――――何処に。何処に行った。
身体にまとわり付くような、視界も通らぬ深淵の中で彼は手を伸ばす。その手はむなしく空を切るばかりで何かに触れることもないけれど。
それでも必死に指先を動かす。何故この腕は短いのか。この指は届かないのか。すぐ目の前にあるはずのものを掴むことができないのか。
それは、きっと……
「どうしました?」
完全な静寂を裂き、小さな声が聞こえた。
彼が驚いてそちらを見ると、思わず目を庇ってしまうほどのまぶしい光が彼の目に入った。恐る恐る目を開けば、黄金色の花畑が広がっていた。どこかで見たような光景だと思いながら、彼もまた、黄色い花を踏んでその場に立っていたということに気づく。
「ここは」
何処、だっただろう。
そう思っていると、再び声が聞こえる。
「探し物ですか?」
そうだ。彼はもはや何も握ってはいない左手を見る。
「そう、とても大切なもので」
「どんなものですか?」
「青い、小さな……」
口にしようとして、自分がほんの少し前まで握り締めていたものが何なのか、わからないことに気づいた。それが青い色をしていて、小さくて、儚いものだということはわかっているというのに。
記憶が、ばらばらと音を立てて崩れていくのがわかる。今までここにあったものすらも思い出せなくなっている自分に気づき、戦慄する。
忘れてはいけないのだ、と頭の奥で誰かが囁く。今までどれだけの記憶を沈めてきたとしても、最後の一つだけは、手放してはいけないのに……
それすらも、沈んでしまったのか?
左手が震える。そこにあるはずのものを失った左手が、何かを求めている。何を求めているのか。何を――――
「落ち着いてください」
ふわり、とその手を何かが包んだ。それが小さな手であることに気づいたのは、一瞬後のことだった。顔を上げれば、そこには一人の少女が立っていた。
「ゆっくりと、一つ一つ、思い出してみればいいのです」
どこかでこの少女を見ただろうか。屈託なく笑う少女の瞳の色は、穏やかなハシバミ色をしていた。
「だが、私は」
何も思い出せない。否定の末に全てを心の深淵に沈め、最後の鍵すらも沈んでしまった今、残された道はただ一つ、このまま消え去るだけだというのに。
すると、少女は笑顔を向けたまま、はっきりと言った。
「いいえ、そんなことはありません」
言って、彼の手を引く。思った以上に強い力で引かれて、彼は一歩を踏み出した。金色に輝く花びらが舞って、そのまま虚空へと消えた。
「だって、貴方はあの時、私に名前を教えてくれたじゃないですか」
「え……」
自分の名前すらも思い出せない今、この少女に何を言ったのかなど思い出せるはずもない。それでも、少女は彼の手を引いて何処までも続いているように見える花畑を駆ける。引きずられるようにして彼は花を蹴る。
「完全に否定をしていれば、貴方は私に名前を教えられなかったでしょう。貴方が葬ったはずの名前を。大丈夫、貴方はまだ、思い出せる」
見たことのある景色。見たことのある少女。
「無理だ、思い出せない……思い出せないんだ!」
彼は必死に叫んだ。焦燥ばかりが募り、少女の言っていることは全く理解が出来ない。少女は一度立ち止まると、彼に向き直る。明るい笑顔で、握った手だけは離さないまま。
「それなら、『イメージ』してみてください。貴方は忘れていても、この世界はまだ、覚えているはずですよ。貴方が少しだけ歩み寄れば、答えてくれる」
『イメージ』。
聞いたことのある、言葉。
何を想像するというのだろうか。戸惑う彼の心を読み取ったかのように、少女はいたずらっぽく笑う。
「貴方が、今、一番求めているものとか、どうですか?」
求めているもの。手の中にあったはずの青い、何か。だが、それを取り戻すためにはまず思い出さなくてはならない。何を探していたのか、何故、探していたのか。
「道が、欲しい」
ここは何処までも広がる黄金色の花畑。美しく、暖かい光に満ちているけれど、ここで立ち止まっていては何も始まらない。記憶の磨耗が加速するだけだ。少女の言うように、まず一歩を踏み出すためには、道が必要だ。自分の中に渦巻いている混沌を貫く、一つの道が。
途端、ざあと音を立てて花が散った。白い空に舞い上がった花びらは黄金色に輝く光となって、彼がイメージした通りのレンガ造りの一本の道を花畑の中に構築する。そのレンガもまた、花と同じように金色に輝いているように見えた。
「あ……」
この感覚は、確かに、知っている。
いつの間にか、左手を握っていた少女の手の感覚は消えていた。彼が慌ててそちらを見れば、少女は彼からは少し離れた場所で笑っていた。
「よくできました」
金色の髪を風に靡かせて、花畑の中に立つ少女は言う。そして、彼の目には……少女の背後にある、幻想の都がはっきりと見えた。黄金色の街並。終わることのない祭りのパレード。
「 『創造』……どんなものであろうと、それは『想像』から生まれます。もちろんそれは貴方の言う、儚い夢かもしれないけれど」
ふわりとワンピースを揺らして少女は彼に背を向ける。
「夢もまた、心の力であることには変わりありません。貴方ならば、きっとわかります……この道の先に、辿り着くことができれば」
「待ってくれ、貴方は……!」
彼は手を突き出そうとして、気づいた。彼の手には、いつしか黄金色に輝く花が握られていたことに。
断片的な記憶が花と共に蘇る。
己の力で想像の黄金色の町を生み出した、一人の無限色彩保持者……!
今度こそ、彼は思い出していた。だから、何とか手を伸ばして、少女の影を捕まえようとした。しかし少女は軽やかな足取りで黄金色の町へと駆け出していく。そしてその門をくぐる直前に少女は彼を振り返って笑いながら言い放った。
「わかりませんか、私も貴方の『イメージ』ですよ!」
どきり、として彼はその場に踏みとどまる。
この花をめぐる記憶が蘇った今ならばわかる。黄金色の花を残した無限色彩保持者は死んだはずなのだ。自分の手の中で、ゆっくりと息を引き取ったのだ。『幸せだ』という言葉を残して。
ならば、何故この手の中の花は、瑞々しい輝きに満ちているのか。少女の姿はもはやそこにはなく、黄金色の街並も消え去ってしまったけれど、花畑は依然そこにあり、また彼自身がイメージした『道』もその場に残り続けている。
そういえば、この花を初めて受け取ったとき、無意識に自分自身で何かを呟いていたことを思い出す。
『これは、「私のもの」なのですね』
この花は、この道は、自分のもの。
あの少女もまた、自分の『イメージ』だと言った。
しかし、自分は何を手にしたというのだろうか。手に持っているのは輝く黄金色の花だけで、それ以上に何かを得たというのだろうか。その認識は未だ曖昧なまま、彼は道の始まりに立ち尽くしていた。
「思い出したければ、一歩を踏み出しましょう」
耳元で声が小さく囁く。
「貴方は悲しくて優しい人、だけどもう立ち止まっていてはだめですよ」
道は花畑の先、白い空の果てにまで続いているように見えた。その先に何があるのかは彼には全く理解できなかったけれど。
「貴方の世界は広く、そして深い。その世界を創ったのもまた貴方自身」
「私の、世界……」
彼は呟いて道を見据える。
この場所が、鏡のような男やクレセントが言っていた『深淵』だというのだろうか。あの水面の下に待っていた世界だと、いうのだろうか。あまりにも広く、空虚な空間。ここに、どれだけの記憶が葬られているというのか。
一歩を踏み出そうとしても、足が凍る。
このままこの暖かな花畑に立ち止まっていたい。何もかもを暴かず沈めたまま、立ち尽くしていられればいいと、思う。
ただ、黄金色の花を握っていながらも何かが欠けている左手が疼く。
あるべきものを掴めと、訴える。
もう、少女の声は何も言わなかった。彼の一歩を待っているように見えた。彼はもう一度道を見る。花畑から生まれたものは彼が形作った願い。この先に待つ自らの混沌……『深淵』の中で、探し求めているものに辿り着くために望んだ、避けることの出来ない道。
そう、道を、望んだのだ。『深淵』への道を。
終わるわけにはいかないと願って、ここにいるのだ。
もう、退くことも出来ないと、わかっているはずだ。
「臆病者」
口の中で呟いて、彼は白い空を仰ぐ。
それから、花を蹴り、固まる足を叱咤して真っ直ぐと道を見る。
「行こう」
声は自分自身の背中を押した。
一歩足を踏み出した瞬間、黄金色の花畑は、『イメージ』の楽園は消えた。白い空間の中に一本だけ伸びる黄金色の道。足を踏み外したら今度こそ白い何かに飲み込まれるという確信を抱かせるほどの、圧倒的な白。
振り返れば、道の始まりだけがそこにあった。
もう、戻れない。
彼は意を決して歩き出した。何処までも続くレンガの道は白い圧力の中にあっても決して折れることなく、存在を守り続ける。
手の中の花が、どんなに時を経ても枯れないように。
そういえば、車の中に飾ってあったあの時の花はどうなっている、だろうか……?
彼の中に、そんな考えが泡のように浮かんで、消えた。
Planet-BLUE