「私、夢を見ていたの」
最後に見たのは真紅の炎。
白い怒りと悲しみを、全て包み込んだ赤い色。
「ステキな夢よ。白い男の人と、不思議な女の子の話」
その中で言葉を紡ぐ彼女は、笑っていた。
それは、夢などではない。彼女の無限色彩が見せた、彼がこれから辿るであろう誰も知らない未来の断片。今この瞬間までは途絶えて見ることができなかった彼の、未来。それを見ることができて、彼女は嬉しそうに、笑っていたのだ。
自らの命の灯が尽きるその時まで。
「私は、いつでも貴方の側にいる……貴方を、思い続ける。貴方の思いに、生き続ける」
未だに彼女の死を本当に受け入れることはできていない。自分の命が、彼女の命よりも尊いものであるとは到底思えない。
だが、今この場所に立っているのが自分であることは事実で。彼女がもう手の届かない場所にいることも事実で。それならば、今、自分がすべきことは。
「貴方の深淵で、ずっと」
死してなおこの心の底でずっと見守っていた、彼女に報いること。
彼女に報いることとは何か。それは……
「だから」
最後の、彼女の言葉を、守ること。
「幸せを、忘れないで」
子供のように泣きじゃくる彼を抱きしめて、ミューズは微笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、辛かったでしょう」
何処までも優しい声が、降ってくる。
「わかっていたの。貴方にとって一番、思い出すことが辛いってこと」
記憶は残酷だった。悲しかったこと、辛かったこと……そして、嬉しかったこと。過去というのは鮮やかに刻み込まれながらも決して手が届かない、そういうものだから。だから否定していた。
否定すれば、思い出すこともないと思っていたから。
悲しくて優しい記憶が、影を落とすこともないと思いたかったから。
「だけど、逃げないでほしかった。貴方が否定しようとした、全ての思い出が貴方をここに立たせているの。今の貴方を形作っているの」
涙を溜めた目で見上げれば、白かった空は今や無数の記憶に彩られていて。悲しい記憶も多い。しかしそれ以上に温かく優しい記憶があった。
「思い出が残すのは影や傷だけじゃない。今の貴方ならもう、わかるでしょう」
「ああ」
空に映るのは、手の届かない場所で笑う人々。決して過去には戻れない、その事実を今まで怖れてきたけれど。
戻れないのであれば、今度は……
乱暴に涙を拭いて、彼は微笑むミューズを見つめた。
「もう、決して貴女との思い出を無駄にはしない」
ミューズは最後に言った。『幸せを忘れないで』と。幸福の存在を知らなかった……いや、気づいていなかった自分に、それを気づかせてくれた人。そして、彼女はかつて言っていたはずだ。一つの幸福は永遠ではない。しかし。
『幸せの意味を知っている人なら、どんな時にも幸せを見出せる』
そう言ったあの時と同じ笑い方で、ミューズは笑う。だから、彼も笑った。自分がどんな顔をしているのかはわからなかったけれど、ミューズが満足そうな表情をしているので、きっといつもよりはずっと上手く、笑えていたのだと、思う。
「……ありがとう、ミューズ」
ミューズはずっと、それを伝えるためにここにいたのだ。時に理想の姿を借りて夢と現実の両面から彼を叱咤し、時に小さな声で彼と同じように迷い続けていたトワに呼びかけながら。
……実際には、自分が抱きしめているそれはミューズ本人ではないのかもしれない。かつての理想として、自らと切り離しこの心の海に沈めていたクレセントと同じように、過去の幸福をそのまま形にした幻であるのかも、しれない。
それでもいい、と彼は思う。
自分は、最後の最後までミューズに助けられていたのだ。ミューズが死んでもなお、彼女の思いがこの心の中に残っていたからこそ、この場所に立っていられるのだ。彼女にはいくら感謝しても足りない。
だが、もう、それも終わろうとしている。
ゆっくりと、足元の水面に波紋が広がる。空からきらきらと雪のように白い小さな欠片が降り注ぎ始める。冷たくも温かくもない破片。それは……
「貴方の世界が、開かれようとしているの」
ミューズは空を見上げて言った。
「白く空を塗りつぶし、貴方の時間を止めていた夢が、終わる。もう、この世界に逃げることはできないけれど……大丈夫よね?」
何処までも優しい笑顔で、赤いドレスの女は笑う。
不安でないといったら嘘になる。彼はあまりにも長い時間、この全てが止まった世界で生きてきた。過去を否定し、全てを否定し、現実に存在していながら前に進もうとはしなかった。
今から、一歩を踏み出して何になるというのか。消せない罪を償えるとでもいうのか。誰かが罰を与えてくれるとでもいうのか。
答えは、出ない。
ただ一つだけ、はっきりとわかっていることは。
ミューズの身体を抱きしめながらも、左手の中に握ったままだった温かな硝子球。彼女との約束は今もなお、生き続けているということ。彼女は一人で、約束した相手を待ち続けているのだ。
無限色彩『青』の保持者として。そして、たった一人の少女……トワとして。
数々の約束を破り続けてきたけれど、最後に残されたこの約束だけは果たさなくてはならない。
それは彼女のため、そして、自分自身のために。
彼は、もう一度青いビー玉を握りなおして、ミューズに向かって強く頷く。
「大丈夫だ」
その瞬間、ミューズが小さく背伸びして、彼の唇に口付けた。それは一瞬で、唇と唇が軽く触れるだけのキスだったけれど、柔らかな感触は五年前と全く変わっていなくて、彼はほんの少しだけ笑みを歪めた。
多分、寂しさに。
ミューズもまた、明るい色の瞳に一抹の寂しさを混ぜながらも、一際華やかに微笑んだ。左右がほんの少しだけつり合っていないものの、その特徴が余計にミューズの笑顔を魅力的なものにしていた。
この笑顔を見るのも、最後。
もう一度強く、細い彼女の体を抱きしめてその温もりを感じる。もう、涙は出なかった。あの時は冷たくなった身体を抱きしめたまま、怒りと悲しみの中で別れてしまったけれど。
ミューズは彼を見上げて、微笑みのまま唇を動かす。
「……さよなら」
だから、彼も、不器用に笑う。
今度こそ笑って、最後の言葉を告げようと決めていたから。
「さようなら、ミューズ」
言葉は引き金。
別れの言葉を告げた瞬間に手の中のミューズはドレスと同じ色の赤い花弁となって、燃え上がるように霧散した。それと同時に白い空に大きな皹が入る。空一面に嵌め込まれていた鏡が割れたかのように、今度は小さな空の欠片ではなく大きな刃を思わせる破片が青いココロの海に向かって降り注ぎ始めた。
世界が、終わりを告げようとしていた。
独りきりになった彼は、青く吸い込まれそうな色をした水面の上で、空に向かって左の腕を伸ばす。
腕から伸びる白い翼が力強く羽ばたいた。この翼で空を飛ぶことはできないけれど、この閉ざされた世界から自分を解放することはできる。
悲しみも怒りも優しさも、全てを受け入れながら白く。何よりも自由で、何にも縛られることのない心……それが、彼の翼。
もう、ミューズは何処にもいない。かつて幸福を語ることのできた、温かな過去に戻ることはできない。ただ、過去に自分が見つけたものは、全てこの白い翼に込められている。分け与えられた色彩も、悲しくて優しい思い出も、小さくとも大切な幸福も。
後は、羽ばたくだけ。
自分の意思でこの閉ざされた世界から飛び立つのだ。
新たな、幸福の場所に向かって。
一瞬、彼は空から揺れる水面へと視線を移した。色を失った自分の姿もまた、水面と共に揺れて見えた。自分が自分を否定した時に失ってしまったその色は永遠に戻らないのだろう。
それもまた、自分の罪の一つであるのならば、背負って生きていこうと思う。この命がどれだけ残されているのかはわからないけれど。
誰かが、自分を呼んでいる。閉ざされた空の先から、目覚めよと呼ぶ声がする。
「行こう」
彼の頭上に一際大きな破片が降り注ぐ。その破片をゆっくりとした足取りで避けて、水面を蹴る。
体が浮き上がる感覚。同時に視界を埋め尽くす白。
「さようなら、私の夢」
言った瞬間に、白の世界を貫いて、光が――――
Planet-BLUE