光の中から自分を呼ぶ、声。
「ラビット……」
それは、約束を守り続けてきた、一人の少女の切なる声。
あれから、どのくらい経っただろうか。
自分のホバーに寄りかかり、暗い空を見上げて聖は思う。星の光を押しつぶすような青い光がすぐ側にまで迫っているのが、はっきりとわかる。
実際には、それほど時間は経っていないはずである。ラビットの身体はラビット自身の車の後部座席に横たえてある。クロウはそのままにしておけばいいと言ったが、目覚めるかどうかもわからないこの男を白い砂の中に置いておくのは、何となく気が進まなかった。
クロウ・ミラージュは、黒いワンピースを風に揺らしながら、ラビットをじっと見つめている。今まで、ずっと、だ。そして、セシリアも同じように不安げな表情を崩さないまま、ラビットを見守っていた。
「わからないな」
横から、唐突に声が聞こえた。そちらを見れば、マーチ・ヘアが不思議そうな表情でやはりラビットの眠る車を見つめていた。
「何で、あんたらといいあのオカマといい、皆あんな奴のことを心配するんだろうね……死んだら死んだで構わないじゃないか、あんなただの死にぞこない」
多分、それは一応聖に向けられたものなのであろうが、聞いてもらおうとして言っているわけでもないのだろう。独り言にしてはやけにはっきりとした言葉ではあったが、決して答えを求めているわけではない。聖はもう一度ラビットの車に目をやる。聖の位置からではラビットの姿を視認することは出来なかったけれど。
「だけど」
聖は車を見つめたまま、ぽつりと言った。
「どうにも、放っておけないんだよな。それはアンタも同じなんじゃないかな?」
「そう……まあ、そんなもんかな」
マーチ・ヘアは言って、自らが持ってきた重そうな鞄の上に座る。何だかんだ言っていても、抱いている感情は聖と大体の同じなのだろう。
そう、何でもないのだ。聖にとっても、多分マーチ・ヘアにとっても同じ。白兎と呼ばれているあの男がどのような結末を辿ったとしても、自分たちは何も変わらないだろう。ただ、今までと同じ世界に戻っていくだけ。それだけだ。
その中で、一つだけ変わるものがあるとすれば。
聖は目を閉じる。
目蓋の裏に映るのは、ラビットとトワの後姿。いつも、長く暗い影を落としながらも背筋を伸ばして立っていたラビット。そして、そんなラビットのコートの裾を掴んで、不安げに背の高い白い男を見上げていたトワ。
そうやって、ここまで来たのだ。それこそ、マーチ・ヘアの言葉ではないが「ただの死にぞこない」だったはずのあの男は、たった一人の少女の願いを叶えるために走り続けたのだ。
なのに……最後の一歩を、踏み留まってしまった。
その判断が正しかったのか、間違っていたのか、聖にはわからない。元より聖が理解できる世界の話ではない、のだが。
この『二人』の旅を最後まで見届けようと決めたのだ。
――――これ以上、俺を……俺だけじゃない。アンタのことを信じてる奴らを、失望させんじゃねえよ。
わからないでもない。ラビットの傷は深く、踏み留まって当然とも言えないでもない。今までこれだけ否定を繰り返して来たものを今更見つめなおせと言われて、すぐに振り返れるほど、誰も強くない。
それでも。
聖は何故か奇妙な確信があった。逃げ出したラビットを見た瞬間には単に失望していただけだったけれども……
――――いや、アンタが一番、わかってるのかもしれねえな。だから、最後の最後まで、足掻いてた。
迷い、否定し、矛盾に気づきながらも。
不器用に、笑顔を忘れた顔で笑いながら、先の見えない目で前を見つめていたラビットを知っているから。
今ここに立っているマーチ・ヘアも、目覚めを待つセシリアも、多分他の場所でこの長くも短い旅の結末を見つめているだろう誰かも、皆、知っているから。
あの男の持つ「何か」を、今もなお、信じているのだ。
――――そうだろう?
聖は閉じていた目をゆっくりと開けた。
その瞬間、暗闇を引き裂いて、白い光が目を焼いた。
「……!」
世界が白く塗りつぶされる。
ただ、その「白」は決して無機質な冷たい白ではなかった。全ての色を内包し、混沌でありながら優しい温度を伴った白い色。
その中で、聖は幻を見た。
それは、多分『白の原野』で見た幻の続き。セピアの色彩に沈んだ、静寂のコンサートホールの中で、唯一色を持っている存在が、こちらに背を向けてステージの上に立ち尽くしている。だが、こちらを向くまでもなく、それが誰なのかはわかった。
雪のように白い髪に、白い身体を包む黒の外套。手を伸ばして声をかけようとするが、その前に人影がこちらを向いた。
こちらを見た赤い瞳が、不器用に笑う。
笑い方も思い出せないくせに。聖は思いながらも、思わず笑っている自分に気づいた。
白と黒の人影が腕を上げると、セピアの世界が色づいた。そして誰もいなくなっていたはずのコンサートホールに人が溢れる。拍手と歓声、それと同時に響く怒声と悲鳴。全てを受け止めて人影……ラビットは言った。
『待たせたな』
おそらく、聖の耳に届く混沌とした観衆の声は、ラビットの中に存在する記憶の声そのものなのだろう。優しい喜びの記憶もあれば怒りと悲しみに支配された、罪の記憶もある。その中で、ラビットは今まで聖が見てきたラビットと同じように、背筋を伸ばして立っていた。
『さあ、始めよう』
不器用な笑顔を聖に向けて。
白と黒の影は、左の腕を掲げて凛と響く声で宣言する。
『最終楽章だ』
光が、ふっと消える。
聖の視界が戻った頃には、いつの間にかラビットは車を降り、その場に立っていた。ラビットの前に立つクロウは、聖からは背を向けていたけれど、きっと笑っていたのだろう、と思う。
「お帰りなさい」
言われて、ラビットは不器用に笑う。一瞬前に聖が見た幻と同じように。
「……ああ」
「その様子だと、答えは見つかったようね」
聖もマーチ・ヘアも、ラビットに駆け寄る。ラビットは視力補助装置を外した見えない目で二人を一瞥してから再びクロウに目を戻す。そして、ゆっくりと左手を開いた。その中には、青く輝くビー玉が握られていた。
「約束を、思い出した。夢であろうとも、何であろうとも、守らなくてはいけない遠い日の約束だ……それが、答えかどうかはわからないけれど、私は行く」
クロウは満足そうに笑顔を見せた。
「それで十分。迷わないで。迷いは何もかもを鈍らせる。貴方の力も、同じ」
クロウの小さな手が、ラビットの大きな手の上に被せられる。ラビットを見上げるクロウの目は、穏やかな色に輝いていた。
「貴方は迷いさえしなければ何処までも飛べる。私たちの中で唯一、一切の制約を越えて飛べる翼を持つ人。飛び方はもうわかるわね」
「大丈夫だ。ありがとう、ミラージュ」
ラビットもしっかりと頷いてみせ、今度はクロウの横で複雑な表情をしていたセシリアに向き直った。その瞬間に、ラビットの目が微かに揺れたのは、聖の見間違いというわけではないだろう。
セシリアは、何を言っていいのかわからないのだろう。ラビットを見据えながら、ぐっと両手を握りしめていた。ラビットも、軽く目を細めて何も言わなかった。言えなかったのかも、しれない。
しばしの沈黙の後、セシリアがゆっくりと口を開いた。
「現金な人」
「そうだな」
「何も言わないのね」
「何を言っても言い訳にしかならないだろう?」
ラビットは小さく首を振った。セシリアは「そうね」と小さく呟いて、微かに笑って背を向けた。
「本当は、一発くらい殴ってやろうかと思っていたけど、そういえばそんな価値もない人だったわね、貴方は……昔から」
ラビットはセシリアの後姿に向かって、静かに語りかける。
「私は行かせてもらう。貴女はどうする?」
「……貴方でさえ先に行くのに、私だけ立ち止まっているわけにもいかないわ」
ほんの少しだけ振り向いて、セシリアは笑う。
「聖くんにも言われたのよ。怖れるばかりじゃ、何も成せないって」
一歩。白い砂を踏んで空を仰ぐ。
「だから、私は今、私に出来ることをする。それだけよ。貴方が今、貴方に出来ることをするように」
「そうか」
ラビットはほんの少しだけ、硬くなっていた表情を緩めた。セシリアも、空を仰いだまま言った。
「今度こそ、行きっぱなしはやめて。全てが終わったら、帰ってきて」
「わかった。約束する」
ラビットは言ってから、「約束が増えるばかりだな」と小さく付け加えた。遠い日に交わした約束と、今生まれた新しい約束。今までいくつの約束を交わし、時に叶えて時に破ってきたのかわからないけれど。今のラビットを見る限り、その約束は守る気なのだろう。
そんなことを思っていると、ラビットと目が合った。色自体は明るいのに、何かとてつもなく深いものを抱いた瞳に射られ、聖は思わず震えた。見えていないはずの目は、確かに聖を真っ直ぐに捉えていた。
「貴方方は、これからどうする」
聖が口を開く前に、横のマーチ・ヘアが言う。
「いけ好かないあのオカマからアンタのこと任されてるしね。最後までつき合わせてもらうよ。ま、もし、付き合う理由がなかったとしても、アンタが頼りないから勝手についていくけどさ」
マーチ・ヘアの言葉に、ラビットは少々意外そうな表情を浮かべたが、やがて穏やかに微笑んだ。左右が非対称の、歪んだ笑顔で。
「ありがとう」
「礼を言われる理由はないよ。あたしはただ、やりたいようにやるだけ」
「それでもだ。心強い」
何となく、気恥ずかしかったのだろう。マーチ・ヘアは「あ、そう」と言ってぷいと横を向いてしまった。
そして。
聖はラビットと改めて向き合う。前にも一度、こんな瞬間があったと思う。そう、あれは『青』とラビットの監視が打ち切られた時、だった。あの時は、ラビットは厳しい口調で「考え直せ」と言った。実際に、聖のようなごく普通の人間が首を突っ込むような話ではないということは、わかっているのだ。
それでも――――
「俺は、ついていくからな」
最後まで。
「おっさんがどうするか見届けるって、言っただろ?」
あの時と同じ言葉を口にして、聖は笑う。迷わないと言ったら嘘になるけれども、再び立ったラビットの背を見逃すわけにはいかないという思いの方が、強かった。
また、同じように止められるだろうかとラビットを見上げると、ラビットは歪んだ笑顔のまま、淡々と言った。
「そうだったな。最後まで付き合ってもらうぞ、聖」
当たり前のように言われて、聖は一瞬自分の耳を疑った。「本当にいいのか」と問い返したくなったけれど、愚問だからやめた。ラビットは、今の瞬間確かに聖を認めていたのだ。
だから、問い返すかわりに、強く……強く、頷いた。
「ああ」
全てを見届けたラビットは黒いコートを翻し、クロウに向かって言った。
「ミラージュ、セシリアを頼んだ。それから」
ラビットの目が、自分の背後にある車に移される。
「龍飛」
『はい』
「必ず天文台に帰る。データを本体に転送しておけ」
流石に、これから目指す場所に龍飛までを連れて行くわけにはいかないのだろうが、「必ず帰る」というラビットの言葉には、車の中の龍飛も驚きを隠せなかった。しかし、次の瞬間には、静かな喜びと期待を込めた言葉を、返す。
『了解しました』
これで、全ての準備は整った。ラビットはもう一度左手のビー玉の感触を確かめながら、聖とマーチ・ヘアに言う。
「トワは、今もまだ地球にいる。今から彼女に会いに行こうと思う。当然、素直に会わせて貰えるとは思わんが……覚悟はいいな?」
「もちろん」
「バカにしないで」
二人は同時に言った。ラビットも深く頷いた。
今までもあらゆる相手が立ちふさがり、その度に何とか切り抜けてきたのだ。今度は、相手が半端なく多く、また大きいだけ。切り抜けるのは易しくないだろうが、切り抜けなくては、約束を守ることはできない。ラビットの目にも、迷いはなかった。
「では、行こうか」
ゆっくりと、左腕を掲げる。その瞬間、実体を持った純白の翼が展開する。『白の原野』で見た同じ翼による惨劇を思い出し思わず一歩退いてしまう聖に向かって、ラビットは淡々と言った。
「もう、繰り返しはしない」
淡々としていながら、確固たる決意の篭った声。
そうでなくては、と聖は笑う。
恐怖が残っていないと言えば嘘になるが、意志を込めて言い切った時のラビットの声は全てを信じさせてしまうだけの力がある。今までその声に導かれるようにしてここまで来たのだ、ここから先も、きっと。
翼はゆっくりと、ラビットの意思に応えて広がる。そこにかつて見た狂気や怒りはなく、静かなラビットの心をそのまま映し出しているように見えた。
聖とマーチ・ヘアはラビットに一歩近づく。限界まで広げられた翼は、三人を包み込む白い檻になる。翼に包まれると、白い色以外何も見えなくなる。
「深淵は、水鏡を映す」
白い世界の中で、ラビットの声だけが響く。おそらくそれは、ラビットにだけ理解することのできる、『無限色彩』の呪文。
「……『白き渦』展開」
ごう、と耳鳴りにも似た音と共に、上下の感覚が失われる。聖はその中で、ラビットを呼ぶ小さな少女の声を聞いた気が、した。
Planet-BLUE