白い空を貫き何処までも続く黄金色の道。
この世界の終わりは、あるのだろうか。
彼は一歩一歩、踏みしめる感覚を確かめながら思う。ほとんどの記憶はまだ表層に浮かび上がることなく、彼が手にしているものは黄金色にも見える黄色い花だけ。自分を支えるものさえ曖昧な今、信じられるのはその花の存在と、レンガを踏む感覚だけ。
手の中にあった、青い、小さなものは何処に行ったのだろうか。この手は温もりを覚えているのに、それを与えてくれたものが、今は、無い。
自分がどういう姿をしていたのか、何という名を名乗っていたのか……一歩歩くたびに大切なことを忘れている気がして、ぞっとする。やがて、この道を歩いている理由さえ忘れてしまったらどうなるのだろうか。
忘れてはいけない、と思ってから、彼は不思議に思う。
自分は今まで「忘れたい」とばかり思っていた気がする。だが、何を忘れたいと望んでいたのだろうか。今は、何かを失うのがこれだけ怖いというのに……
「なら、思い出させてやろうか?」
声は、背後から聞こえた。彼は言いようもない悪寒を覚え、反射的に振り向きざま跳んでいた。一瞬遅れて、彼が立っていた場所に漆黒の槍が突き刺さった。そして彼は見た。いつの間にか、彼のすぐ側に黒い影が立っていた。薄っぺらい、質量の無い影。
元より、影というものに質量などは存在しないはずだが、そのような考えは既に彼の頭の中には無かった。
ただ、表情を映す顔すらもない、薄っぺらな影が冷たい感情を湛えている、ということだけはわかった。
影はゆらりと、空間的な距離すらも無視して彼の顔の前まで近づく。そして、薄っぺらい手を彼の頬に当てた。触れたという感触はないのに、冷たい、ということはわかる。
思わず立ちすくむ彼に向かって、声は粘ついた響きで言った。
「ほら、見てみなよ」
ふっと、辺りの景色が変わる。
今までの白かった空間が、全て漆黒に染められる。今まで白い空間の中で唯一存在を固く守り続けてきた道もまた闇に隠され、彼は何も見えない闇の中に取り残される。
「覚えている、でしょう?」
静寂の中、耳元で誰かが囁く。
嫌でも、体が震える。身体が凍りつくような錯覚。いや、凍りつくのは意識、だろうか。
「もう、助けは来ない……奇蹟はありえないよ」
自分の望んだように身体が動かない、自分の思ったような思考も出来ない、というのに自分の意思とは反して、閉じ込めておこうとした記憶だけが決壊しつつあった。暗闇が呼び起こすのはどこまでも続く絶望……そして、静寂が呼び起こす狂気。
闇に包まれた塔。
歪んだ心が生み出した、影の王国。
そう、あの時は助かることが出来たけれど、もうこの場所に少女はいない。自分の名を呼び、元の場所に連れ戻してくれる人は、いない。何と呼ばれていたかは、霞がかかったように思い出せないままでいる。
なのに、何故だろう。
あの時のように、圧倒的な恐怖と孤独感を感じることは、なかった。自分を包み込んでいる冷たい闇は、じわじわとこの心の中に侵食しようとしてくるけれど、それすらも決して不快ではなかった。
「……『イメージ』 」
手の中に、まだ花の手ごたえがあることを確認して、彼は呟いた。
ここはどこだっただろうか。道の上……そう、自分が形作った、道の上。どこに辿り着くかもわからない、長い長い道だ。白い空間も、黒い闇も、そう変わりはしない。それは自分を押しつぶそうとする、拒絶の心の色。何にも染まらぬ白と、何を混ぜたとしても変わらぬ黒。
「よく似ている」
口の中で、小さく呟く。
じわじわと、闇は侵食を続ける。このまま彼を飲み込もうとしているのかもしれない。その度に、彼の中で一つ、また一つと記憶の掛け金が外れていく。塔から見下ろす夕焼けの町。その赤と対照的な色でこちらを見つめる少女の瞳。
ゆっくりと、ゆっくりと。ビデオを逆回しにするように、記憶が、一つの闇を起点にして蘇っていくのがわかる。いくつかの記憶は未だ虫が食ったように穴が開いてしまっているけれど。
『無限色彩はね』
記憶の中の少女が口を開く。
『 「何でも出来る力」なんだって』
本当に?
彼は闇に飲み込まれながらも、思わずにはいられなかった。
無限色彩を持って生まれた人間は、本当に『何でも出来る』というのだろうか。
そう、そうだ。あの時、少女に一番聞きたかったのはそこだったのだ。
この空間をそうしたように、全てを闇に包むことも出来る。この手の中の花のように、『イメージ』を形にすることも出来る。だが、本当に、自分が心から望んだことが、形になるとでもいうのだろうか。
闇は何も生まない。形ある『イメージ』はどこまでも幻想でしかない。
もしも、全ての無限色彩の頂点に立つ『青』なら違ったのだろうか。『青』なら、自らの望みを自由に叶えることが出来たのだろうか?
……否。
もはやその姿すらも完全に闇に溶け込ませた彼は、不思議な居心地の良さが呼び起こす眠りの誘惑に耐えながら、何とか思考を回転させる。
もしも、本当に『青』が望みを叶えられるのならば。
『さよなら』
あんな、悲しい笑顔なんて。
「何でも出来るなんて、嘘だ」
どこから声を出しているのかも定かではないけれど、彼は言った。記憶の中の少女の声は続ける。
『……だけどね、わたしの探している「白」だけ、違うの。皆、その人を「白の二番」って呼ぶんだけど』
違うわけじゃない。
『白の二番』とて、同じなのだ。自らの力を信じることが出来ずに、ましてやその力で何かを叶えることなど出来るはずもない。自らの強大な力を何よりも恐れ、自らの居場所を求め続けた『白の二番』が欲した力の形……それが、『ただ、人の心に触れるだけ』ならば。
「それならば、何故、信じたいと思った?」
影は問いかける。彼の迷いをそのまま表すかのように。いや、それは影ではなく、彼が無意識に言った言葉なのかもしれない。その境すらも、もはや存在しない。
「何故、『無限色彩は心の力』だと、信じようとした?」
いや、違う。
この影すらも。
『この世界は、覚えているはずですよ』
自らが生み出した心の、海。深淵と呼ばれる場所だというのならば。
彼は闇との境を失った手の中に感覚として残っていた花を、掲げる。どちらが上か、下かもわからぬ影の中。
問いの答えはまだ出ない。ぽつりぽつりと欠けている記憶が、その答えを導き出すことを拒んでいる。それが自分の醜い拒絶の意志だということも自覚しながら、それでも彼は言った。
「わからない。だが、今ならばはっきりと、わかることもある」
『イメージ』をしよう。まだ道は消えていない。そこにあるのだ、ここにある花のように、長く伸びる道が。自らが長きに渡って拒絶してきた世界へと伸びている、道が。
迷っていないわけではない。むしろ、その世界へと足を踏み入れるくらいならば完全にこの闇の中に溶け込んでしまいたい。そうすることを、何よりも望んできたはずだったのだ。この瞬間までは。
しかし、自分を導いていたものの正体を知るまでは、退けない。
青い、小さな、何か。
最後まで、破ってはいけなかった約束。
もし、間に合うのならば。
「貴方が言うとおり、助けは来ない。だから今度こそ、私が掴まなくてはならない」
答えを。
彼は左手を大きく振った。その瞬間に影が切り裂かれ、再び白い空間と黄金色の道が戻る。そして……彼の手に握られていたはずの花は、いつの間にか黄金色の剣と化していた。それは今にも折れてしまいそうな、細い剣ではあったけれど。
切り裂かれた影は彼の前で収束し、一つの人間の形になる。それは先ほどまでの薄っぺらな人影ではなく、凝り固まった闇そのもの……それが、見覚えのある人間の顔を形作る。
名前が、彼の頭の中に浮かぶ。
スズナリ・セツナ。
無限色彩の『黒』。全ての『影』と呼ばれる存在を操るもの。
「……綺麗事」
セツナは口端を上げ、はっきりと言い放つ。彼はすぐに折れそうになる自分を叱咤して、セツナを見据えた。
「アンタが馬鹿じゃなければ、 は悲しまずに済んだ。 は死んだ『白の二番』なんて求めなかった。本当に、馬鹿な話」
「ああ、本当に」
彼は言いながらも、セツナに向けてゆるゆると剣の切っ先を上げる。セツナの言葉の、決定的な部分はまだ、彼には穴が開いたように聞こえる。拒絶は、未だ終わっていない。もちろん、この弱い剣で切り開けるほど小さな否定ならば、とっくにこの悲しみは断てていた。
「 が、何故『白の二番』を求めたのか、考えたことある?」
セツナは自らの心臓に向けられた切っ先に恐れをなすでもなく、にやにやと笑いながらまくしたてる。
「アンタが勝手に考えてることじゃない。本当に、心から。 の目的を考えてあげたことはあったの? ないでしょう? 臆病者のアンタには一生無理な話だよね」
セツナは自らの足元から影を伸ばす。黄金色の道を闇色に染めるそれは彼の足を絡めとり、そのままその場に繋ぎとめる。
「否定するくらいなら、始めから約束しなきゃよかったんだ」
どこまでも、セツナの言葉は真実。彼の心の揺らぎをそのまま映しこみ、剣が段々と質量を失っていこうとする。
「僕の可愛い ! 何故悲しまなきゃならない。アンタは罪深い。その罪を償おうともせずに罪すら否定してそれすら失敗して!」
セツナは一歩踏み出した。黄金色の切っ先がずぶりと胸に沈むが、痛みを感じている様子すらなく、彼の目の前にセツナの血色の瞳が、迫る。
「死んでしまえ」
脳髄に響く声。
「壊れて死んでしまえばいいんだ。この星が壊れるのを待ってもいい。病気に身を任せたっていいよ。何だったら僕がやってあげようか。もう、醜い足掻きなんて見たくない。 だってそうすれば」
「黙れ」
ぐっと剣の柄を握る手に力を込めて、彼は言った。
「私は臆病者だ。馬鹿だ。何からも逃げ、自分の名前も、彼女の名前すらも思いだせずにいる、大馬鹿者だ」
理解は完全な形には至っていない。この、弱々しい剣のように。それでも。
自分は、今『ここにいる』のだ。本来的にその存在が夢であろうと現であろうと、それだけは変わらない。最後に自らの存在を否定し切れなかった結末がこれだ。切り捨てられなかったものは悲劇を招き、それこそ目の前に立つ人の形をした影のように、ひたすら自らを責め立てる。罪を目の前に突きつける。
目を逸らして、背を向けて、記憶を深淵に沈めて。
そうやって生きてきた自分を許せとは、彼自身、思っていない。
目の前の影が呼び起こした記憶は、自らの罪の記憶をもう一度辿る要因になった少女との旅路。出会い、別れ、悲しみは悲しみを呼び、彼は最後の最後まで本当の意味で自らの罪と向き合うことは、出来なかった。今もそうであるように。
ただ。
『随分と「変わった」ように見えたが、その口ぶりだけは「相変わらず」だな』
『生きていてくれてよかったって思っているのも、本当なの……!』
『俺は、お前と一緒にいた時が、一番楽しかったよ』
『その優しさをどうして自分に向けられないのですか?』
旅を続けていくうちに経験した出来事は、罪を責め立てられるようなものだけではなかった。逆に、彼を頑なに拒絶させた原因となったのは、彼には決して理解できなかった感情だったと思い出す。
あの時と、同じように。
最後に思い出すのはいつも、少女の、別れの笑顔。
優しすぎた少女の、悲しい決断。
「貴方のように激しく責めてくれた方が、ずっと楽だとわかっていたはずなのに、私はまた同じことを繰り返した。また、逃げたのだ……彼らからも、彼女からも」
手の中の剣が、熱い。
「だから……もう一度だけ、向き合わせてくれ。その時に私が背を向けたならば、遠慮なく私を殺せ。今ならば、誰も邪魔しないだろう、『白の二番』でさえ」
その言葉の意味は、ひどく自分で言っていながら矛盾しているように思えたけれど、何故そう思ったのかは今の彼にはわからなかった。セツナは彼の言葉を鼻で笑った。
「それが綺麗事だと言っているんだよ」
「構わない。綺麗事とて、貫ければ真実だ」
そう言ったのは、記憶の中で今もしっかりと息づいている、自分の心を一度救った一人の男だったと思い出す。自分は、絶対的に彼のようには強くなれないけれど。
「それが、アンタに貫けると?」
わからない。
わからないけれど。
「……貫いてみせる!」
叫ぶように言って、左手に握った剣を振りぬいた。セツナの形をした濃い影は二つに裂け、やがて元の薄っぺらい人型に戻る。耳元でセツナの声が囁いた。
「いつもそう言って、最後には叶わない」
影はゆっくりとした動きで人型を崩し、黄金色の道の上に立つ彼の足元にわだかまる。そして、彼自身の影に収束し、動かなくなった。
「信じなくてはいけないものを信じなくて、他のものを何故信じられる? 何故叶えられると思う?」
小さく囁く粘ついた声も、その言葉を最後に聞こえなくなる。
彼は剣を片手に立ち尽くす。
答えは、未だ見えない。少女との旅の記憶は取り戻せたけれど、彼をこの場に立たせた決定的な原因は、まだ深淵の底だということに気づく。少女の名も、自分の名も思い出せないまま……彼は再び一歩を踏み出す。
影法師が、どこから光が降っているのかもわからない白い世界の中、彼の足元に伸びていた。
Planet-BLUE