その感覚は、夢か現か。
ただ、その指の冷たさは急激に彼の意識を目の前の事実を認識させていく。
「……また、だ」
涙を流す彼の唇から漏れるのは、虚ろな言葉。
「また、守れなかった。貴女を……わかっていたのに。何故、何故貴女は、何故……」
自分を、庇ったのか。この時、死ぬのは自分のはずだった。間違いなく、あの銃弾に貫かれて死ぬべきなのは自分だったのだ。なのに。
「何故、貴女が死ななくてはならないんだ!」
あの時は、言えなかった言葉。悲しみだけを形にして吐き出し、全てを壊した過去の出来事が現実ならば、もう一度繰り返すこの瞬間はやはり夢なのだろうか。今も昔も全てが夢であってくれればどれだけいいだろう。
それが逃げだと、理解しているはずなのに、目を背けたくなる。
腕の中でか細い息を立てる彼女は、口元を笑みにして、擦れた声で言った。
「その理由は、教えたはず」
ぐっと、頬に触れる指に力が入った気がした。彼がそこに目をやれば、彼女の手首に埋まった紅のジュエルが淡く、しかし熱い光を放っている。
「私、夢を見ていたの」
今にも閉ざされそうな白い目蓋の下で、光を失いかけたブラウンの瞳が、笑う。
「ステキな夢よ。白い男の人と、青い少女の夢……そう、『今の貴方』の夢」
はっとして、彼は彼女の瞳の中に映った自分の姿に気づく。透き通るような白い髪に、磁器のように白い肌。その中で唯一色を保つのは赤い、血の色を映したような瞳。それこそ、彼女のジュエルとよく似た、静かな熱を抱く紅。
それを認識した瞬間、幻のコンサートホールは砂のように崩れ去る。白い色が渦巻く虚空に、彼は冷たくなりかけた彼女を抱いたまま放り出される。思わず息を飲む彼に、彼女は続ける。
「貴方も、気づいていたはず。自分があの瞬間に殺されること。それに」
ブラウンの瞳が赤い瞳を見据える。
「私が、貴方を庇う気でいたことも、何となく、気づいていた」
そう。
そうだ。
全身の血が凍る。気づいていたはずなのに否定してきた決定的な記憶。
彼は、「気づいていた」のだ。あの日に、彼女が何を思って舞台に上がっていたのか。それが、自分を庇うことだという確信はなかったけれど、彼女の目の中に常にない決意が秘められていたことには、気づいていた、はずだったのだ。
ただ、それを認めようとしなかっただけで。気のせいだと、思い込もうとして。自分はこの場所で死ねるのだと思い込んで。それが、取り返しもつかない出来事を呼び起こすとは思いもしていなかったのだ。
「貴女は」
ぐっと、彼女の身体を抱きしめる腕に力を入れて、彼は声を絞り出す。
『ずっと、怖い夢を見ていたの』
『だけど、もう、そんな夢は見ない』
頭の中に蘇るのは、全てが終わる瞬間の、彼女の言葉。
「貴女には、ずっと前から見えていたんだな、未来が……この瞬間が!」
彼女はにこりと、笑う。それが、彼女なりの、確かな肯定だった。
「無限色彩は、心の力。貴方を思う、私の力。弱い力しか持たない私には、運命を完全に変えることは出来なかったけれど」
もし、自分だったら、どうだっただろうか。
彼女の色彩は『赤』。だが自分ならば、完全に運命を変えることができたのではないか。少しでも、彼女の決意を知ろうとしていれば、何か変えられたのではないか。彼女が、死なずに済んだのでは、ないか……?
――――それは、違う。
彼の脳裏に閃くのは、誰かの……そう、誰かの声。
「時間は、戻らない」
それは、彼女の口を借りて、はっきりと言い切った。
「私のしたことが、結局のところ正しかったのか……それは誰にもわからない。けれど、だからこそ貴方は今、ここに『いる』でしょう?」
本当に?
本当に、自分はここにいると言えるのだろうか。
名前を失い、姿を失い、守るべきものを失い、ただこの終わりなき深淵に彷徨う自分が、「存在する」と言えるのだろうか?
「いいえ、貴方は何も、失ってはいない……ただ、失いつつあるのは確か」
ころころと、中空を漂っていた青いビー玉が、白い混沌の底に向かって落下を始める。彼は反射的に手を伸ばすが、ビー玉には届かず、青い光が白の深淵に向かって落ちていく……!
「ねえ」
思わず目でビー玉を追ってしまった彼の耳元で、彼女の声が囁く。
「今、貴方の左腕は、何のためにあるの?」
虚空に伸ばされた左腕。ビー玉を掴もうと、ぴんと指先を伸ばし。しかしビー玉はもう、深淵の彼方。届かなくなりゆく、大切な、もの。
「早く」
掴まなければ。
そう思った瞬間に、頬に触れていた冷たい指先が、熱へと変わった。見れば、抱きとめていた彼女の身体が、炎へと変じていく。彼女の手首に埋め込まれた、紅のジュエルを中心に。
そう、彼女のジュエルの色は、赤。
それは、彼女の心の色であり。
彼女の心は、そのまま、ヴェールのような炎の形をしていたことを思い出す。彼女の力の源は誰かを思う心。それが無限色彩に託されて、紅の世界を作り上げる。思いは未来をも映し出し、白い破壊の力をも飲み込んで昇華する、炎の帳。
時に激しく、時に温かな、それこそ炎のような意志。
それが、彼を容赦なく包み込む。左半身を包み込む、熱。伸ばした左腕にも纏わりついた炎は、勢いよく彼の白い指先を、手首を、そして腕それ自体を燃やそうとする。
「貴方は、忘れようとしていた」
燃える炎は、女の声で囁く。
何かが焼ける嫌な臭い。焼けているのは何だ。彼女か、それとも彼か。
「耳を塞いで、私の、『彼女』の最期の言葉を聞くまいとした。聞いたら、きっと貴方は優しいから、ずっと、それを背負ってしまうと、わかっていたから」
そう、炎に包まれながら、あの時彼女は何と囁いていた?
『だから』
唇だけで囁かれた、最期の言葉。それは、別れの言葉でなかったことだけは、覚えている。なのに、その全てを思い出すことができない。
炎は燃える。彼の全てを焼きつくさんと燃える。これすらも深淵が生み出した『イメージ』だとすれば、何を託して燃え続けているのだろうか? 彼は腕を振るが、熱は依然引かない。
これが彼女の思いだとするのならば、包まれてそのまま燃え尽きてしまっても構わないかもしれない、という考えが彼の脳裏をよぎる。その方が、楽になれる気がする。彼女を失った地点で、すぐにでもそうするべきだった。
なのに、今までそうすることが、できなかったのは。
『今、貴方の左腕は、何のためにあるの?』
脳裏に閃く彼女の声。炎がまとわりつく左腕にちらちらと輝くのは、白い、光。破壊しか呼ばない、呪わしいその腕に輝く光は、炎の色を映して白と赤を混ぜ合わせる。いや、それだけではない。その中に輝いているのは、金色を思わせる黄の色彩でもあり、また何処までも塗りつぶしたような黒の色彩でも、ある……
白い世界を貫く黄金色の道。何処までも彼の後ろをついてくる黒い影。
そして、この身体を包み込む、赤い炎。
『貴方は、望みさえすれば何にでもなれるのに』
かつて聞いた言葉が、蘇る。今なら、その言葉の意味がわかりつつあった。この左腕が抱いているもの。この左腕が秘めていた、彼自身知らなかった秘密。
「私は、貴方に死んでもらいたくなかった」
炎の中から聞こえる声は、確かに、笑っていた。顔はもう見えないというのに、それだけははっきりと、わかる。
「やっと、幸せだっていうことがわかってきたのに、こんな所で大人しく殺されてやるなんて、変よ。そうじゃないの?」
「だが、私は」
罪を犯しすぎたのだ。この左腕は光以上の血に濡れている。生きていて罪を重ねるのならば、ここで死にたかった。誰かの恨みを込めた銃弾で、殺して欲しかったのだ。
なのに、彼女は笑って、言うのだ。
「死んだら、恨みを言える相手もいなくなる。殺してやろうと思える相手もいなくなる。それじゃあ、償いにも何にもなってないって、どうして気づかないの?」
彼は思わず、目を丸くした。炎は依然と燃え続ける。熱は増すばかりだというのに、痛みは一瞬だけ、消えた。だから、彼は叫ぶ。心の中に生まれようとする、否定とは全く違う弱々しい感情を無理やりに否定するように。
「綺麗事だ!」
「そう、綺麗事。だけど貴方の友達はよく言っているじゃない」
――――『綺麗事も、貫けば真実だ』って。
そう言った女の声に、迷いはなかった。まるで彼の迷いをそのまま反転させた、鏡のよう。
「貫きなさいよ、最後まで! 私が守れなかったというのなら、今ここにある大切なものを守りなさい。あの日交わした約束を守りなさい。誰かの恨みも、誰かの痛みも背負えなくて、どうして誰かを守るなんて言えるの?」
彼は改めて左腕を見る。破壊を呼ぶ、左の腕。その腕を見つめながら、思う。
貫けるわけがない。貫けなかったから、ここにいるのだ。上も下もない、何もかもを捨ててきた深淵。この左腕が大切な人の命を奪ってしまってから、ずっと、ずっと、この深淵に痛みを沈めて生きてきた。そうしないと、押しつぶされてしまうから。そうしないと、またこの左腕が自分から何かを奪ってしまうから。
だが。
『信じたい』
頭の中で、遠くから響く声。
『この力が、何かを守るために、あると』
何処までも血に塗れた左腕を掲げて、泣きながら叫んだ、遠い日の記憶。
『信じたいんだ……!』
がくり、と。身体が落ちる。今まで浮かんでいた身体が急に支えを失う、その瞬間。彼は叫んでいた。あの日と同じように、目を見開いて、炎の向こう、その向こうにいる誰かに向かって。
「思い出した……!」
落ちていくビー玉が、白い空の向こうで輝く。
手を伸ばしたまま、彼は落ち行く身体を、青い光に向ける。この身体は深淵の圧力とまとう炎に耐え切れずぼろぼろと崩れ始めるが、今更構わなかった。
「約束だ、あれが、約束だったんだ! あの時、私は彼女に約束したんだ!」
『そのときには、わたしと』
少女の声は、青い記憶。
どうして、今まで思い出せなかったのだろうか。手を伸ばしても届かない位置まで遠ざかったビー玉。彼は今にも泣きそうな表情を浮かべて、呪われた左腕を精一杯伸ばす。なのに、青いビー玉には届かない……
ダメだ。
手遅れだ。
そう思った瞬間、彼の背中を誰かが押した。驚いてそちらを見れば、彼女が、記憶と一つも変わらぬ笑みを浮かべて彼を見つめていた。
「さあ。今守るべき約束が、待っているわ。私の心を、無駄にしないで……貴方は、生きるの。あの日の約束通りに、その腕で、彼女の手を取って!」
彼の身体を包んでいた炎が消える。正確には、消えたのではない。伸ばした左腕から放たれた白い光が炎を飲み込んだのだ。光は燃えるような形の翼となり、彼の身体を深淵の遥か底へと導いていく。
速く、落ちる速度よりも、なお速く。
白い世界にきらきらと輝く、海色のビー玉。
白い部屋に、海色の瞳を持つ少女の姿。
彼は、ビー玉に指先が触れた瞬間に、ビー玉に映る像を見つめて叫んだ。
「あの日の約束の相手は貴女だったのか、『トワ』……!」
その名を口にした瞬間、再び、世界が姿を変える。
Planet-BLUE