空の上から少女を見下ろすのは全てを消し去る青い光、『ゼロ』。
トワは床の上に座り込んでそれを見上げていた。雲を突く、『子午線の塔』の頂上で、ただ一人。
胸の青いジュエルは静かに輝き続けている。
『ゼロ』は今も絶えず何かを歌っているのだろう。トワの耳には微かにしか届かないその声を、はっきりと聞いていた人がいたという。
だが、今日でその歌も終わり。
「終わりにしよう、『ゼロ』。私の旅も、貴方の旅も」
トワは落ち着いた声で言った。『ゼロ』は何も語らない。ただ、トワの胸に輝くジュエルと同じ青い色の光をちらちらと辺りに振りまいているだけで。
そして、少女は目を閉じた。その時を、待つために。
窓の外を見ていた無限色彩『白の三番』カルマ・ヘイルストームは目の前にいる海原 凪に向き直った。
「不安そうな顔してるね」
「それはそうだよ」
海原はジュエルのある右手を強く握りながら呟いた。窓の外を見れば、いつものように空っぽの心を持った女、グローリア・コランダムが車椅子に乗せられて中庭にいた。ここからではグローリアがどのような表情をしているのか、そして看護士が何を語りかけているのか、わからなかったけれど。
「 『青』の奪還作戦に参加するんだっけ」
「うん……安定している無限色彩保持者が加わっていた方が、同じ色彩保持者の捕縛には役に立つだろうって、スティンガー大佐が指示を」
「よかったじゃないか。あの色彩嫌いのスティンガー大佐がそう指示を下してくれたんだから。それに、元々、そうでなくとも頼みこむつもりだったんだろう?」
カルマは微笑んで言った。海原は驚きを顔に浮かべる。何しろ、カルマには何も話していない。『青』奪還作戦に加わる気でいたことも、ここに『青』を連れ戻すことができれば、『青』の力をもってグローリアを救えないかと考えていることも。
「別に心を読んだわけじゃないよ。僕は『二番』じゃないからね。何となくそうかなあって思っただけだけど、図星だったかな」
カルマは血の気の引いた顔で楽しそうに笑う。
「だけど、『青』でも彼女は治せるかな……」
「やってみる価値はあると思うんだ。ただ」
海原はそこまで言って、もう一度窓の外のグローリアを見る。無限色彩によって心を壊された女。今やこの軍全体に混乱をもたらした、逃げ出した無限色彩『青』。全ては自分と同じ、無限色彩を持った人間が起こした出来事。
海原の右手の平に埋め込まれているのは、橙色のジュエル。そう……このジュエルの色は違えど、力も、心の中に抱いているものも、きっとよく似ている。ならば。
「 『青』は、そうやって誰かに利用されることを望んではいないだろうな、とは思う」
何故『青』は逃げたのか。その理由を海原は知らないし、きっとこれからも知ることはないだろう。自分はあくまで、軍の意向に従い『青』を軍に連れ戻すという任務のためだけに動く。それ以上の事を知らされることはない。
それでも、思うことはあるのだ。もし自分が彼女のように『青』で……グローリアから上げた目が捉える時計塔、あの時計塔に長い間幽閉されていたとしたら、自分はどう思うのだろうか。
嫌な息苦しさを覚えて海原は息をつく。カルマは、そんな海原の葛藤を見透かしているのか、金色の瞳を瞬いて、静かに問うた。
「迷っているの?」
迷っている。
そうかも、しれない。
今ここに来て、動かぬグローリアの姿に実際には見たことのない『青』の姿を重ねている。そして、無限色彩を持つが故にその力に潰された、一人の男の姿も。
「迷うのは正常だよ、凪。僕も君も無限色彩保持者。そうやって思うのは当たり前だ」
何も言えずに、海原はもう一度グローリアを見つめて立ち尽くす。グローリアは何も語らない。自分の手の平に埋まるジュエルも何も語らない。頭の奥で、無限色彩の可能性を信じようとしていた誰かの姿が浮かんでは消える。
自分は、本当は無限色彩に何を望んでいたのだろうか……
そう思ったとき、出撃を告げる機械的な音が腕につけていた時計から響いた。
ケイン・コランダムは目を覚まして初めて、自分が気絶していたことに気づかされた。
悪い夢を見ていたような気がするし、信じられないような現実を見たような気もする。どちらかもわからないまま、あちこちが痛む身体を起こす。
「目が覚めましたか」
声が降ってくる。目を上げれば、そこにはレイ・セプターとルーナ・セイントが立っていた。
自分の周りには、赤い軍服の部下たちが依然として半数ほど倒れ伏したままであった。先に目が覚めていたらしい部下はせわしなく辺りを駆け回り、船を発進させていることがわかる。
そう、自分は『青』を連れ戻すための船の上にいたのだ。だが、『青』は『子午線の塔』に行きたいと言い出し、それからの記憶は曖昧だ。思い出せるのは、『青』が遠い昔に死んだはずの弟と同じ事を言い、また同じ目をしていたということだけ。
あの時もそうだ。『青』が『子午線の塔』に行くと言い出したとき、コランダムの目には小さな『青』の姿が、遊園地に行きたいのだと言いながら、永遠にその約束が果たされることのなかった小さかった弟の姿と重なって見えた。
何もそれ以上の事を望むことはなかった、弟が。何故、力に翻弄されなければならなかったのか。小さく、何も知らない『青』が何故、追われなければならないのか……
無限色彩は、災厄しか呼ばない。事実、コランダムが知る限り、色彩によって誰が幸福を手に入れたというのだろうか。呼ぶのは悲しみ。ただ、それだけだ。
「……大丈夫ですか、少佐」
もう一度、確認するようにセプターの声が降る。コランダムはゆっくり上体を起こしながら「大丈夫だ」という意思表示を送った。まだ、軽く頭が痛みを訴えていたが、そんなことを構っていられる状態ではない。
「一体、何が起こっていた? 私は……」
「 『青』が自らの能力を解放し、船内の混乱に乗じて逃亡しました」
セイントが淡々と告げる。コランダムはあからさまに顔を歪めた。確かにあの部屋の制御装置程度で『青』を抑えられるとは思わなかったが、コランダムの見た地点では『青』は逃亡の素振りさえ見せなかったではないか。
いや。コランダムはかぶりを振る。
「そうだな。所詮、奴も無限色彩保持者か」
無限色彩を持つ者の考えることなど、自分の考えの及ぶところではない。コランダムの言葉にセプターはほんの少しだけ眉を寄せたようだったが、構うことはない。セプターの無限色彩擁護は今に始まったことではないのだから。
今自分たちがすべきことは、危険な力を秘めた『青』を何としてでも連れ戻し、前以上に厳しくその力が外へと影響をもたらさないよう管理すること。
『でも、それでいいのかな』
よいも悪いもないだろう、『青』。貴女には決してわからないだろうが。
頭の中に響く『青』の鈴を鳴らしたような微かな声を遮断して、コランダムは立ち上がる。嫌な頭痛は増すばかり。何か大切な事を忘れてしまっているような気がするが、今は『青』を捕らえるほうが先だ。
「 『青』は何処に向かった」
「精神追跡は変わらず無効化、事前に取り付けておいた発信機によれば」
セプターが事務的な口調で言う。
「 『青』は瞬間移動で『子午線の塔』に到着した模様。この船もまもなく到着します」
窓の外を見れば、海の向こうに塔が見える。雲をつくように聳える、灰色の塔。
『子午線の塔』だ。
『青』が目指した場所。そして、全てが終わるであろう場所。
誰よりも先にあの場所に辿り着かなくてはならない。『青』を捕らえ、無限色彩を巡る醜い争いを永遠に封じるのだ。
「急ぐぞ。これで、終わりにする」
コランダムは言いながら、頭痛の中で一つだけ響く誰かの声を聞いていた。いつ聞いたかもわからない、遠い記憶の、声。
『結局、貴方はわかってくれないのか』
ああ、わからない。わかりたくもない。……わかっては、いけない。
塔を見つめるコランダムの目が、微かに揺れた。
暗闇の中で目を覚ます。
ごうん、という衝撃は、求める場所……子午線に着いた合図であろう。彼はゆっくりと立ち上がる。腕や足を戒めていたものはとっくに外れている。そんなもので彼を縛ることなどできるはずもないのだから。
ただ、何かが奇妙だ……暗闇の中に目を凝らしながら、彼は思う。
混乱に乗じて計画を実行すると聞いていたはずだが、それ以降何ら動きがない。連絡の一つでも寄越してくる頃だと思っていたのだが、耳に仕込んだ通信機はうんともすんとも言わない。
何か予測の出来ない事態でも起こったのだろうか。元よりそのような事態だらけであったことも確かなのだが。
まあ、どうだって構わない。
彼は長い舌で唇を舐めた。元より上の考えていることなど彼にとってはどうでもいい話である。無限色彩が、最強の『青』が何だというのだろうか。彼が求めているのはただ一つ。
最後の機会なのだ、ここを逃すわけが無いだろう?
にやりと、獰猛な獣の笑みを浮かべる。手には剣、脳裏に繰り返すは舞い踊る、白い兎の姿。甘い思考と錆びた刃で、幾度となく彼を退け続けたあのふざけた男は、今もまだ生きてこの場所を目指している。
彼には、その確信があった。
だから彼はここまで来たのだ。全てが終わる、子午線へ……
ラビットたちが無事『飛んだ』のを見送った『白の一番』クロウ・ミラージュは、微かに苦笑を浮かべた。
――――同列のはずの私の能力まで『理解』するなんて。
純白の翼は間違いなく、彼らを目指す場所へと運んだであろう。クロウの持つ『白』はそれを感じ取っていた。
――――本当に底知れないのね、彼の『深淵』は。
感応に特化したラビットの能力は元々空間移動の性質を持たない。そのラビットが今『飛ぶ』ことが出来たのは、間違いなく空間移動の性質を含んでいるクロウの持つ無限色彩を『理解』し、また色彩に『同調』したから。
それこそがラビットの本来の力。
クロウは息をついて、ゆっくりと振り返る。呆然とラビットたちが一瞬前までいた場所を見つめていたセシリア・トーンは、我に返ってクロウを見た。
「さて、私は勝手に抜け出して来たから、そろそろ帰らないといけないのだけど……その前に、貴女一人を飛ばすことくらいは出来るわ。貴女は、どうしたい?」
クロウの言葉に、セシリアは微笑んで、言った。
「私は」
白い翼を見下ろすのは全てを消し去る青い光、『ゼロ』。
絶えて聞こえなかった歌が今再び頭の中に流れ込む。
そう、貴方も寂しかったのだろう。いや、貴方がた全てが、と言った方がいいだろうか。今なら全てが理解できる。閉ざした心では何も理解出来るはずもなかったのだ。
ラビットは目を開いた。その瞬間に白い翼も霧散する。
ラビットと聖、マーチ・ヘアは丘の上に立っていた。眼下には、巨大な船……トワを連れ去るつもりであろう軍の護送船だ。その周囲には、何人もの赤い軍服の軍人が立っている。
そしてその向こうに聳えるのが、トワが待つ、『子午線の塔』。
「おっさん、一気に塔まで飛ばないのか?」
「……いや、無理だ」
聖の言葉に、ラビットはサングラスの下の目を凝らす。今や視力補助装置はほとんどその機能を果たしていないが、その代わりにラビットの中の『力』がそのまま視力を補っているようだった。
「トワの力だろうか。跳躍を止められた。ここから先は無限色彩では飛べない」
小さく、舌打ちする。
トワは、邪魔をされたくないのだろう。そう、自分にはトワが何を考えて塔に向かったのかもわかる。わかるからこそ、追いつかなくてはならないのだ。あの塔の上でその時を待ち続けている、トワに。
「強行突破か」
マーチ・ヘアは心底嫌そうな顔をした。いくら覚悟して出てきたとはいえ、流石に軍に武器を向ける気にはならない。思考としては、間違っていない。
「すまないな、最後の最後まで」
ラビットはマーチ・ヘアを見た。マーチ・ヘアは一瞬ラビットを見つめて……ふいと目を逸らした。
「まだ、アンタを許したわけじゃない。いや、一生許さないよ、ラビット」
「ああ」
「だけど、それと今のこれは話が別。やってやろうじゃないか。楽しくなりそうじゃないか」
マーチ・ヘアの目が、真っ直ぐに前に向けられる。ラビットはそれを見て確かな痛みを覚えた。その痛みは決して消えないだろう。それでいいのだと、ラビットは思う。
その痛みすらも受け入れて、前へ。
「行くぞ」
「ああ」
「任せな」
三人は、駆け出した。子午線から空に伸びる塔に向かって。
Planet-BLUE