『そう』
意識の底で、記憶の濁流の中で、囁く声。
『貴方は、望みさえすれば、何にでもなれる』
世界が歪み、形を変えていく中で。
腕を突き出した彼の目の前に現れたのは、黒い髪を長く伸ばした鏡のような男だった。
いや、立っているという表現は確かではないのかもしれない。天も地もないこの空間では。彼と、男。もはや封じられた記憶も全て解放された今、その二人しか存在しない空虚の深淵。
彼は流れ込む記憶の重さに押しつぶされそうになりながらも、きっと男を見た。片目を縫い付けられた、黒髪の男。そのもう片方の目はよく知る夜闇の青。
『それが、貴方の答えか』
男の唇から漏れるのは、淡々としながら脳髄を貫くような声。
「それが、私の答えだ」
同じ声で、彼は返す。
「今、やっと全てを理解した。貴方は」
すぐに理解すべきだった。自分の全てが反転したような、この男を見た瞬間に。この男の口から放たれた言葉を聞いた瞬間に。
理解できなかったのは、自分の頑なな否定の意志ゆえ。
何もかも、否定することはできなかったのに。完全に否定できなかったからこそ、この男が存在したのだ。
「貴方は、私が創ったイメージだ……私が否定した、『力』そのものだったのだな」
かつて、この鏡のような男は言った。
『貴方は私を恐れた。だから私に「私」という存在を定義し、この深淵に沈めた。貴方が否定した「私」にまつわる全ての記憶と共に』
「本来純然たる『力』に人格などない。ただ、私は思いこみたかったのだ。自分の過ちが、自分の弱さではなく、自分の『力』から起こったものだと。『力』のせいで、自分は過ったのだと」
『力』を扱うのは、あくまで自分自身だというのに。
「だが、今だけでも、向き合わなくてはならないと気づいたんだ。彼女が、トワが今そうしているように、私も貴方と向き合わなくてはならない」
時間は戻らない。罪は消せない。この手を濡らした赤は今でも目には見えないながら染み付いていて、それは変えようもない事実。愚かしく醜い、臆病な罪人。それでも彼は手の中のビー玉を握り締める。約束の証を、握り締める。
「それが彼女との約束だから。そして、私自身への、約束だから」
彼は見る。片目の男の目に映る自分の姿を。白い髪に白い肌、赤い瞳の白兎。かつての姿は失えど、それが『自分』であることは間違いないのだ。
今度こそ、逃げてはならない。全てが夢や幻だと思い込むのは終わり、ここに立っているのは自分自身。そう、全ては現実なのだ。
だから。
「私は貴方を受け入れよう、『深淵の白』。貴方は私の力だ。私自身だ」
男……無限色彩『深淵の白』そのものである存在は、ほんの少しだけ笑う。左右非対称の、歪んだ笑みではあったけれど。
『そしてまた、「私」を怖れ、怖れるが故に全てを壊すと?』
「まさか」
彼もまた、目の前の男と同じように、笑う。どのように笑うのかは忘れてしまったけれど、いつか思い出せればいいと思う。自分に残された時間は本当にわずかではあるけれど。
「怖くないと言ったら嘘になる。私が『力』を一度とも使いこなせたことがないことは、確かだ。だが、今だけでも心から信じてみようと思ったんだ。私が、常に信じたいと思っていたことを」
信じたい、と繰り返すだけで心から信じていなかったのも自分。
何て愚か。
「貴方は、笑うか?」
だが。
愚かであろうとも、今はただ、背筋を伸ばして立とうと思えた。やがては罪と罰に押しつぶされることになろうとも、今だけは自らの足で立とうと決めたのだ。約束を果たす、その瞬間まで。
鏡のような男は、歪んだ笑みのまま、言った。
『笑うさ。だが……貴方は、やっと「私」のことを見てくれたのだな。一度とて、「私」と真っ向から向き合おうとしなかった貴方が』
す、と男は左の手を伸ばす。その手は、醜く焼けただれていて、またその手の形には彼も見覚えがあった。
『今だけでも信じてみせろ。否定し続けた貴方自身を。そうすれば、「私」は貴方に応えるだろう』
彼も、ビー玉を握ったままの左手を突き出した。人工的に再生した肌に覆われたその手の形は、目の前の男と全く同じ形をしていた。
そう、この男の姿は彼が無意識に時間を止めてしまっていた、あの瞬間の彼そのままの姿。黒い髪も、青い瞳も、焼け爛れた肌も、全て。彼がこの深淵に封じていた過去そのものだったのだ。
「ああ」
彼が頷く。それと同時に、男の細い指先が彼の握り締めた手に、触れた。
接触した一点から溢れ出す眩い光。
それは、白い光の中にあらゆる色を包括した、無限の色彩。
『 「私」は貴方の中に眠る無限色彩、「深淵の白」 』
何もかもを塗りつぶす光の中で、手に触れる指先の感覚だけが残る。彼はその中で目を見開き、光の中にある何かを探そうと目を凝らす。
『貴方は元より、無限色彩に一つのことを望んでいた』
「一つの、こと……?」
『貴方は、自らの無限色彩が精神感応に特化していると認識しているが、それは間違っている。それが「貴方の望み」だったからこそ、「私」は精神にのみ干渉する力となった』
声と共に光が、身体の中に流れ込んでくる。だが、それは今まで怖れていた「力」とは思えないほど温かく、力強いものであった。
『貴方は、人間というものを本能的に怖れていた。だが、同時に何より愛してもいた。故に貴方は強く願ったのだ、「人間を理解したい」と。理解は怖れを遠ざける。そう信じた貴方の心が精神感応に特化した無限色彩の形を生み出したのだ』
声と共に頭の中にちらつくのは、貧しくも温かかった家の風景。両親がいて、兄弟がいて。今は全て自分の元から遠ざかってしまったけれど、幼い自分は一体何を思ってその中にいたのだろうか。
人は楽しければ笑う。悲しければ泣く。刻々と変化する感情は、自分……特に感情を読み取ることに長けてしまっていた幼い頃の自分にとっては理解できないものであったと思い出す。何もかもを愛していながら、何もかもが怖かった。
恐怖と愛情。
相反するようで、誰もが抱いている感情。それがただ、人より少し強かった。それだけだったということに今更になって気づかされる。
『だが、理解したからといってそれが正の方向に働くとも限らない。知らない方が幸せなことも多い、ということを幼い貴方は知らなかった。無限色彩によってもたらされた理解は貴方の中で怖れと絶望を増幅させる。そして増幅された感情は無限色彩によって暴走という形で表れる』
「……そうだ、そうだった」
あの日、幸せな日々を終わらせた瞬間。愛する人に突きつけられた刃。そこに乗せられた感情は自分に対する畏怖と嫌悪。人間を理解できないままであれば、ただ混乱のままに終わっていたはずだったのに、何を思い刃を向けるのか、理解してしまっただけに。
「だが、それでも」
刃が振り下ろされる瞬間に。
「愛していたんだ。私は、彼らを、愛していた」
憎悪とは違う、ただ、絶望したのだ。どれだけこの力で心に近づいても、どれだけ自分が愛しても、その思いが本当に届くことはないということに。
『貴方は無限色彩を言い訳にして、心を閉ざした。実際無限色彩はその方向に働いた。貴方が思うような貴方を形作るために。それが、貴方の望みだったから』
自身を否定するようになったのは、初めて大切な人を殺めたその時からだった。幼い心に生まれた歪みは、その瞬間から少しずつ、少しずつ、彼の心に影を広げていた。
『何かに触れれば傷つけるように。必要以上に人に近づかないように。しかし貴方はまだ心の奥底では人間を信じようとしていた。人の中にある、負の感情も正の感情も同等に理解してしまっていたから……全てを、否定することはできなかったのだ』
何もかもに背を向けようとする弱い心。
人の温もりを切り捨てようとする心。
他者との違いを怖れる心。
誰かのために剣を抜くことのできる心。
優しさを失うまいと足掻いていた、心。
その全てが矛盾しつつも確かに存在している。それが彼自身であり、人間という生き物そのものだったのだ。
そんなこと、始めから知っているはずだったのに。
『見えるだろう、白兎』
手を引かれて、彼は顔を上げる。光の渦の中に浮かび上がったのは、今まで出会ってきた人々の影。一人、また一人と、彼には背を向けて、自らの道を歩いていく。それを見送るばかりの、彼。
『貴方は全てに気づいているのだ。後は、それを認めるだけ』
彼は『深淵の白』の言葉を聞きながら、既に白い光の世界に溶け込もうとしていた影の背を見つめる。いくら壁を作ろうとしても、自分に近づくなと警告しても、自然と引き寄せられ絆を結んできた人々の影だ。否、本来は自分もまた絆を求めていたのだ。人は一人では生きられないということも、よく知っていたから。
ただ、自分は忘れようとしていたのだ。人は一人では生きられない。だが、人は立ち止まってはいられない、刻々と変化していく存在であるということ。
皆、変わっていく。
自らの道を歩いていく。
立ち止まっていたのは、自分。
時間を止めたのは、自分。
光の先に消えようとしていた影たちが、一瞬こちらを見た気がした。自分は許されるはずない、そう思っているのに何故だろう。彼らは、笑ってこちらに手を差し伸べていた。
「ありがとう」
彼は、精一杯の笑顔を浮かべた。自分が今どんな顔をしているのかはわからなかったけれど、笑って言った。
「私も、すぐに行く」
言葉は力になり、止まっていた時間が動き出す。
爆発的に広がっていた光はビー玉を握り締め突き出していた左の腕に収束して、純白の翼を形作る。それは酷く重く、今にもはちきれんばかりの力を秘めていた。今までと、そこは少しも変わらない。小さな身体には重過ぎる翼。
それでも彼は怖れなかった。今だけでも、この力を信じようと決めたからには。
光が収束し、世界は一番初めに見た、白い空と青い海の空間に戻っていた。この映像の意味も、今ならばわかる。重たい白い空は自分では届かないと思っていた、自らの力そのもの。底のない青い海は、彼の怖れそのもの。
何に対する怖れか。
それは。
彼は目を海の先に向ける。その先に立っていたのは、反転の主。先ほど見た男が彼の『力』そのものだったとしたら。
青い瞳が彼を射る。足元に広がる、深い海の青。夜の底すらも思わせる虚ろな青。
この男が象徴するのは、怖れであり、遠い日に夢見た『理想』そのものなのかもしれない。彼は思いながら、左腕を上げる。はらはらと白い羽が白と青の世界に舞った。
翼はここにある。後は羽ばたくだけだと誰かが言う。
『全てを認めれば、貴方は高みへと飛べる。……そう、貴方の知らない本来の「深淵」へ』
知っているのに知らなかった、領域へ。この左腕の翼が司る本来の力を呼び覚ます時だと、『深淵の白』は言う。彼は小さく頷いて、今度こそ逃げられない『理想』と対峙する。
遠い日の『理想』、その名はクレセント・クライウルフといった。
Planet-BLUE