無限色彩。
人の心をありのままに映しこむ、鏡のような力。心を弱く持てば一瞬でその通りに変質してしまうような、本来人間の心だけで支配できるはずもない、膨大で掴みどころのない力。そう、今の自分がまさにそうだ。真っ赤に染まった右手を見て、思う。
だから、少女の姿にかつての自分が重なるのか。
まだ、人として生きていけるかもしれない、この少女に。もう、取り返しのつかない『化け物』である自分の過去を重ねるのか。
――――愚かしい。醜い上に愚かか。
無意識に、口元が笑みを模っていた。こんな時に笑うなど、どうかしていると思いながらも、涙で頬を濡らす少女の前に、膝をついて、言った。
「その力は、大切なもののためにあるのだろう」
自分には、できなかったことを。
「たいせつなものの、ため?」
「そう、力はいつも使うようなものではない。気安く使ってはいけない。貴女の力はそのくらい大きなものだろうから。ただ、本当に、貴女が望んだ時……貴女が、本当にその力を使っていいと思えるくらい、大切なものを見つけた時。その時に、使うものなのではないだろうか」
……この、何も知らない少女に託そうというのか。
少女はまだ涙が溜まったままの目で、不思議そうにこちらを見上げる。その片手は、軍服の袖を掴んだままだった。
「たいせつなもの、って、なに?」
「さあ……それは、人によって違うだろう」
自分には、そう言えるものがあっただろうか。いや、それ以前に強大なこの力を否定するばかりで、何かのために振るおうとすることなど考えたこともなかった。力を振るうほど大切と言えるものを、自覚したことはなかった。自ら言いながらも、その矛盾は拭えていない。
自らの口から放たれる言葉が理想だとわかっていても、それでもなお、言葉を紡がずにはいられない。
「大切なものとは、自分の心の中に深く根付いて、なくてはならない存在のことだ。今はわからなくとも、きっと手に入れたらわかる。手に入れても、初めはそれだとわからないかもしれないが、やがて理解できる」
そうであってほしい。
言いながら、思う。自分にはもう二度と叶えられないであろう望み。この呪われた力で何かが成せたらいいという幻想。
何て愚か。何て醜い。信じるにも値しない、罪人の戯言。
それでも少女は、彼を真っ直ぐに見上げた。頬に涙の跡が残ってはいたが、先ほどの悲しみの色は消えていた。
「それを、さがせばいいの?」
「探して見つかるものかどうかはわからない。ただ……探すのも、一つのやり方かも、しれないな」
こんなことを言って、何になるのだろう。
ただ、言いながら、自分もまたそう信じたいと思っていることに気づかされた。
無限色彩という名の生まれながらにして人の身にあまる力を持った人間。無限色彩がココロの力だというのであれば、その一瞬だけでも、応えてくれたらいいと思う。
『大切なもの』のために何かを成そうという、その一瞬だけ。
「うん、わかった」
こちらの葛藤に気づいているのかいないのか、少女は聞かされた言葉を信じて力強く頷いた。ただ、その目の中には一抹の不安も見て取れた。何だろう、と思っていると、少女は言った。
「おにいさんは、もう、いっちゃうの?」
そうだ。
自分は帰らなくてはならないのだ。自らが赤く染めた道を通って。そう考えるだけでも頭痛が増していたけれど、この赤く染まった身をこの場所に置いておくわけにはいかない。
この少女だけでも、自らの理想の世界で生きていてほしいと、願ったから。
「ああ、行かなくては」
立ち上がろうとした袖を、再び強く引く少女。見れば、少女は寂しさ以上に意志の強そうな表情を浮かべていた。
「……おねがいが、あるの」
その言葉を、どこかで聞いたことがある気がした。
そう、あれは骨董品のような天文台で。こちらを見上げる青い……海色の瞳をした少女。この少女よりも少し大人びて、青銀の髪も長く伸びていたけれど。
――――それは、『いつの話』だ?
困惑が広がる。少女は、その困惑を知らず唇を動かす。
「わたしが、もしもたいせつなものを、みつけたら」
青い瞳。
それは、鏡。
映しこまれた彼は、泣いているような、笑っているような、奇妙な表情を浮かべていた。
ああ、気づいていたのだ、この少女も。目の前に立っている血塗れの男が、少女に託したものと全く同じものを、望んでいることに。
だから少女は、微かに笑って、言うのだ。
「そのときには、わたしと」
彼が長らく忘れてしまっていた、言葉を。
「いっしょに、いてくれる?」
こうやって、袖を掴んで、二人で並んで。
二人で一緒に、大切なもののために力を振るおう。
少女は、そう言ったのだ。
だから、彼は頷く。
「ああ、約束しよう」
それが、『約束』。
その言葉の意味は、一方的に『守る』ことではない。
彼女が望んでいたのは、『一緒にいること』だったのだ。共に手を取り合って、同じ場所に立っていることだった。彼女が望んだ、彼が望んだ、その瞬間に。
「うん、やくそく。わすれないでね」
そう、言われたはずだったのに。何故、今まで忘れてしまっていたのだろうか。
それは、単なる約束ではなかったのに。
少女は彼の袖を握っていない手を開いた。そこに載っていたのは、青いビー玉。小さく、今にも割れてしまいそうな、それこそ少女そのもののような、硝子球。
「これ、わたしのたからものだけど、おにいさんにあげるね」
少女は笑っていた。小さな約束を信じて。少女は一度彼の袖から手を放し、ビー玉を握りなおした。その手の温もりを冷たいビー玉に残そうとするがごとく。
「これをみて、たまに、わたしのこと、おもいだして。わたし、たいせつなものをみつけたら、すぐにおにいさんにあいにいくから」
「ああ……ありがとう。待ってるよ」
自らが放った言葉の本当の意味もわからぬまま、ただ頷いて。彼は青いビー玉を受け取ったのだ。少女との……彼女との約束そのものである、硝子球を。
だから、手放せなかったのだ。
ずっと、この手の中にあったのだ。
これは、彼と彼女との約束の証。そして、二人が望んだ『力のあり方』そのもの。
「そうだったな。全部、全部思い出した」
握った手の中のビー玉が光る。その色は青。約束を交わした少女の、確かな意志を示した瞳の色だった。
「それが、貴女との約束だった。私も、貴女も……元より一方的に守られることなんて、望んでいなかった」
少女の姿が、白い部屋が、歪んで消える。幾度とも知れぬ白い深淵に投げ出された彼は、しかしもう、迷うことはなかった。ビー玉を強く、強く左手で握り締めて。祈るように、呟いた。
「私は、今度こそ、約束を守れるだろうか」
ずっと、彼自身自らに宿った力を呪い、否定していたけれど。本来自分が心から願っていたことは否定などではなかったのだ。全てに絶望していたあの瞬間、自分の口から出た言葉は笑えるほどの絵空事。しかしあの日彼女に語った言葉は、真実だった。心からの、彼の願いだった。
『大切なもの』。
それを探していたのは、彼女だけではなかった。彼もまた、同じ。そして、見つけたはずのものは今、まさに硝子球のようにこの手をすり抜けて遠くへと消えていこうとしていたのだ。
『さよなら』
その、たった一言だけの別れの言葉と共に。
だから、彼は願う。約束の証明である、青いビー玉を手に。
「私は再び、彼女と一緒の場所に、立てるだろうか……!」
願いは、力に。
青いビー玉から放たれた光は、深淵を貫いた。彼の目の前で、白い世界は崩れていく。最後の記憶の扉は開かれ、正も負もない、深淵に沈めていた記憶が全て彼に還っていく。
許されるはずもない。
記憶の濁流の中、彼は思う。
自分が、そのようなことを願うことがおこがましい。何度もそうしようとしたように、自分を丸ごと消してしまえば、全ては終わるのだ。
ただ、ただ一つだけ。
そうできない、理由。
彼女は、まだ、彼を待っている。
『いっしょに、いてくれる?』
最初で最後の約束を交わした、彼を。
「約束なんだ!」
痛みすら伴う記憶の波に溺れながらも、彼は叫んだ。
「待たせているんだ、彼女を! 一緒にいると、同じ場所に立とうと、約束したんだ! この約束だけは、最後に守らなくてはならないんだ! だから」
ぐっと、その中で左手を伸ばす。ビー玉を握り締めた左手は、記憶の渦をも貫いて、その先にある何かを、捜し求める。
それは、最後まで否定し目を背けてきた、『力』。全てを踏みにじり奪いながらなお、自らの中に息づいている、『自分』そのもの。
「どうか応えてくれ、無限色彩……『深淵の白』!」
Planet-BLUE