彼が立っているのは、白い空の下、どこまでも続く青い海の上。
ここが何処なのかは理解できない。見たことがないような気がするし、逆にとてもよく見たことがあるような気がする。ただ、本来は見えないはずの瞳を、遠くの水平線へと向けているだけの彼が水面の上に両足で立っているというその違和感に気づくことは、なかった。
その時、海の上に波紋が走る。
小さな波が足元を揺らしたことで彼は波紋の中心の存在に気づいた。
目を向ければ何もなかったはずの場所に、一人の男が立っている。
彼が白い髪を持つならそれは黒い髪を持ち、彼が赤い目を持つならそれは青の瞳を持っている。
黒い髪に青い目。何処までも鋭い目はこちらの全てを暴き立てるような、それどころか自分ですら理解していない部分にまで深く突き刺さり、抉り出すような光を帯びている。
反転。
彼の脳裏に浮かぶのは、そのような言葉。
夢だ。これも夢だ。
何度繰り返したかわからない結論を下して、彼は一歩下がる。足元の水面が揺れて波紋を生む。
『やっと、ここまで来たか』
黒い髪の男は口を開く。高くも低くもない、淡々とした声が漏れる。
知らない声だ。
知っている声だ。
何故かまた矛盾した思考が泡のように生まれてははじけて消えていく。彼は男を睨みつけるが、言葉は出ない。何を言えばいいのかわからない。それ以前に、自分はどうしてこのような場所に立っている。自分で望んで来たわけではない。ここは何処だ。
お前は、誰だ。
混乱を極めていく思考。それすらも切り捨てる言葉が男の口から放たれる。
『これは夢ではない。貴方が切り捨てようとしたもの全てが沈む、深淵。現実も非現実も超越した、矛盾の世界』
「どういう、ことだ?」
彼が擦れた声で問えば、男は微かに目を細めて口端を上げ、非対称な歪んだ笑みを浮かべた。黒い髪に隠されている右の目は縫い付けられていたため、余計に非対称さが際立つ。
『それは、貴方が一番よく知っているだろう?』
彼は無意識に男から目を逸らし、空を仰いでいた。白い空。地球の空の白とも違う、空気の質量すらも感じられない、不自然に塗りつぶしたような白。
『貴方は私を恐れた。だから私に「私」という存在を定義し、この深淵に沈めた。貴方が否定した「私」にまつわる全ての記憶と共に』
理解が出来ない。
もう一歩、彼は下がろうとしたが足が動かない。何度このようなことがあっただろう、夢の中で繰り返し繰り返し同じ影に追われ、目が覚めたときにはひどく頭が痛い。だが、これが夢ではないと?
「笑わせる」
彼は無理やりに笑う。表情を失った彼に唯一与えられた、目の前の男と全く同じ笑い方で。
「夢は夢だ。また、どこかで覚めるのだろう?」
『ならば』
男は笑顔を消した。一歩踏み出し、目を逸らしたままの彼に迫る。
『何が貴方にとっての現実だと?』
彼はびくりと身体を震わせ、男を見つめた。男は開いた左目で彼を見据えている。まるで深淵そのもののようなミッドナイト・ブルー。この色をどれだけ見ていなかっただろうか。
そして、どれだけ嫌っただろうか。
光なき闇を映した黒髪も、夜の色の瞳も。
全てを憎み、全てを否定し、彼に残されたものは、ただ――――
『少女と過ごした旅の記憶か。彼女と過ごした平穏の日々か。それとも血に赤く染まった左腕か。どれが貴方にとっての現実だと言える? 貴方はその全てを偽として否定し深淵に沈めた。貴方に残された現実とは、何だ?』
水面が揺れる。
鏡のように映し出されるのは、一人の少女の姿。最後の悲しい笑顔を浮かべた、あまりに小さく儚い少女。だというのに、その少女の目の色はどこまでも澄んだ、海の青。それだけではない。少女の姿は揺らめき、少しずつ変化していく。出会ったころの、おびえた表情。不安げに見上げる瞳。自らに恐怖し、また彼に恐怖されることも恐れ涙した姿。ふとした時に浮かべる、穏やかな笑顔。
夢だ。
夢じゃない。
矛盾する思考。
水面に映るのは少女だけではない。寂しげな目で見つめる羽の生えた女。鋭い言葉で迫る、緑色の髪の青年。冷たい色の目でこちらを見据える三つ編みの女。背筋を伸ばして立つ銀色の髪の妖霊人に、黄色の髪を波立たせて不敵に微笑む背の低い男。剣を交えた金色の瞳の男は舌を出し、深い青の瞳をした軍人は侮蔑と共に刺青の入った掌をこちらに向ける。
『それもまた、夢だと?』
金色の髪を持った男は緑の瞳で、笑う。片手は剣でありながら、どこまでも優しくあろうとした甘すぎる思考。
水面に映っては消える極彩色の夢。それを見下ろしたまま彼は立ちすくむ。
全ては少女と白い男を巡る記憶の螺旋。夢と切り捨てたはずのイメージが再び彼に迫っていた。
やがて水面は色を変える。極彩色のイメージはセピアの色調に沈む。映し出されるのは、穏やかな瞳で笑う、女。しなやかな指先が白と黒の世界で踊る。奏でられる音は既に深淵の底、今の彼に届くことはなかったが。
女は奏でる。女は喋る。女は笑う。その横にいたのは女とよく似たもう一人の笑顔の女、そしてその女の横に立っている、やはり笑顔の男。
皆、笑っていた。
自分も、また――――
「……私、は」
水面に膝を折った彼の呟きは虚空に消える。前に立つ、鏡のような男は何も言わなかった。深淵そのものの色をした瞳で彼を見下ろすだけ。
残酷なまでのセピアの追憶は続く。果てなき水面という名の銀幕に、淡々と、映写機を回し続ける。
水面は穏やかな時間と共に、血塗られた空間をも映し出す。セピアの色彩と、白と赤の混沌が混ざり合う。白い空間に飛び散った赤いもの。首や腕を変な方向に曲げた人形のようなもの。そして眠っているかのような、子供たちの姿。長すぎる冷たい廊下のイメージが女の笑顔と被さる。
どれだけ長い間夢を見ていたのだろうか、と彼は朦朧とする頭で思う。
女の笑顔はやがて白と赤の悪夢を晴らしていく。混ざり合おうとしていた混沌は薄れ、優しい記憶だけが水面に映し出されるようになる。
初めて女の独奏を見た日。その指先を掴んだ瞬間。唇の触れ合った時。ベッドの上の対話。古びた教会の風景。夜の散歩。ゆっくりと、静かな夢はセピアより深い色に沈み、彼もまたまどろみに似た遠のく意識を覚える。このままこの水面に、夢の中に沈んでいければ幸せなのに、とすら思う。
だが、最後に映し出されたのは花束を手に見つめたステージ。真っ赤な花を咲かせ女が倒れ付す、その、瞬間。
セピアは爆発的な白に塗りつぶされ、やがて赤に染まり青の水面へと還る。
残されたのは、彼、ただ一人。いつの間にか、水面の上に立っていた男も消えていた。
「う、あ……」
水面の上に手をついて、彼は呻いた。今までにないほどの頭痛に視界が歪み、酷い吐き気を催すものの吐き出すだけのものも胃の中になく。
全て、貴方は知っているだろう。頭の中で誰かが囁く。
――――いや、こんなもの。
「知らない……私は、何も知らない!」
擦れた声で叫んだその瞬間。
「ならば、貴方もまた夢の底に、深淵にどこまでも墜ちていくがよい」
冷徹な言葉。
そして、耳の横を掠めて降る、青白い槍。
はっとして彼がそちらを向けば、そこに立っていたのは見まごうこともなき白いコートの影。左の頬に大地を飲み込む海蛇を躍らせた、黒髪の男。
彼は唾を飲み込み、嫌悪と恐怖の入り混じった決定的な言葉を吐き出す。
「クレセント・クライウルフ」
その名だけは、今までずっと忘れることなどなく。
それを聞いた影、クレセントはやはり、深淵の瞳を細めて歪んだ……壮絶な笑みを浮かべてみせた。
Planet-BLUE