、右腕を介した魔法はほとんど使えないと思っていい。今までは無理やりに戦ってきたが、肩の辺りまで病状が進行した今ではそれすらもままならない。
 無限色彩を使えば、簡単に突破することは出来るのだろうが、それはラビットが望むことではない。ここで無限色彩に頼れば、それはコランダムが思っている『無限色彩保持者』をそのまま肯定することになる。
 違う。
 無限色彩は、貴方が思うような破壊だけの力ではない。
 そう、叫びたかった。だが、無限色彩保持者であるラビットが訴えたところで聞き届けられるはずもない。それだけ、コランダムの無限色彩に対する怒りが強いことを、ラビットはよく知っている。
 コランダムは嘲りすらも込めた目でラビットを見つめている。自分から攻めることはない……それは、ラビットを「通さない」という目的上、仕掛けられなければ仕掛けないという意思表示であり、またラビットが動いてから魔法を発動させても十分に対処できるという余裕でもあった。
 普通に戦っても勝ち目はないと理解はできる、それなのに。
 ラビットは、一歩を踏み出していた。無防備にも思える動きで、ふらりと一歩。コランダムは右腕を構えたまま動かない。おそらく間合いに入った瞬間に、得意の『死呼ぶ神の槍』を射出してくるだろうことは目に見えていた。真っ直ぐこちらに伸ばされた手の平に、描かれているのは戦を好む神の槍。
 槍の先端がこちらの喉元に向けられているようで、ラビットは息苦しさに息をつく。
 矛先は拒絶の意志そのものだ。理解の範疇を超えた力への拒絶。力を持つ者の存在に対する拒絶。
 もしくは、自分の大切なものを奪った「何か」への怒りだろうか。だがその怒りの矛先を本来向けるべき場所に向けかねているのもわかってしまう。
 向けてしまえば、楽だろうに。
 ラビットは唇を噛む。
「どうした?」
 挑発するように、コランダムは嗤う。
「今更怖気づいたか?」
「まさか」
 ラビットも不器用に笑顔を作る。足を今度こそ力強く一歩踏み込んで、叫んだ。
「 『闇駆ける神馬(スレイプニル)』!」
「 『死呼ぶ神の槍(グングニル)』!」
 ラビットは跳んだ。おそらくコランダムもそれを読んでいたのだろう、ラビットの上昇予測位置に的確に槍を撃ち込んできた。ラビットはそれをぎりぎりの位置でかわすと、真っ直ぐにコランダムに向けて走り出した。
 『闇駆ける神馬(スレイプニル)』で強化された移動速度は、ラビットとコランダムの間にあった間合いを一瞬で消し去った。だがその時にはコランダムも『舞い降りる帆船(スキーズブラズニル)』を発動させてもう一度自分に適した間合いを取り直す。
 だが、ラビットは構わずコランダムに向かっていく。魔法の構えも見せず、ただがむしゃらに突っ込んでくるだけに見え、コランダムの表情が不可解さに歪む。
「何を考えている、白兎!」
 その声と同時に、『滴り落ちる円環(ドラウプニル)』を展開する。曲線軌道を描く無数の金の輪が、ラビットの身体を切り刻まんと迫る。ラビットはもう一度強く地を蹴った。
 考えていること……そんなものがあるとすれば、このようにコランダムと向き合ったその地点、いや、それより前から変わらず思い続けてきたこと、ただ一つだけしかない。
 ラビットは速度を落とすどころか余計に加速をつけて、金色の輪の中に飛び込んでいく。
 コランダムが驚愕に目を見開いた。まさかラビットが無謀な突撃をかけてくるとは思いもしなかったため、輪を射出し着弾させる位置を見誤った。当然いくつかはラビットの足や肩を裂くが、ほとんどはラビットの背後の空を切り裂くだけに終わった。
 近づかれる。
 コランダムはもう一度『舞い降りる帆船(スキーズブラズニル)』を発動させようと脳内で構築式を組み上げる。魔法の高速発動を得意とする魔法士は、相手の接近を避けなければならない。接近されれば、構築式を組み立てている途中に体勢を崩され集中が切れるという可能性も高くなるのだから。
 もちろん魔法士同士が一対一で戦う限り、相手に接近されるという可能性はほぼゼロに近い。相手もまた、魔法の構築式を練っている間は隙が大きいからだ。特にコランダムよりも構築の遅いラビットが魔法を使うとなれば、相手に接近しすぎるとほぼ勝ち目はない。
 ならば、何故ラビットは迷わずコランダムに肉薄しようとしているのか。前回の、一撃を当てて離脱するような、相手の出方を探るような動きとはまた違う……明らかな突貫だ。
 間に合わない。
 コランダムは息を飲んだ。『舞い降りる帆船(スキーズブラズニル)』の構築式を完成させる前に、ラビットの顔が目の前にあることに気づいたからだ。
 コランダムは反射的に右手を上げて、どの魔法よりも発動の早い『死呼ぶ神の槍(グングニル)』を発動させようと身構える。すると、ラビットは速度に乗ったまま左手を振り上げた。
 一瞬無限色彩かと疑ったが、ラビットの態度からいってそれはないと確信できた。ならば、何の魔法を発動しようとしていたとしても、こちらの方が先に発動させることができる……
 そう思った瞬間に、強い衝撃がコランダムの脳髄を襲った。
 受身を取ることも忘れたコランダムの身体が地面に叩きつけられる。次の瞬間、口の中に広がる血の味に、「殴られたのだ」と気づいた。
 根本的な事を失念していたのだ。ラビットは単に「無限色彩を使わない」と言っただけで、「紋章魔法だけで戦う」などとは一言も言っていなかった。特に、魔法士としての教育を受けた紋章魔法士というわけではないこの男が、セオリーどおりの戦い方をするはずないのは前回の対峙でわかっていたはずではないか。
 ラビット自身はそう力のある方ではないが、『闇駆ける神馬(スレイプニル)』で勢いを限界まで上げた状態の一撃、下手をすればその一撃で意識が飛んでいただろう。何とか意識を繋ぎとめた今も、頭は朦朧としていて到底魔法の構築式を編めるような状態ではない。
 この一撃を狙っていたのか。
 コランダムはそう思ってラビットを見上げたが、ラビットは肩で息をしながらコランダムを見下ろしていた。握った左の拳は微かに震え、元より表情の薄い顔の中で赤い瞳だけが不思議な色を湛えていた。
 いや……狙ったわけではないのか。
 ラビットの目に映る色は、弱々しく揺れる感情。一瞬前に容赦のない一撃を食らわせてきた男と同一人物とは思えないほど傷つきやすい色をしていた。もしかすると、今の一撃も心に浮かんだ衝動に任せたものだったのかもしれない。
 見上げるコランダム。見下ろすラビット。
 立場が逆になったな、と思う。それは、コランダムもラビットも同時に思ったことだった。そこに含まれる感情はお互いに全く異なったものだとはいえ。
「私は」
 震える声で、ラビットは言った。その顔に表情はなかったけれど、今にも泣きそうなのだ、ということはコランダムにもわかった。何故か、はっきりと。
「貴方に責められていい。それだけのことをしたから。怒られても、蔑まれても、何されても構わない。許されるはずがないから」
 熱に浮かされたように、ぽつりぽつりと。呆然と見上げるコランダムに向かって、言葉を吐き出していく。
「ただ……ただ、貴方には、貴方だけには」
 無表情という仮面の後ろで、泣いている。その顔を、コランダムは知っていた。
「拒絶されたく、なかったんだ……!」
 
『結局、貴方はわかってくれないのか』
 
 コランダムの脳裏に蘇るのは、そんな白兎の言葉。いや、それと全く同じ言葉を、コランダムは以前に聞いている。十年ほど前、やはり同じように泣きそうな顔をしていた自分とよく似た顔の男が、同じ事を。
 何もあの時と変わってはいない。
 いや、頑なに変えようとしなかったのは自分なのか。あの時、自分が言うべきことはわかっていたのに、言えなかった。
 そう、『青』と言葉を交わした時もそうだった。真に求められている答えは……
『約束だよ』
 幼いままの声が耳の中に響く。
 それはコランダムが無意識に止めていた時間そのものだったのかもしれない。
 ラビットは何も言わずに、その場に立ち尽くしていた。「拒絶」し続けた故に、「拒絶」されることの恐ろしさも何より知っていたこの男が、はっきりとそう言い出せるようになるまでどれだけの時間が必要だったのだろうか。
 そして、自分がそれを自覚するにも、どれだけの時間が必要だったのだろうか。
 コランダムはゆっくりと左の腕を伸ばした。ラビットが反射的にびくりと身体を震わせる。
「何もしない、魔法も使えないからな。起こしてくれ」
 ラビットは一瞬だけ躊躇ってから、コランダムの手を取った。コランダムはまだ頭がふらつくのを感じながらも上体を起こした。ラビットの手は思った以上に大きく、また酷く冷たかった。
「……行くのか」
 コランダムは何も考えずに、言葉を口にした。ラビットは小さく頷いて、言った。
「彼女と約束したから。通らせてもらう」
「ああ……通ればいい。だが、ただで『青』に会えるとは思うな。指示を無視して、塔まで先に行った奴がいるからな。まあせいぜい気をつけることだ」
 誰なのかは、コランダムが言うまでもなかった。最後にラビットの前に立ちはだかるのは、ただ一人だ。
「……すまない」
「勘違いするな。私は無限色彩は嫌いだが、あの少女に恨みは無いからな。最後くらい好きにさせてやる、それだけだ。さっさと行け」
 コランダムは追い払うように手を振った。ラビットは微かに笑みを浮かべ、それから軽く一礼をして走り去っていった。
 決して、あの男を許したわけではない。ただ……認めても良いとは思ったから。
 実際、ラビットが望んでいたのはそれだけだったから、それでよかったのだろう。コランダムは思って、目を伏せる。
「約束……約束な」
 守れなかった約束を、思い出す。
 自分よりもずっと小さかった弟の手を引いていたあの頃。その時はただの簡単な口約束でしかなかったけれど、気づけば絶対に叶わぬものになってしまった約束。あの約束を、彼はまだ覚えていたのだろうか……?
 コランダムは未だはっきりしない意識の中でそのような事を考えながら、ただ、遠ざかりつつあるラビットの背中を見つめていた。