影法師を引きつれ、金色の剣を握っていた彼は、ふと立ち止まった。
彼の目の前にあったのは、白い世界の中で、混沌の色に揺らめく空間。そこで、道は途絶えていた。
赤、橙、黄、白……そして、青。無限の色彩に溢れて見えるその空間は、彼の前に圧倒的な質量を伴って立ちはだかっていた。手を伸ばすのも躊躇われる、極彩色の夢。彼は道の縁に立ち尽くす。
この先に、求めたものがあるというのだろうか。彼が取り戻したものは、この黄金色の剣と影法師だけ。名前を忘れてしまった少女と旅をした、一年間の記憶だけ。
彼女から、全てから逃げてしまった自分を、見せ付けられただけ。
そして、おそらくここから先にあるものは……
「久しぶりね」
唐突に、耳元で囁く何者か。
彼は、その声を聞いた瞬間に、全身の血が凍るような錯覚に囚われた。この声は、「覚えている」。二度と、聞かないものとばかり思っていた、この、温かな音色。澄みきった、天上の響き。何よりも彼に喜びを与えてきたはずの、声。
だが、それ以上に、今は痛みを呼び起こす、声。
足が竦み、全身に震えが走る。声を出して応えようとしても、顎に力が入らない。舌が痺れているようだ。動揺しているのか、いや、そんな生易しいものではない。振り向きたいと誰かが言う。振り向くなと誰かが言う。
彼女が存在しているなど、絶対にありえないことなのだ。
何故ならば。
「貴女は」
最後の、彼が否定してきた記憶の掛け金。そして、全ての否定の始まり。
彼が手を伸ばしても二度と届くことのない、理想と幸福。
女の声は、言った。
「そう、私はもういない」
彼は、ゆっくりと振り向いた。振り向いて、しまった。
その瞬間に、辺りの風景が変わった。わあ、というざわめき、波のように押し寄せる拍手の音。スポットライトに照らされたステージに一人で立つ、彼。黒く輝くグランドピアノ。その前に立つのは、赤いドレスを身に纏った、誰か。
彼の手に握られていた剣はいつの間にか赤い薔薇の花束に変じていた。
「う、あ……」
知っているな、と誰かが彼の中で言った。
知らない、とは、言えなかった。
頭の中に入り込んでくるのは無数のノイズにも似た誰かの声。ここからは影にしか見えない観客席から放たれる歓声は、耳から入る情報以上に脳髄へと叩き込まれ、混濁する。拍手の音は鼓膜を破らんと彼に迫る。
その、圧倒的なまでの混沌。
その中で、彼は一つの思考を捉える。目で見る限りは影にしか見えないその広大な空間の中、歓声のノイズとは明らかに異なった、指向性のある思考。この脳裏に焼きつくような思考を何と表現すべきなのか、彼は一瞬迷った。
だが、次の瞬間、元よりそれほどよくない視覚よりもずっと鋭い感覚が、その正体を掴んだ。観客席の真ん中。誰もが感動を込めてステージに目を向けているこの瞬間に、気づかれるはずもない一つの感情。
真っ直ぐとこちらを貫く殺意。
それは、長い銃の形をしていた。
……そうだ。
彼は、薔薇の花束を握る手が滑りそうになるのを感じながら、息を飲んで視線だけをそちらに向ける。
気づいて、いたのだ。
あの日、この瞬間。
彼女に渡す薔薇の花束を手にして、ステージの上に立った瞬間。
自分は、殺意に気づいていたのだ。自分の胸元に向けられた、その銃口に。その銃口を向けているのが、何者であるのかも。
暗闇に隠されているように見えるそこにいたのは、帽子を被った一人の男。彼はその男の名前を知らなかったけれど、この瞬間にはっきりと読み取ることができた。
男自身が、彼に恨みがあったわけではない。単に、彼を殺せと、言われただけの殺し屋……『帽子屋』。殺せと言ったのは誰か? そんなこと、彼にはどうでもよかった。恨みなど、何処からでも買っている。誰がいつ、自分を殺しに来るかと漠然と考えたことはあったけれど、それがこの瞬間だとは思ってもいなかった。
ただ、それでもいいか、と。
『帽子屋』の銃口を見つめながら思ったのは、確かに覚えている。
あの日、彼は幸福だった。
どこまでも、幸福だった。
そんな、夢を見ていた。
自分が幸福になれるはずなどなかったのだ。望まずとも幸福だったはずの誰かを踏みつけ、闇に葬り、そうして生きてきた彼にとって、幸福は一番遠いものだった。だからこの瞬間、ステージに立っている自分がやけに現実味のないものに思えたこともはっきりと思い出せる。
ああ、花束はまるで血の色だ。これからの彼の行く先を示すような、紅。
こんな終わりも悪くない、と彼は思った。花びらを散らして、ほんの少し前の自分では思いもしなかった幸福の前で全てに幕を引こうと決めて、一歩を踏み出す。
いつも温かく自分を見ていた、古い友人の顔が思い出される。自分はあの男のようにはなれなかったけれど、少しでも近づければいいと願った。あの男は何処までも真っ直ぐで、澱むことを知らず、走り続ける。必ずしもそれは正しくなかったけれど。時には何かを傷つけていたけれど。絶対に、この瞬間あの男がここにいないように、彼とあの男が交わることはなかったけれど。
それでも、その背中に憧れたことは間違いない。
自分がいなくなったらあの男は寂しいと言ってくれるだろうか。それを思うと何故か胸が痛かった。あんな下らない喧嘩をしたままお互いに背を向けたまま終わりにするのは、少しだけ辛かった。
彼の脳裏に上るのは、あの男の記憶だけではない。泣きじゃくる小さな自分の手を取ってくれた、意志の強そうな紫苑の瞳を持つ女性。道を見失いそうになる自分の背中に、常に的確な言葉を投げかけていたかつての英雄。今まで出会い、時に肩を叩き、時に背を向け合ってきた人々の姿が駆け抜け、消えていく。
そして。
彼は再び赤いドレスの何者かに、目を戻す。何故だろう、霞がかかっているようにおぼろげにしかその姿を捉えることが出来ない彼女の姿。
いや、霞がかかっているわけではない、と彼は思う。
彼は、知らず目の中に涙が溜まっていることに気づいた。限りない絶望の中から自分を救い上げてくれた人。許されるはずもない自分が光の中にいるという夢を見せてくれた人。最後に、「幸福であるということ」を教えてくれた人。
一歩、また一歩。ぎこちない足取りで彼女に近づきながら、彼は出来る限りの笑顔を浮かべて、心の中で赤いドレスの影に呼びかける。
――――お別れだ。
一歩、踏み出した足は震えていた。それは、死に一人向かう者の恐怖か、それとも。
――――ありがとう。
彼女の前に立って、花束を手渡し笑いかける。彼女もまた、笑ったのだろう。涙でいっぱいになった目には、上手く彼女の表情を映すことはできなかったけれど。彼女が放った感謝の言葉も、歓声と怒涛のごとく迫る思考の波に流されそうになる彼にはよく聞こえていなかったけれども。
赤い花びらが、一枚、落ちる。
銃口が、ぴたりと自分の胸に向けられたのが、わかる。
――――さようなら。
そう「言った」のは、自分だったのか、それとも彼女だったのか。
わからないまま、彼の身体は彼女の腕に抱かれて。今まで以上のどよめきの中で、彼の脳裏に描かれるのは形ある、殺意の一矢。
駄目だ。
彼の頭に閃いた思考は、一瞬だった。思考するだけでは、既に放たれた銃弾は止められなかった。
音が、彼の耳から消える。
彼女に抱きしめられた感覚も、目の前に映る光景すらも。全てが遮断されたかのような錯覚。
ただ、何故か。
終わったのだ、ということだけは、わかった。
彼が、考えもしなかった終わり方で。
「何故だ」
ずるりと彼女の腕が、落ちる。その瞬間に彼を包んでいた全ての感覚が蘇る。涙に濡れた瞳に映るのは、赤。落ちた赤い薔薇の花束、赤いドレスを染めるそれ以上の赤。笑いかける彼女の唇から落ちる、赤。
その、色彩の鮮やかさとは裏腹に、冷たくなりゆくのは彼女の指先。一瞬前まで熱を持って鍵盤の上で踊っていたそれが、熱を奪われていく。
がたん、と。
静寂の中、彼女の身体が落ちた音だけが、響く。
ゆっくりと、彼が観客席を見れば、狙いを外した『帽子屋』が、改めて彼に殺意の銃口を向けるのがわかった。
一撃で、自分を撃ち抜いてくれるものだとばかり思っていたのに。もう、夢のような喜びの中に生きることを、この銀色の銃弾で終わりにできると思っていたのに。
最後に残されたのは、何よりも深い、悲しみだなんて。
「何故……」
その問いに、答える者はなく。
彼は、冷たくなりつつある彼女の身体を抱きしめた。その感触は、夢ではないのだと、全ては現実なのだと思い知らされるほど生々しく。
何処で間違ったのか。
何処で狂ったのか。
違う、ここでいなくなるのは、彼女ではない。
なのに。
何故このような形で、奪われなくてはならない。奪われるのは自分だけでたくさんだというのに。
その静寂の中で、かつんという音が響き渡る。見れば、彼のポケットから落ちた青いビー玉が、ころころと板張りのステージの上を転がっていた。淡く輝く青が、床に落ちた赤に染まっていく。
『ねえ、おしえて、おにいさん』
頭の中に、響く、小さな声。何度も何度も繰り返された、曖昧な記憶。
『わたしたちは、どうしてここにいるのかな?』
幼い声で問いかけられた命題が今ここではっきりと蘇る。彼は時間と共に冷たさを増していく彼女の身体を抱きしめたまま、血に染まったビー玉を凝視する。
――――わからない。
彼は思う。
消えるはずの自分がここにいて、消えてはいけないはずの彼女が消えゆく。そんな不条理の中で彼は思う。
自分がここにいるのは……
「何故だああぁっ!」
再び繰り返される、白の記憶。
絶望の中で展開されるのは悲しみを形に変えた純白の翼。何色にも染まらぬ孤独な悲しみの色。悲しみは現実の見えない刃となり、辺りを白く塗りつぶしながらどこまでもどこまでも広がっていく。
吼え続ける彼は現実を認識しない。その悲しみこそが、全てを壊していくのだということにも気づかず、ただ悲痛な叫び声を響かせ続ける。全てを悲しみの色に染めるまで。自分自身も、悲しみの海の中に沈めるまで。
それを止めたのは、頬に触れる冷たい指先だった。
Planet-BLUE