空中でぶつかり合い相殺する、実体を持たない青い光が視界を埋める。
そして、それを切り裂くように一陣の風が彼に迫る。『死を喰らう疾風(フレースヴェルグ)』だ。そう彼の脳が判断を下す前に腕は動いていた。
「 『疾風喰らう翼(ヴェズルフォルニル)』!」
声と同時に展開された空気の膜……防御壁は、迫っていた風をも取り込み無力化する。そこに、クレセントの朗々とした声が響く。
「何故、抵抗する?」
「わからない」
彼は素直に答えた。
クレセントの言葉は理解できる。彼にはこれ以上足掻く意味もない。とっくに理解していたつもりなのに、か細い声は頭の中に響き続ける。
約束。
自分は、何を約束したというのか。そして、何を果たせずにいるというのか……?
わからないのだ。何もかもが。
「約束など、もはや無意味だと何故気づかない。貴方はどれだけの約束を破ってきた」
クレセントの顔が、目前に迫る。魔法を使ったのだろうか、水面に波紋を残しながらもまるで空を走るように、肉薄する。彼もまた口の中で魔法を発動させるための言葉を素早く唱え、生みだされた音速にも近い風に身を任せて大きく下がる。青い光の刃を纏ったクレセントの左腕は空を切った。
そのまま突っ立っていれば、間違いなく殺されていた。
彼は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
クレセントは無表情のまま、唇すら動かさずに残酷な言葉を彼の頭の中に叩き込む。
「彼女を守る……トワにそう言ったのも、貴方だった」
胸が痛い。
痛みは水面の波紋を生み、波紋は彼の足元を揺るがす。思わずそのまま足を取られそうになるが、魔法によって生み出された跳躍力で空中へと飛び上がり、そのまま青い足場を生み出し、白い空に着地する。
「貴方には、何も守れるはずがないのに」
「そうだ」
彼はぐっと左手を強く握り直し、血の気の引いた唇で呟く。
「私には、何も守れない……あの時も、そうだった」
手の中で冷たくなるその身体を抱きしめて、自らを含めた全てを恨み、消し去ることを願ったあの日。全てを夢だと定めた運命の日。白と赤の、記憶。
忘れられればいいと願ったはずだった。だからこそ、夢だと思いたかった。
「ならば何故、トワに『守る』と約束した」
言葉と共に、空中を蹴ってクレセントが再び刃をかざす。
それもまた、幾度となく問われた問いだった。何度も何度も繰り返す言葉の螺旋は夢か現か。それとも、元よりその境は存在しないのか。彼は小さな風を巻き起こしクレセントの狙いをぎりぎりで逸らしながら思う。
「守りたかった」
微かに声を漏らす。その声はあまりに小さく自らが生み出した風の音にすら紛れてしまいそうだったが。
「守りたかった。トワを見た瞬間に、そう思った。今度こそ、この手にあるものを手放しはしないと……そう願った」
「それが、矛盾だというのだ、白兎」
風を逃れ、刃を持たないクレセントの右腕が彼の肩を捉える。赤い瞳と青い瞳が交錯する。酷い息苦しさに、彼は思わず目を閉じる。
「貴方は過去を夢だと言い切りながら、過去に縛られる。夢と現を彷徨い、過去と今を彷徨う。永遠に続く、不毛の螺旋だ。何故そうまでして否定することを選ぶ……?」
クレセントの言葉に、何か感傷にも似た響きが混ざったことに気づき、彼ははっとして目を見開いた。クレセントの瞳は変わらぬ深淵の青だったが、その奥に何かが映り込んだような気がして息を飲む。
それは、見間違いでなければ……
気を取られた一瞬、クレセントは彼を引き寄せていた右手を離し、胴体を思い切り蹴り飛ばした。襲い掛かる熱、次いで実感する鋭い痛みと吐き気。彼は魔法の集中を失って空中から水面へと落下する。
まずい。
彼は無理やり脳内で魔法の構築式を組み上げて、呻く。
「……『闇駆ける神馬(スレイプニル)』……っ!」
再び生み出された青い足場が落下の速度を和らげ、彼の身体は水面ぎりぎりのところで静止する。嫌な痛みが腹の辺りに残ったが、何とか意識をクレセントに向ける。それだけで多少痛みは和らいだ。
何となく、彼にもわかってきた。
この白い空と青い海の世界は、実際に存在する場所ではない。先ほど見た男と、クレセントが言っていた通りの……『深淵』。誰かの意識が紡ぎあげた、空虚なる幻想。目の前に存在するクレセントも、自分自身も、幻想の産物。
この体も、魔法も、痛みも、全ては自分の意識が生み出した、実体ではない何か。そうでなければこの両目は盲いたままだろうし、病に侵された右腕もここまで自由に動くことはない。水面の上で踊るなんて芸当も、出来るはずがない。
ただ、幻想といえ自分の意識がここに存在しているという『事実』だけは変わらないという確信もまた彼の中にはあった。
この幻想たる自分がクレセントに本当の意味で『殺された』時、全てが終わる……
ともすれば凍りつきそうになる意識を無理やりに繋ぎとめて、クレセントを見つめる。
ほんの少し前まであれだけ消えてしまいたいと思っていたのに、何故今更足掻こうとこの身体が動くのか。もうトワには手が届かない。彼女の温もりは既にない。守るべき約束は葬った、はずだったのに。
手の中のビー玉が、熱い。
思い出せと頭の中で誰かが叫ぶ。思い出すなと誰かが叫ぶ。
思い出せば、また彼女を喪った時と同じ場面を目にすることになると、耳元で誰かが冷たく囁く。
攻め込んでくるクレセントに一撃を返そうとしていた彼の腕が、止まった。
全てを押しつぶしそうな圧迫感を伴う白い空が、否応なく彼の目に入る。白。それは彼の記憶の底で圧倒的な恐怖となって圧し掛かる。彼は頭を抱えて、呻いた。
「……あ、あああっ」
白かったのだ。
全てが白く染まって、目が覚めたときも、白く。
全てを失ったと気づくまでに、どれだけ時間がかかったか、思い出したくも、ない。
全てを奪ったのが誰であるかという事実を葬るまでに、どれだけ時間がかかったか、考えたくも、ない。
思い出せ。思い出すな。
相反する意志。
クレセントは水面の上に爪先立つと、容赦なく身動きのできない彼に雷の鉄槌を食らわせる。痛みは遠く、ただ思考が白く埋め尽くされる。
あの日と同じ、白。
「もう、嫌なんだ……!」
彼は腕を一振りした。その拒絶の意志が、クレセントの放った雷を一瞬だけ弱める。
ゆらりとその場に立った彼は、クレセントをぎっと赤い目で見つめたまま、叫んだ。
「私は何も失いたくない! 私の『力』が何かを奪うのは、もう嫌だ! だから拒絶するのだ! だから否定するのだ! 私さえいなければ、悲劇は起きなかった! 彼女は死ななかった! トワは『白の二番』を求めなかった! なのに」
何かがずっと、欠けていた。手の中にあるビー玉が、何かを語りかけている。決定的に欠けてしまっていた、何かを。
本当ならば、五年前のあの日に命を絶つべきだった。悲劇の源が自分ならば、自分さえいなければよいとずっと考えていたのにも関わらず、ここまで来てしまったのは。
「何故、私は、ここにいる……?」
一度矛盾に気づいてしまった魂は、終わりのない迷路を彷徨うばかり。白と青の世界に取り残された彼は呆然と立ちすくむ。すると、クレセントが伸ばした左の腕が、彼の喉笛を押さえ込んだ。
「……『無限色彩は、ココロの力』 」
クレセントの口から放たれたのは、聞き覚えのありすぎる声。同時に、聞き覚えのありすぎる言葉。
「かつてそう唱え、信じようとしたのは貴方のはずだ、白兎」
ひゅう、と絞められた彼の喉から嫌な音が漏れる。見れば、クレセントの左腕から純白の翼が生まれている。『白の二番』……『深淵の白』の力を象徴する、無限の翼。その翼は何にも染まらず、また何もかもを破滅に導いてきた、モノ。
しかし。
彼は朦朧とする頭で「違う」と確信していた。
『これ』は、クレセント・クライウルフではない。
そう思った瞬間、再び彼の赤い瞳とクレセントの青い瞳が、合う。
今度ははっきりと見ることができた。クレセントの瞳の奥に、息づいている何かを。
瞬間、時間が止まったような気がした。
「……ぁ……っ」
喉を絞められているせいで、言葉は声にならない。だが、唇だけで彼は言った。
『嘘だ』
それを見たクレセントは、口元だけで笑った。そう、『彼』と同じ笑い方で。目を細め、口の端を歪めて、左右が非対称な、その笑い方で。
翼を纏ったままの左腕が、突き放すように彼の喉を離す。思わぬ解放に咳き込み、水面に膝をつく彼に向かって、クレセントは言い放つ。
「否定しようとする弱さを責めるつもりはない。約束を守れなかった貴方を笑うつもりもない。ただ、私は許せないだけだ」
水面に波紋を広げ、クレセントは一歩歩み寄る。見れば、クレセントの周囲の水面が泡立ち、ゆっくりと持ち上がっていく。
「全てを否定しようとするが故に、一番忘れてはいけないことまで共に封じてしまった貴方を」
彼が目を見開く前で、クレセントの左の頬に刻まれた『地を呑む蛇(ミドガルズオルム)』の紋章が輝き、水は巨大な蛇の顎へと姿を変える。煌めく鱗は硝子のよう、透き通った牙は氷柱のよう。しかしその無機質な目はあくまで冷たく、彼を射る。
彼は立ち上がって、駆け出した。魔法を紡ぐだけの精神力も残ってはいなかった。がくがくと震える足を叱咤して、駆ける。
「貴方は、忘れている」
背後から、遠ざかることの知らないクレセントの声が、響く。
「そのビー玉を渡した声の主を。その約束を」
どんなに駆けても彼の背後に巨大な水蛇が迫っているのが、わかる。
「そして、貴方の腕の中で息を引き取った、彼女の最期の言葉を」
「……っ!」
彼は息を飲んだ。
それが、致命的な隙となった。
足元の水面に広がる波紋に足を取られ、彼は体勢を崩した。その拍子に、左手に握っていたものが、手から離れる。
青いビー玉は白い空と青い海の間に、儚く輝きながら落ちていく……
『やくそくだよ』
小さな声が、大きく、響く。
彼は倒れながら、手を伸ばした。このままこのビー玉まで手放してしまえば、最後まで自分は何もわからないまま。大切な……一番大切なものを欠いたまま、消えていく。
違う。
違うんだ。
ゆっくりと、ゆっくりと、落ちるビー玉を見つめて、彼は思う。
本当は、否定したかったわけじゃない。
本当は、忘れたかったわけじゃない。
ただ……
背後に迫る蛇の顎など、もう彼の意識の中にはなかった。意識の中心にあるのは、彼の欠けた記憶の鍵。青い、どこまでも青い、硝子球。
「ただ、私は、愚かなまでに臆病なんだ」
小さく呟いた、その瞬間。
今にも牙にかかろうとしていた彼の身体が、海に沈んだ。今まで水面の上に立っていられたのが嘘のように、現実的な水圧と重力を伴って、彼の身体を底へと沈めていく。
同じように沈み行くビー玉は、伸ばした彼の指先に微かに触れ……しかし、再び握り締めることは、出来なかった。
クレセントは、一人きりになって水面に佇んでいた。自らが生み出した水の蛇の横に立ち、その深い青の瞳で水面を見つめていた。水面に残った波紋は、飲み込まれた『彼』の余韻そのものに思える。
「……貴方の前に広がるのは、貴方という名の深淵」
クレセントの喉から漏れた声は、クレセントのものではなかった。しかしその不思議な響きの声を聞くものはもはやなく、白い空がその声をも沈黙という名の威圧で消し去ってしまうけれど。
クレセントの姿を借りた何かは、微かに笑んで、言った。
「硝子球はきっかけに過ぎない。……後は、貴方次第」
――――さあ、夢から覚めることが出来るかな?
クレセントの形をした何かは、口の中で小さく呟き、白い空を仰いだ。
白い空と青い海。
空漠と深淵。
それは、誰かのココロをそのまま映し出した世界。
そこに一人立つ影は、穏やかに笑っていた。決して、『彼』の知るクレセントには出来ない笑顔で。
Planet-BLUE