「……大丈夫?」
彼はうっすらと目を開ける。自分の顔を覗き込むのは一人の女。明るいブラウンの瞳は温かな色を湛え、紅を引いた唇はうっすらと笑みを浮かべていた。
「うなされていた、みたいだけど」
「ああ」
彼は鈍い痛みを残す頭を振って起き上がる。どうやら自分はソファの上に横になっていたらしい。こんな所で眠るとはらしくないな、と思いつつ、女を見る。
「悪い夢でも見ていたの?」
女はいつも通りの微笑みで、問う。その問いかけもまた、彼女が彼に何度も繰り返してきたものだったと思う。目覚めたばかりだからだろうか、彼は何となく全てが霞に包まれているような心持ちで答えた。
「悪い、夢……そうかも、しれないな」
今この瞬間の意識すら曖昧だというのに、眠っているときに見た夢をきちんと覚えていられる方がおかしい。実際に、問われて彼の脳裏に浮かぶのは、眠っていたときに見た断片的な記憶でしかなかった。
青い瞳を持つ、小さな少女の別れの笑顔。
去り行く背中。
そして、ただ一人残された、白い男……
あれは、誰だったのだろうと彼は思う。孤独に、全てを否定し続ける悲しき魂。否定する、という感情は彼にも理解できる。彼もまた、何もかもを否定したい衝動に駆られることがあるから。過去に犯した罪や、何かを傷つけた記憶。それらが、今の彼にも濃い影を落としていたのもまた、事実だったから。
「長い夢だったような、気がする」
彼は言いながらも夢の記憶をひとまず横に置いた。夢は夢。それ以外の何でもないのだから。見慣れたリビングを見回してから、彼はゆっくりと息をつく。どのくらい眠っていたのだろう、テーブルの上に置かれた立体映像式多層時計は夜八時の辺りを指していた。
「まだ、二人は帰っていないのか?」
「ええ。遅くなるって言っていたわ」
「そうか……これは、貴女が?」
彼はソファから下りる前に、自分の上にかけられていた彼自身の黒い軍用コートを指して言った。おそらく、眠っている彼のことを考えてかけてくれたのだろう。女は笑顔のまま答えた。
「夜は特に冷えるから。風邪を引いたら困るでしょう?」
「そうだな。ありがとう」
自分も笑顔を返したかったが、どうにも上手く笑顔にならない。一度壊れてしまった機能は機械と同じように、すぐには戻らないのだろう、と思う。特に、イチとゼロだけで構成されているとは言いがたい人間ならばなおさらなのかもしれない。
彼の場合は、自分の感情を上手く表現する方法を失っていた。目の前の女に言わせれば少しずつは良くなっているようだが、この女やいつも側にいるあの男のように、思ったとおりに笑えるようになるのはいつになるだろうか。
あの、夢の中に出てきた白い男もまた、笑顔を失っていたけれど……
そのことを思い出そうとすると、急に息苦しくなった。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
立ち上がって、手にしていたコートを羽織る。黒いコートの襟に、同じ色の髪がかかる。切るのが面倒なので伸ばしていたが、そろそろ切った方がいいかもしれない、と思いながら女を見れば、女も壁にかけてあったベージュ色のジャケットを手に取った。
「なら、一緒に散歩しましょう」
「ああ」
どこまでも明るい笑顔を浮かべている彼女が、ほんの少しだけ羨ましい。無造作にジャケットを羽織ると、短いオリーブ色の髪が揺れる。
その時、彼の目には、女の姿と被さるようにして一人の少女の姿が見えた。小さな上着を纏い、微かに青みがかった銀色の髪をふわりと揺らし、こちらを振り向く。
澄み切った青い瞳がこちらを射抜く。
「……っ!」
思わず息を飲むと、女は不思議そうに彼を覗きこむ。その瞬間、幻視は消えた。
「どうしたの?」
「い、いや、何でもない」
どうにかしている。
夢に見た少女とこの女が、二重写しに見えたなんて。姿は似ても似つかないというのに。軽く目をこすりもう一度女を見たが、今度は少女の姿など見えなかった。
「行こう」
言って、リビングを抜けて玄関のドアを開ける。家の前の明かりが灯されている以外に明かりはなく、道に並んでいる街灯は既に明かりとしての役目を果たすことを止めていた。もうすぐ滅びる街の風景など、どこも同じようなものだったが。
通行人もない夜の歩道を、不安定な足元を気にしながらゆっくりと歩く。時折灯っている民家の暖かな光に、二人の影が落ちる。
「……寒くないか?」
彼が問いかけると、女はジャケットの前を合わせて、白い息を吐く。
「何だか、また寒くなった感じね」
乾いた空気が積もった砂を巻き上げる。彼は震える女の肩を抱き寄せた。これで少しでも温かくなればよいのだが、と思う。
「中央の気象制御装置が稼働率を五十パーセントにまで下げたそうだ。政府側も、これ以上この星に予算を割くわけにはいかないという話だ」
元より家からほとんど出ない彼が毎日することといえば、絶え間なく流される星間放送のニュースを見ることくらいだった。そんな彼に対し、常に忙しく毎日届けられるニュースメールにも目を通さない女は「初耳」と目を丸くする。
「だから、最近また気温が下がってるのね」
「そうだろうな」
残りたったの五年で全てが消えてしまうのだから、もう少しくらい待っていてもいいではないかと思わないでもない。だが、こちらが政府の退避勧告に従っていない、というのも確かである。今回の政府の方策には、この星に残ろうとする人々を諦めさせようという思惑も多分に含まれているだろう。
そう、彼もまた、この星に残ろうとする人間の一人だった。この星に生まれたわけでもない彼がこの星に残ろうと決めた理由は、ただ一つ。
「でも、これだけ寒くて空気が澄んでいると、星がよく見えるわね」
足を止めて、女は漆黒の空を仰いだ。彼も空を見上げた。星は瞬き、こちらを見下ろしているようにさえ見える。
「 『ゼロ』も、よく見えるな」
彼の目線の先には、どの星よりもまばゆい光を放つ、青い星があった。あと五年ほどでこの星に接触し、全てを消滅させると言われている不可思議な、質量を持たない発光体。不可思議なのはそれだけではない。
女は彼と同じように『ゼロ』を見つめながら言った。
「歌、聞こえる?」
「……そうだな」
言って、彼はゆっくりと息を吐き、耳を澄ました。白い霞のように吐き出された息はそのまま空気の中に霧散する。
静けさに包まれた世界の中に、鈴の鳴るような音が、響く。
それはやがて言葉を持ち、圧倒的な合唱へと変貌する。甲高い女の声に聞こえれば、低く響き渡る男の声もある。それら全てが同じ言葉を彼に向かって訴えかけていた。
『私は、ここにいる』
『私から、目を背けないで』
『私は』
「独り……」
メロディラインも、歌詞もいつも同じ。人の耳には決して届かない声で歌われる歌が、彼の頭の中に響き渡る。それにしても、今日は普段以上によく聞こえる。内容は同じだが、聞こえ方は毎回微妙に異なる。言葉すら聞き取れないときもあれば、今日のようにはっきりとその声の違いまで聞き取れる日もあるのだ。
「聞こえた?」
女が耳元で囁く。
「よく聞こえる。……何故、『ゼロ』は歌っているのだろうな」
「さあ、私には聞こえないから、それはわからないけれど……」
彼の呟きに、女は『ゼロ』を見上げたまま苦笑する。
この歌は、おそらく空に輝く『ゼロ』から流れてくるものなのだろう。しかも、その歌は「声」というよりも微弱な「思念」に近い。あまりに微弱すぎて、ほとんどの人間はそれを聞き取ることは出来ない。事実、今まで『ゼロ』の歌を聞いたという人間は彼以外に存在していなかった。
「もしかしたら『ゼロ』は、貴方に、何かを気づいて欲しいんじゃないかな」
「気づく?」
「そう。それはきっと貴方にしか出来ないことなのよ。だから、貴方に向かって一生懸命歌っているんじゃないかしら」
何を気づけというのだろうか。彼は思う。
それに、自分に出来ることなど、何もない。
出来ることといえば……
「私に出来ることは、何かを傷つけることだけだ」
目を閉じれば、脳裏に映るのは赤い記憶。望まずして手にしていた力は彼の手に余る存在で。
「気づいた時には全てを失っているような、そんな私に何が出来ると?」
頭が割れるように痛い。『ゼロ』の歌は絶えず頭の中に響き渡り、思い出してしまった記憶が雪崩のように溢れだす。
『私は、ここにいる』
『私から、目を逸らさないで』
『私は、独り』
目を見開き、喉の奥をひゅうひゅうと鳴らす。頭の回転は止まり、赤い記憶に飲み込まれそうになる彼の頬に、温かな手が触れた。
その瞬間、意識が現実に引き戻される。スイッチが切り替わったかのように、『ゼロ』の歌も聞こえなくなる。
「……そんなこと、言わないで」
女はじっとこちらを見つめていた。女の言葉が本心から出たものなのは、彼が能力を使わなくともその真っ直ぐな目を見れば明らかだった。
「貴方が側にいるだけで私は温かな気持ちになれる。貴方は誰かの背中を守っていられる。こうやって、誰かの肩を抱いてあげることも出来る。何も出来ないわけない。貴方は何だって出来るの……ただ」
それを、怖がっているだけ。
小さく呟いた声は白い息と共に消えていく。
「そうかも、しれないな」
彼もまた、女の目を見つめながら、口の中で呟く。
彼が何よりも怖れているのは、彼自身なのだ。いつまた過ちを犯すとも知れず、また何かを傷つけその前に立ち尽くす、その光景が彼を何度も苛んでいる。笑顔を取り戻せないのも多分、そのせいなのだろうと彼自身は分析している。
何から逃げても、自分からは逃げられない。決して。
「でも、そうやって思うのも、貴方が優しいからなんじゃないかな」
「そうかな」
「ええ。貴方は誰よりも人のことを考えている。ただそれが上手く表に出てこないだけ。違うかしら?」
彼は何も答えられなかった。
優しい。そんなことを言われるとは思ってもいなかったから。
女はゆっくりと肩に乗せられた彼の手を外し、一歩前に出た。微かな明かりに照らされた彼女は長いスカートを揺らして踊るような動きで彼に向き直った。
「きっと、『ゼロ』もそれに気づいてて、だから貴方に歌っている、私はそう思うの」
女が浮かべるのは、微笑み。彼には出来ないその表情。
だが、何故だろう。
女の微笑みに被さって見えるのは、夢の少女。
何故そのような表情を浮かべるのか。自らの中に渦巻く感情を隠そうとして、痛々しいまでの微笑みを浮かべて。
目に映る悲しみの青だけは隠せないというのに。
少女の、別れの言葉を告げるその声は、いつまでも耳の中に響いている。
夢だと、いうのに。
眠っている自分が紡いだ、儚い物語だというのに。
どうして、ポケットの中にあるビー玉の感触までがそのまま残っているのだろうか。
「……?」
彼はふと、ポケットの中に突っ込んでいた手を引き抜いた。その手に握られていたのは、自ら淡い輝きを放つ、小さなビー玉。硝子球だというのに冷え冷えとした印象はなく、少女の手の温もりが手袋越しに伝わってくる。
青い光は、少女の目の色と、同じ。
「夢、だろう?」
喉が渇く。だがビー玉は彼の手の上にある。夢の中で少女が祈りを込めた、その瞬間のまま。
少女の幻を纏った女が、様子のおかしな彼を見て首を傾げた。
「どうしたの、 」
女の唇が、言葉を紡ぐ。
最後に放たれた言葉は声にはならず。
彼は全てを悟った。
伸ばしてくる女の手を素早く払い、弱々しい足取りで一歩だけ下がる。女は驚きこちらを見るが、その姿はやはり夢の少女と二重写し。
「違う」
彼は乾ききった唇を動かした。
「これも、夢なのか」
瞬間、全てが、霧散する。
Planet-BLUE