Planet-BLUE

115 剣と姫君

 この目には何も映らない。
 この耳には何も聞こえない。
 この手には何も触れない。
 これは全て夢だから。
 だから、どうか、放っておいてくれ。
 全てを否定してしまえば、それだけで楽になれるのだ。
 取り返しがつかなくなるまで傷つくことも、ないはずなのだ。
 貴方も、そして……私も。

 ラビットは思いながら、震える身体を無理やりに押さえ込もうとする。龍飛が何かを言っているが聞こえない。見えない。それこそ、脳が認識を拒絶している。ただこの身体を支配しているのは、得体の知れない恐怖。
 ……否。
 本当は、気づいているのだ、この恐怖の正体に。
 同時に、理性ではこの恐怖の正体を認めてしまえば楽になれると、気づいている。
 だが、恐怖を認めるということは同時に、自分が今まで夢だと否定してきた全てを認めるということになる。否定してきた過去、否定してきた過ちと向き合った瞬間に、それこそ何もかもが取り返しのつかなくなるという確信もまた、ラビットの中にはあったのだ。
「私は、ただ……」
 うわごとのように呟く声は、車の急停止によって阻まれた。衝撃は一瞬ではあるがラビットの正常な認識を取り戻した。
 視力補助装置越しに見えるのは、目前にまで迫った十台ほどのホバー。そして、背後からも、横からも。白い砂埃を上げて、間違いなくこの車を目指しているのは理解できた。見たことのない型だが、フォルムを見る限り、帝国領で多く使われている型のホバーだ。乗っている人間がまた見覚えのある、皆が同じ顔をしたスキンヘッドの機械人形たちであることも、ラビットの認識を肯定する。
 帝国の、暗部。
 おそらく、トワが連邦側に引き渡されたことはとっくに理解していることだろう。つまり、この『ポーン』と呼ばれた機械人形の目的は、ただ一つ。
 トワに関わった存在を、始末すること。
 無駄なことを、とラビットは思う。近づいてくる大量のホバーに対しても、絶えずラビットに呼びかけ、自身もまた打開策を講じる龍飛に対しても。
 どうにせよ、死期が早まっただけなのだ。あと少しで星が落ちる。あと少しで自分の身体を侵食する病が命を奪う。ならば、ここでこの機械人形たちに殺されようと、大して変わらないではないか。
 ラビットは再び虚ろな思考の中に沈みながら、心の中で呼びかける。
 だから、終わりにしよう、龍飛。
 確かに貴女よりも先に逝くのは、貴女を寂しがらせるだけだろう。それは正直辛い。だが、貴女の本体が置かれている天文台とて、もうすぐ消えてしまうのだ。そうしたら、一緒だろう?
 終わりにしよう。
 トワは帰った。聖も帰った。セプターも誰もが地球を離れ、元あった場所に戻っていくのだ。一年前と同じように、全てが閉じる。一時の夢は、覚めたのだ。
 私も、戻りたいのだ。独りだった、あの瞬間に。
 何も考えなくてよい、誰も傷つかなくていい、遠い場所に……
 ホバーは迫る。
 龍飛は叫ぶ。
『ラビット!』
 貫く声は遠く。まどろみにも似た意識の海に埋没しつつあるラビットは、熱に浮かされたような声で、呟いた。

「私は、ただ、誰も傷つけたくなかっただけなんだ――――」

 刹那。
 空が、色を変えた。
 白い粒子の空を何か輝くものが埋め尽くすような錯覚。光を反射する何かは、ラビットが目を丸くする前で、一気に収束し、物理的な形を持つ。
 それは、剣だった。
 空に浮かぶ、無数の剣。その全てが自ら光を放ち、また鏡のごとく磨き抜かれた刀身が光を反射し合い、星のように輝いていたのだ。
『何が……』
 龍飛が、呆然と言葉を放つ。ホバーに乗っていた機械人形たちも一斉に空を向き、この異様な光景を何とか認識しようとしていたが、このような現象、人形にプログラムされているはずがなく、次の行動を判断しかねているように見えた。
 ラビットは唯一、知識としても、感覚としても、この現象を正しく理解していた。震える身体を押さえつける腕に余計に力を込めて、声を絞り出す。
「……無限色彩……『水鏡の白』 」
『え?』
「何故、貴女が、ここにいる?」
 龍飛の戸惑いにも構わず、ラビットは剣の浮かぶ空ではなく前方を見つめながら擦れた声を放つ。車の前には、いつからそこにいたのだろうか、肩ほどで切りそろえた黒髪を砂交じりの風に靡かせた一人の少女が、ラビットたちからは背を向ける形で立っていた。
 その後姿はトワよりも幼いように見えて、ラビットよりもずっと老いているようにも見える。黒いワンピースに身を包んでいるだけに、袖から覗く手やスカートの下に見える足の白さが目に付いた。
 少女はふと、ラビットに目を向けた。その目の色は、星の海の、空虚な黒。見つめただけで全てを凍らせるだけの、力ある瞳。
「ミラージュ」
 乾いた唇でラビットが呟いた瞬間、少女は細い手を天に掲げた。
 それを合図にして、空に浮かんでいた剣が真っ直ぐに地面に向かって降り注ぐ。何よりも鋭い無限の切っ先は、煌めきの軌道を残しながらホバーとそれに乗っていた機械人形たちを次々に貫いていく。
 残酷なまでに淡々と、剣の雨が、降る。
 音もなく落ちる刃。
 冷たい白銀の輝き。
 圧倒的な破壊の力。
「よせ」
 無意識に、ラビットは車から降りて声を上げていた。
「やめてくれ、ミラージュ……」
 しかし、少女……無限色彩『白の一番』クロウ・ミラージュは雨を降らせることをやめなかった。剣はもはや動くことをやめた機械人形を何度も何度も貫き、切り裂き、原型すらも留めないほどに砕いていく。
 その光景を見つめているクロウに表情は無く、当たり前のようにその惨劇を見つめているだけだった。それを見て、ラビットは左手を握り締め、喉が割れるほどに叫んだ。
「やめろ、それ以上色彩を振るうな!」
 全てを貫くラビットの声は、それ自体が一つの力となって、クロウに届き……そして、次から次へと生まれつつあった剣を一瞬のうちに消し去った。まるで、全てが幻か何かであったかのごとく、空は元の白い色を湛え、大地に突き刺さった白銀の刃も跡形もなく消えていた。
 だが、全て幻でなかったというのは、残されたホバーと機械人形の残骸が証明している。
 クロウはゆらりと、ラビットに向き直る。その手には、降らせていた剣よりも一回り大きな、やはり冷たく輝く剣が握られていた。
「相変わらずね、白兎」
 クロウの小さな唇から放たれた声は、可憐な外見に似合わぬ低い、落ち着いた響き。ラビットは膝が折れそうになるのを車体に片手をついてこらえつつ、言葉を搾り出す。
「何が」
「今、わかったでしょう? どんなに否定しても、貴方は色彩から離れることはできない。貴方の力は、どんなに貴方自身が否定しても付きまとう」
 クロウの言葉に、ラビットは一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「……っ、そんなことは」
「なら、何故今、私を止められたと思うの? 私は止めようと望んだわけではない……貴方が、私の力を止めたのではなくて?」
 あの瞬間。
 ラビットの『声』が、全てを消し飛ばしたのだ。クロウの持つ『白』の無限色彩を上回る力で。
 そのような芸当、普通の人間に出来るはずがない。人間に過ぎた力である無限色彩を上回る方法は理論上ただ一つと言われている。
 それ以上の力を持つ無限色彩で、相手の力を塗りつぶすこと。
「流石ね、一番『青』に近いと言われた男」
「……違う、それは私じゃない」
「まだ否定するの? 否定が何になるの? 否定したことで、貴方の力がなくなるとでも思っていたの? 貴方が」
 これ以上無限色彩で、誰も傷つけないと思っていたの?
 ラビットの心をそのまま読み取ったかのような……もしかしたら本当に読んでいたのかもしれないが……クロウの言葉に、ラビットはそれ以上何も言えなかった。
「確かに、貴方の考えは、理論で言えば半分は間違っていない。無限色彩は心の力。心の中で完全に力を否定する限り、色彩は応えない。貴方がそうしていたように、否定し続ける限りはどんなに強い色彩を持っていようと、封じていることは出来る」
 クロウの声は淡々としていて、ともすれば強い風に掻き消えそうなほど細い。だというのにここまではっきりとラビットの耳に届くのは、ラビットが先ほどそうしたように、声自体に彼女の力が込められているからだろうか。
「だけど、貴方は決して、完全に否定はできなかった。だから、今ここにいるのでしょう?」
 同じようなことを、先ほど龍飛にも指摘された気がする。否定するといいながら、常に、どこかでは過去を見つめていた。それは認める。認めざるを得ない。
 それにしても何故、皆、こぞって自分を暴きたてようとする?
 ラビットは左手で頭を押さえる。支えを失った身体はぐらりと揺れて車体に体重を預ける形になる。それでも、クロウは言葉を紡ぐことをやめなかった。
「貴方はとてつもない臆病者。トワが『白の二番』を頼ってここにやってきたことを知っていながら、最後まで『白の二番』の在り処を自分の口から告げることはなかった」
「……違う」
「何が違う! 貴方は怖れていただけでしょう、『白の二番』が、トワを傷つけることを!」
 ああ、何もかもが、見通されている。
 ラビットは全身の力が抜けるのを感じていた。ここに来て全てが明かされたとしても、無意味だというのに。
 じっとこちらを見つめる少女の姿をした色彩保持者に向かって、ラビットは小さく首を振った。
「責めるのは勝手だ。だがもう全てが無意味だ、ミラージュ。トワは帰った……『白の二番』は応えなかった。それでいいではないか」
「本当に、貴方はこれで終わりだと思っているの?」
 クロウはラビットの言葉を鼻で笑う。ラビットはクロウの言葉の真意がつかめずに、サングラスの下の目を丸くした。
「どういう、ことだ?」
「トワはまだ帰っていない。今、彼女は『子午線の塔』に向かっているはずよ。彼女が旅の中で見つけた、本当の目的を果たすために」
「……本当の、目的……?」
 理解できない。
 トワは、まだ帰っていない?
 彼女が見出した目的とは何だ?
 一度は忘れようとした、夢だと否定しようとしたトワとの記憶が思考の底で蠢いている。ポケットの中の青いビー玉が、熱い。
「貴方がこの旅を夢だというのなら、まだ夢は終わってはいない。彼女は約束したはずよ。誰でもない、『貴方』を守ると」
 意志を持ってラビットの側から離れた少女。青い瞳が湛えていたのは優しさと悲しみと、決意。だがその決意が本当は何だったのか、ラビットは考えようともしなかった。考える前に否定することを選んでしまったから。
 まだ、夢は終わっていない。
 クロウの言葉が頭の中に響く。
「彼女の目的が叶うかどうかは貴方次第。さあ、貴方はどうするつもり、白兎」
 トワ。
 また、忘れられない名前が一つ、増える。
 いつも自分の否定は不完全だ。完全に否定することさえできてしまえば、独りで生きていくことができれば、どれだけ楽に生きられただろう。
 どれだけ、人を傷つけずに済んだだろう。
 ただ、ここでまた否定をしたら、トワはどうなるというのだろう。
 答えることができず、ただ立ちすくむばかりのラビットを見て、クロウは小さく息をつく。
「……そうね。貴方の傷は深い。否定するのも、当然なほどに」
 その言葉に、今までの責め立てるような響きはなかった。あくまで穏やかで、そして深い同調と悲しみを伴った、声だった。
「だけど、逃げているだけでも、誰かを傷つけるの。それがわからない貴方ではないでしょう?」
 ラビットは息を飲む。
 セプターが言った別れの言葉。聖の見せたやり場の無い怒り。そして、トワの悲しげな決意の目。
 それらを生み出したのは、やはりラビット自身ではなかったのか。
 何もかもが正しくない。何もかもが。がたがたと震える体は止まることを知らず、感覚を半ば失っていたはずの身体は寒気を訴える。
 答えられない。答えられるはずがない。元より全ては矛盾の産物、誰かを傷つけたくないと誰よりも願ったはずの、ラビットが犯した取り返しもつかない過ちが、そこにあった。
「どうすれば」
 どうすればいい。
 ラビットは救いを求めて、クロウを見た。
 クロウは感情の薄い眼でラビットを見つめ、それから、手にしていた剣を振り上げた。
「一度犯した過ちは、決して元には戻らない」
 時間は戻らない。それは、どのような力を持った無限色彩でも不可能な、願い。ラビットは虚ろに自分に向けられた切っ先を見つめながら、そんなことを思い出す。
 ああ、トワに謝らなくては。自分は何もかもをわかったつもりでいて、その実何もわかっていなかったのだ。その上、彼女に辛い決断をさせて。彼女は確かに『青』だが、それ以前に年端も行かない、何も知らない少女なのだ。
 ラビットが犯したものは、罪だ。何よりも深い、罪だ。
 彼女に謝らなくては。償わなくては。
 なのに。
 クロウは無慈悲に、断罪の剣をラビットの胸目掛けて振り下ろす。


 その時、ラビットは、初めて。
 「死にたくない」と、心から願った。