足を引きずって、歩いていた。目に映るのは何処までも続いているような錯覚に囚われる、かつては白かっただろう狭い廊下。
何故、白「かった」と言うのか。
答えは簡単だ。今やその廊下は一面、赤黒い何かに濡れていたから。その中をひたすらに、足を引きずって歩く。赤い足跡を点々と残しながら、一歩、また一歩と。
何処に行こうというのか。
その問いにはただ一言で答えられた。
「この声が、聞こえない場所まで」
それは本当の意味では声ではなかったのかもしれない。今この頭を埋め尽くしているのは、無数の悲鳴と囁き声。その全てが幼い子供の声で、頭の中に反射し反転し、悲痛な合唱を繰り返す。
『助けて』
『死にたくない』
『嫌だ』
『痛い痛い痛い』
『殺してやる、絶対に殺してやる』
『殺して生きるんだ』
『どうか』
その響きの重さに、足を止めて壁に手をつき、鈍い痛みにぐらつく頭と今にも倒れてしまいそうな身体を支えようとする。その瞬間、壁についた左手を、見てしまった。
『殺して』
頭に響く子供の声。
真っ赤に染まった左腕。
白かったはずのこの空間が赤く染まっているのは、何故だっただろうか。それに気づいた瞬間に、嗄れた喉は声にならない悲鳴を上げていた。
死にたくない、死にたくない。しかしこのままでは死んでしまう。立ち止まれば殺意が迫る。腕を上げなければ腕を斬られ、全てを食い尽くされるばかり。斬られたくないから斬る。殺されたくないから、殺すのだ。
そう、『殺した』のだ。
再び、歩き出す。足は重く、思ったように動かないが、それでも必死に足掻き続ける。この終わりのない場所から抜け出そうとする。誰かが背後から名前を呼んでいるような気がしたが、自分はそんな名前ではないのだと首を振って、後ろを振り向くこともしない。
振り向けば、またこの左腕はこれ以上の赤に染まる。
誰もいない場所へ。この声が聞こえない場所へ逃げるのだ。このままこの場所にいる限り自分か誰かが死ぬのだとすれば、誰もいない場所に行けばいい。
それはわかっているのに、声が頭を掴んでいるように、意識から離れない。足を鈍らせる。助けて、死にたくない、殺す……いや、殺して、と。
殺したくない。死にたくない。
だから、足を引きずって、何処までも歩き続ける。先ほど自分の前に立ちはだかったのは子供だろうか。黒い髪に金色の瞳。ああ、誰かに似ている。遠い記憶の彼方で、何度か刃を交えたあの男とよく似ている。
わからない。
わからないけれど、歩くしかない。目の前が赤い。頭が痛い。五月蝿い。黙れと叫んでも歌は止まない。狂気の、歌は。
……こんな力が無ければよかったのだ。知らず人の心に踏み入り、自らもその心の色に染まってしまう、力。自分も相手も傷つけることしかできない、不器用な力。けれども、いくら願っても力はなくならなかった。力は今もなお、自分の中で生き続けている。
力を失うことができないのならば、どうすればいいのだろう。この力を抱えたまま、歩き続けろというのだろうか。赤い色に染まった死人のごとく、心に触れないように全てを閉ざせばいいのだろうか。
何かが違う。何かが違うのに……赤い色が、心を乱す。
誰か、教えてくれ。
何か、見えないものにすがるように目を上げて……息を飲む。
いつしか、自分は赤い色の中に立っていなかったことに気づいた。
そこは白い部屋だった。
狭い小さな部屋だった。
そして、その真ん中に、白い服を身に纏った小さな少女がいた。
彼女はこちらに気づいたのだろう、短く切りそろえた、光の加減によっては薄青にも見える銀色の髪を揺らして、顔を上げる。
その大きく見開かれた目の色は、吸い込まれるような澄み渡った青。いつからか見ていなかった、光溢れる原初の海の色。
「……だれ?」
小さな薄紅色の唇から漏れたのは、鈴の鳴るような声。きょとんとした表情で、首を傾げる少女。立ち尽くしているままではいけない、何かを答えなくてはならないと思ったが、喉が渇き切っていて声が出ない。
「おにいさんは、だあれ?」
もう一度、少女が問いかける。凛と響くその声は、頭の中を埋め尽くしていた『誰かの思い』の残滓をも貫いて、脳髄に届く。気づけば、心を蝕む誰かの悲鳴の合唱はいつの間にか止んでいた。
少女の瞳は鏡のように、こちらの姿を映しこむ。決して赤い色には染まらない黒い髪と夜の色をした瞳も、それとは対照的に赤い色に染まった、かつては白かったのであろう軍服も。
醜い。
鈍い頭痛を覚えながら、思う。自分は汚れきっている、醜い存在だ。目の前にいる汚れも何も知らないであろう少女の瞳の中に映しこんでいるから、余計にそう思う。もしもこの赤い色を洗い落とせたとしても、自分の醜さは変わらない。
この手を染めた赤は、目に見えなくても、残り続けるのだから。
「……私は、化け物だ」
俯き、呟くように言う。鈍い頭痛と全身を襲う疲労感は正常な判断を奪っていて、何故こんな白い部屋が存在しているのか、何故ここに一人だけ少女がいるのか。そんなことは考えられなかった。
今まで目の前に立ちはだかる何者もこの手で壊してきたというのに、この少女を見た途端、自分が何かと戦っていたことすらも、忘れていた。
「土足で人の心の中に踏み入るだけでは飽き足らず、心も身体も、何もかもを壊してきた、そんな、醜くて罪深い化け物だ」
歩いてきた道は、白かったはずなのに、今や赤く染まっている。
この部屋は、未だに白いまま。
自分はここにいてはいけないと思う。この部屋の白さは自分が属している、自分と他人との境界すら曖昧になった混沌の色ともまた違う。純粋なる、清廉の色。何も知らないであろう少女の心そのものを映しこんだような、白。
それを、自分の色で染めてはいけない。
なのに、少女は微かな笑みすら浮かべながらこちらに向かって手を伸ばしてきた。柔らかそうな、白い指先。それが、赤く濡れた彼の袖を、掴む。
「やめて、くれ」
搾り出すようにして放った制止の言葉にも構わず、袖を強く掴んだ少女はほんの少しだけ悲しげに笑って、言った。
「それなら、わたしとおんなじ」
「……何?」
「わたしも『ばけもの』なの。おそろい」
しかし、目の前にいる少女が言葉通りの『化け物』には見えなかった。海の色の瞳を瞬いて、少女は言葉を続ける。
「わたしね、うまれたときからふしぎなちからがあるの。おもったことはなんでもできるの。だけど、みんなわたしのこと『ばけもの』だって」
少女の言葉は、しぼんでいく。
「おかあさん、わたしのせいでとおいところにいっちゃった。そう、おとうさんが、いってた。わたし、なにもしてないの。だけど、わたしが『ばけもの』だからだ、って」
瞳が揺れる。その青い色彩は、海の色ではなく涙の色だったのだろうか。言葉を続けるうちに、少女の目にはいっぱいの涙が溜まっていた。
「このちから、『むげんしきさい』っていうんだって。なんでもできるちからだって、みんながいうの。だけど、だけど」
……そんなの、嘘だ。
言葉を紡げなくなり、泣きじゃくる少女の姿に重なるのは、いつかの自分。雨の中、名前も思い出せなくなりつつある誰かの墓の前で、泣きながら呟いた言葉。
無限色彩は、確かに強大な力だ。最も力の低い『赤』でさえ、人の心を読み取り、未来を見据え、また炎で町ひとつを焼き尽くすことができる。最強と呼ばれる『青』ならばどのような力を持ち、何を成し得るのか、そんなことは想像もつかない。
しかし、本当に望んだことは、何一つできないのだ。
まだ年端の行かない少女が母の死を突きつけられたように。自分が、遠い日に取り返しのつかない過ちの第一歩を踏み出してしまったように。
「わたし、どうしていいかわからないの。ねえ、おしえて、おにいさん。わたしたちは、どうしてここにいるのかな? このちからはなんのためにあるのかなあ……?」
Planet-BLUE