Planet-BLUE

119 存在全否定

 彼は立ち上がり、一歩下がる。
 心の底から湧き上がってくる感情が何かわからないまま、ひゅうと息を吸った。足元の水面が小波を立てる。それは、まるで彼の動揺をそのまま映しこんだかのごとく。
 もはやこの世に存在していないはずの……あの、『事件』の日に死んだはずの『白の二番』クレセント・クライウルフは歪んだ微笑を浮かべたまま、口を開く。
「何を恐れる?」
 その声は、耳に届くというよりも頭に直接響いているようで、彼は思わず小さく首を振る。
「貴方は、全てを否定した。自己の存在をも夢だと定義した。何を今さら恐れることがある?」
 淡々と、クレセントは言う。薄い色の唇が紡ぐのは、呪詛にも近い囁き。彼はもう一歩、下がる。クレセントは実際に彼を追ってくることはなかったが、その代わり……というべきなのかはわからないが、右腕をゆっくりと上げ、掌を彼に向けた。
 掌に刻まれているのは、限りなく記号に近い『槍』。知恵と力とを掌握した偉大なる神が握っていたとされる神秘の槍の名を冠したその紋章は、相手の肉体ではなく精神を貫き、刈り取る力となる。
「貴方は覚えているか?」
 何も言えずにいる彼に対し、クレセントは妙に饒舌だった。ただし、この男が饒舌であるということが何を意味しているのかは、彼が一番よく知っている。
 表情には出さない、むしろ出せないだけで、クレセントは言葉という媒体を利用することによって彼に対して一つの感情をあらわにしているのだ。
 その感情の正体はおそらく、「怒り」。
「己の持つ色彩を恐れた哀れな男は、自らの身体に魔法を刻んだ。色彩に頼ることなく、自らの身を守れるように。自らを守ることができれば、身に余る色彩を開放することもなくなると信じて」
 彼も、思わず自らの右手を見た。右手に刻まれているのは、目の前に立つ白いコートの男と同じ、『槍』。それだけではない。右の手の甲には光を司る鳥の名を冠する紋章が刻まれているし、二の腕全体には暴風を支配する狂える鳥。左の腕には銀色の鎖。足には八の脚を持つ神馬……
 体内の力を紋章という名の一種の『門』を通して振るう、魔法士。彼はその一人であり、またクレセント・クライウルフは、ある意味でその頂点に立つ存在でもあった。
 有名な話ではあるが、クレセントは正規の教育を受けた魔法士ではない。
 クレセントは、平たく言えば『実験体』だったのだ。未だ法則が確立されていない紋章魔法の技術向上のため試行錯誤を繰り返す研究者たちにクレセントは自ら協力を申し出た。
 理由は、先ほどクレセント自身が言っていたとおり、無限色彩を恐れるが故であろう。力を手に入れることができれば、少なくとも色彩に力を求めるような考えは起こさないと信じて。無限色彩が心の力であり、弱った心が呪われた色彩を呼び起こすのならば、できる限り強くあろうと考えて。
 それがとても浅はかな考えであることすら、はっきりと理解しながら。
 彼もまた、目の前に立つ男の全てを理解していた。ただ、理解することと、認めることは違う。薄く開いた目……本来は見えないはずの赤い瞳……で、クレセントの頬に踊る蛇の紋章を見つめる。
 現在の紋章魔法士隊の隊長ですら保有し得ない魔法をクレセントが刻んでいる所以もまた、クレセントが『実験体』であったことに由来する。もちろん、その中には魔法として正常に発現しないような『失敗作』も多く含まれている。
 その中でも、ただ一つ、クレセントのみに扱うことの許された強大な魔法が存在する。誰もがその名を知っていながら、決して扱うことのできなかった、魔法。
 『地を呑む蛇(ミドガルズオルム)』。
 地球に伝わる北欧神話の名を冠したアスガルズクラフト最強の魔法。その名が表すとおり、神々の最終戦争において全てを飲み込む海蛇、ヨルムンガンド……ミドガルズオルムの名を掲げるその魔法が、クレセントの左頬に刻まれているそれだった。
「全てを飲み込むもの。私に相応しい魔法だと思わないか? 白い深淵に、己の全てを沈ませて葬ろうとしてきた『私』に」
 『私』――――
 その言葉と同時にクレセントの目と、彼の目が、合う。
 精神感応という一点にのみ特化した異端の色彩保持者であり、『青』を除けば最も強い色彩を内包するとされている『白の二番』……『深淵の白(アビス・ホワイト)』クレセント・クライウルフ。
「逃げられると思うな」
 クレセントの瞳はそれこそ『深淵』の名に相応しい闇を映し込み、白い唇が紡ぐのは、容赦のない言葉。
「何故『私』がここにいると思う? 何故『貴方』がここにいると思う? 全ては貴方が導いた結果……そして、貴方は『貴方』をも否定する。その先に待っている結末が何か、理解しつつも、なお」
 何度も聞いた言葉だ。
 否定。
 言葉通りの意味を持っているはずなのに、何故か彼には遠く聞こえる。
「過去を否定し、今を否定し、未来すらも否定する。悲しき否定の魂」
 まるで戯曲か何かの台詞のように、高らかに言葉を放つクレセント。彼は知っている。このクレセントという男は、妙に芝居がかったところがあるのだ。ただし、決してそれが演技と言うわけではない。クレセントは元よりこのような性格なのだ。
「存在の全否定の先に待つのは、無でしかない。それを理解してここに来たはずの貴方が」
――――何を、今さら恐れると?
 初めに問われた残酷な言葉が、再びクレセントの口から放たれる。
 彼は両足で水面を踏みしめ、俯く。そこに立っているはずなのに、足元はやけに不安定で、今にも足から力が抜けそうだった。そして、一度倒れてしまえば、この底のない海に沈んでしまうだろうという確信が彼の中に生まれる。
 否定していたというのは間違いではない。過去を否定していなければ、目の前にこの男が立っていることはない。現在を否定していなければ、自分が今この場所にいることはない。そして、未来を否定するということは……恐れる理由もない。
 ならば、何故自分は一歩クレセントの元に歩み寄らない。青い光の槍に貫かれてしまえばいい。この海に全てを沈めてしまえばいい。それだけで全てが終わる。醜い否定の連鎖も断ち切れるはずだろう。
 ずっと考えていた。
 全てを否定しながら、最後まで完全に夢だと言い切れなかったのは……
 ふと、彼はずっと左手を握り締めていたことに気づく。手袋を嵌めたままの左手の中で、何かが熱を帯びている。クレセントから目を離し、左手を見れば、握ったその隙間から淡い、青の光が漏れていることに気づく。
 記憶の水面に映る、少女の瞳と同じ。何処までも澄んだ、悲しいまでの海の青。
 恐る恐る手を開けば、手の上にあるのは小さなビー玉。少女が願いを込めた儚い硝子の一粒が、別れたその瞬間と変わらぬ姿で左手の中に存在していた。
 そして。

『そのときには、わたしと……』

「……っ!」
 頭の中に響く微かな声。酷い頭痛に呻きを漏らす。

『やくそくだよ』

 約束?
 何を約束したというのか。
 記憶の彼方。水底に沈めた記憶のどこか。白兎と青い少女。セピアの追憶。白と赤の世界。違う、そのどれでもない。この青いビー玉はいつから自分の手の中にあった?
 わからない。
 そう、それだけが、わからないのだ。
 そして、彼の足を止めているのは、おそらく……
「さあ、終わりにしよう、白兎」
 クレセントは作った笑顔を消し、無慈悲な深淵をそのミッドナイト・ブルーの瞳に湛える。彼は、もう一度ビー玉を握りなおす。本来冷たいはずの硝子は未だ熱を帯びたまま。
 何を約束したというのか。
 この小さな硝子玉は何も語らない。
 耳の中で囁くのは決定的な場所が欠けた小さな声。今にも掻き消えそうな、弱々しい言葉。
「まだ、だ……」
 彼は、渇いた喉で呟く。クレセントは応えないまま、上げた右腕に力を込める。
「足りない、何かが、足りない」
 砂のように水のように零れ落ちる何かを受け止めようと足掻く彼に、クレセントの声が重なる。
「さよならだ」
 はっとして彼が目を上げれば、目の前に迫っている青白い光の槍。全てを奪う神の一撃。
 彼は反射的に右手を上げていた。それで今さら何ができるというのか。何が変わるというのか。何かを変えたいと望んでいるのか。それすらもわからないまま、ただがむしゃらに、自分の中に残された力全てを込めて、喉が割れるほどに叫んでいた。


「――――『死呼ぶ神の槍(グングニル)』!」