それは否定であり、肯定であり。
悲哀であり、幸福でもあり。
反転にして矛盾の主。
見据える目は何処までも鋭く、何処までも深い。白く小さな存在である彼をそのまま押しつぶし、折ろうとする強靭な意志が込められているのがわかる。
そうか、こういう風に、映っていたのか。
彼は思う。今まではそんなことを考えたこともなかった。クレセントは全てを凍りつかせた瞳のまま、右手を上げる。瞬間、圧縮された空気が彼に襲い掛かる。水面を切り裂き、彼をそのまま喰らおうとする風。
だから、彼も右腕を上げて、言った。
「……『疾風喰らう翼』 」
刃を模った風はこちらの生み出した風とぶつかり合い、飲み込み合って消滅する。
先ほどと同じ、応酬。だが、何かが先ほどとは違った。クレセントは『闇駆ける神馬』で彼に肉薄しつつ、言う。
「何故、還ろうとする!」
先ほど見た『深淵の白』そのものであった存在と同じ姿で、それでいてずっと研ぎ澄まされている意志……殺意にも近い、思考。彼を圧倒しようとする魔法の形を借りた何かは、目の前に立つ男の感情そのものを体現していた。
「沈んでいればいい、貴方の心の海に。そうすれば、黙っていても全てが終わるのだぞ、白兎! それが元より貴方の願いではなかったのか!」
色のない、白い空に浮かび上がるのは、古い天文台の画像。それは目の前の男の記憶であり、また彼自身の記憶。何も望まず、ただそこに存在し終わりを待つことを選んだ彼の居場所。
静かで、何にも干渉されず。その静寂に溶け込んで消えることができればと願う彼の心を具現化したかのような、時間の止まった場所。
「そう、それが私の願いだ。何とも触れず、時間を止めて……終わりを待っていたかった」
同じく高速移動の魔法を展開し間合いを離した彼に対してクレセントが放つのは、光輝く青い槍。心を折る力の塊。彼も迷わず同じ力を放つ。青い光は中空でぶつかり合い、相殺され霧散する。
「いや、あの時からじゃない……自分の時間を止めたのは、もっと昔の話だったのかもしれない」
それこそ、全てを壊してこの力を自覚した幼い日。
その時から、自らを否定し立ち止まり続けていたのかも、しれない。
何もかもが倒れ付した白い、白い世界にただ一人、立ち尽くしたあの日の孤独が、彼の足を無意識に縛っていたのかも、しれない。
「だが、もう否定は終わりにしよう。時は動き出す。私は、『私』を肯定する」
言った瞬間、クレセントの姿が、微かに揺らぐ。その奥に見えたのは、彼が思っていた通りの「存在」。しかし次の瞬間にはクレセントの左腕の延長線に伸びた長い剣『万物裂く聖剣』が迫っていた。
彼はぎりぎりでそれをかわす。同時にすれ違いざまに『死を喰らう疾風』を放つ。まさかこのタイミングで放たれるとは思ってはいなかったのだろう、クレセントはもろにその一撃を喰らって大きく吹き飛ばされる。
彼ももう一度水面を蹴って下がると、ゆらりと立ち上がったクレセントが歪んだ笑みを浮かべていた。
「許されるとでも、思うのか。貴方は罪を犯しすぎた。貴方の背後にある屍を直視できるとでも?」
すっとクレセントは左腕を挙げ、彼の背後を指差す。彼がそちらを向くと、白かったはずの空間に、無数の人影が見えた。誰もがこちらに向かって手を伸ばし、苦悶の表情を浮かべている。
息を飲む。彼の心の揺らぎを反映してか、足元の水面が波打った。
その中心で、誰かが手招いている。昏い瞳をした子供と、その両親だ。時間が止まったあの日のままの姿で、彼を「こちら側」に引き込もうとしている。
「許されようとは思わない。私が犯した罪は消えない」
彼はその無数の影に背を向けることなく、決然と言った。
「ただ、そちらに行く前に、やり残したことがある。それまで、待っていて欲しい」
待てるものか。影が言う。貴方がいなければ、我々はこの場に立つことはなかった。貴方のせいだ。貴方の存在が全てを狂わせたのだ。
彼は目を軽く伏せて、短く息を吐く。
「わかっている、クレセント。この場所は、私の世界だ」
彼の背に向けて左手の剣を振り下ろそうとしたクレセントに向かって振り向かずに言い放つと、右腕を振り上げてぴたりと紋章の描かれた掌をクレセントの胸に当てた。
「この影は私が生み出した悔恨の念。死者は何も語らない……貴方も、また同じだ」
剣を振り上げ、何処までも深い青の瞳で見据えてくるクレセントを見て、彼は何故か、泣きたくなった。
彼の背後に存在した影は消え去り、空白を取り戻した空に映し出されるのは、彼が今まで紡いできた記憶。始めは色あせていたそれが、段々と色づいてくる。
「私は、ずっと……そう、ずっと自分の力が、『無』に帰す力だとばかり思っていた。自分に触れた全ての人間の心を壊して、白に還す。そういう風に、この力を認識していた」
クレセントは剣を彼の腕に向けて振り下ろそうとする。彼は力を込めてクレセントの身体を突き飛ばし、もう一度距離を取る。
「だが、今ならわかる。私の力の本質は全く別のものだった」
クレセントはこちらをぎっと睨みつけ、右腕で左腕を押さえた。眩い光と共に左の二の腕から純白の翼が伸びる。無限色彩を具現化した、心の翼。何にも染まらぬ白い色を湛えているというのに、圧倒的な混沌を象徴する『力』。
今までは禍々しいとしか思えなかったそれも、全てを肯定し理解した今では、ただ、悲しい。
彼も一歩踏み出すと、左腕の翼を展開する。極彩色の記憶を背景にして、白い翼ははっきりとした姿を保ち彼の左腕の上に収まる。
「光を全て混ぜると、白となる。……そう、全ての色を内包し、また受け入れる。それが、この『深淵の白』の本質だ」
混沌の色を全て受け入れたからこそ、白く輝く翼。
やっと、わかったのだ。自らもまた、この白い翼を受け入れることができたから。否定をすれば否定の形で顕現する……全てを『白』に帰す力。ならば、肯定をすれば、どのような形でこの力は展開されるのか。彼は、今までそれを知らずにいたけれど。
「貴方は、始めからそれに気づいていたのだな、『クレセント』……いや」
ざあ。
クレセントの足元の水面が持ち上がり、蛇の顎を模る。クレセントの目は真っ直ぐに彼を見据えている。だから、彼も言葉を止めて、左腕を上げる。白い翼がばさりと羽ばたく。早くその力を振るえとばかりに強大な力で主張する。
もちろん、それを許すわけにはいかない。この翼を縛ることができるのは、唯一己の意志のみ。今まで自分は一度とて、この翼を本当の意味で扱ったことはない。望まずして振るったことはあったとしても、本気でこの翼を縛り操ろうとしたことはなかったのだ。
故に、奇妙だったのだ。目の前に立つクレセント……いや、クレセントの姿をしたものは、己の翼を自在に操っていたから。
本物のクレセントならば、ただ、この力を怖れて封じるだけだったから。
これは『理想』なのだ。自分の、そして自分を一番よく知っていた、誰かの。
青い水の蛇は今や彼よりも巨大な顎をもって彼を噛み砕いて飲み込み、再び深淵へ落とそうとする。しかし彼はもう怖れない。左腕を真っ直ぐに蛇に向け、歌うように呟いた。
「一緒に行こう」
空気が変わる。彼の周囲の水面が渦巻き、蛇は迫る。
「深淵は華燭を映す。『赤の帳』展開」
彼の声が、全てのスイッチを入れた。白かった空が夕焼けの色に染まり、純白だった翼もまた、紅に染まる。ふわりと水面に落ちたひとひらの羽はまるで赤い花弁のよう。
それは、いつか見た、ドレスの色。
もう二度と会えないと思っていた女性の手首に輝いていた、小さな石の色。
翼はゆったりと一回羽ばたくと、燃え盛る真紅の帯となって蛇の顎を貫いた。とてつもない熱を持った一条の光に貫かれた蛇は、一瞬で霧と化す。そして、そのまま勢いを止めない炎の帯はクレセントへと、迫る。
クレセントは避けなかった。
ただ、笑っていた。彼にはできない、穏やかな笑い方で。
「そう、それでいい」
赤い光に飲み込まれたクレセントの声が、響く。いや、それはもう既にクレセントの声ではなかった。懐かしい響きの……遠い、記憶の声。
「貴方は、『何にでもなれる』。それが、『深淵の白』である貴方の本来の力。受け入れた『色彩』を己の力とする、異端でありまた一番本来の姿に近い、ココロの力」
彼はがくりと水面に膝をついた。翼は元の白い色を取り戻し、左腕の上でゆったりと羽ばたき続けているけれど。
まだ漂い続けている霧の奥から、ゆっくりとこちらに向かって歩んでくる、その姿を見た瞬間に、目から涙が零れた。
気づいていたつもりではあった。
自らを責め、また駆り立てるクレセントの姿を見るたびに、何かがおかしいと思っていた。それは本来のクレセントとは程遠い存在だったから。それこそ、彼のイメージする「理想」のクレセント。
だが、それだけではないと、気づいていたのだ。
もしもこれが彼の夢想する理想であったならば、理想が現実に成り代わってしまえばよい。彼ならば……そして、彼が力を否定する余りに力の一端を握ることとなった「理想」のクレセントならばそれが可能だったはずだ。
しかし、クレセントは決してそうしなかった。逆に彼を責め駆り立て肯定させようと声を張り上げる。それは、彼の理想ではない。
ならば、こうは考えられないだろうか?
「……やっと、そう、やっと全て思い出したんだ」
「理想」の姿を借りて、ずっと。
「貴女の、最期の言葉を」
彼を愛した『彼女』の心が、彼自身の無限色彩を媒体として、この深淵に生き続けていたとは。
霧の奥から現れた女は、ゆっくりと手を開いた。
それは、彼の記憶と同じ。炎を思わせる赤いドレスを身にまとい、オリーブ色に染めた髪を揺らして、明るいブラウンの瞳で笑っていた。
彼は手を伸ばす。その存在が「イメージ」だとはわかっていても、そうせずにはいられなかった。
全て、全て記憶と同じ。その温もりも、柔らかさも、全て。
そっとその身体を抱きしめて。
「よかった」
女が優しい笑顔で囁いた、その言葉を聞いて。
「ミューズ……!」
彼は翼を掲げた腕に力を込めて、その儚い存在を確かめながら、泣いた。
Planet-BLUE