Planet-BLUE

114 砂の上

「貴方も、行くのね」
 セシリアは、黒いスカートの裾を砂交じりの風に靡かせつつ、言った。ホバーに荷物を積んだ聖は、暗い表情のまま目を伏せた。
「ああ……もう、おっさんについていく理由もない」
 全部、夢だと語る今のラビットは、聖の知っている、そして今まで追い続けてきたラビットとは別人のようだった。
 最低でも、聖が危険を冒してでも追いかけ全てを見届けようと望んだラビットは、もう存在しないのだと、わかってしまったから。
 ただ、聖は確かにラビットに失望していたが、それ以上に何かが抜け落ちてしまったような、とてつもない空虚感を覚えていた。一体何を失ってしまったのかもわからない、不快な空虚。
「だから、もう地球を離れようと思うんだ」
「そう」
 聖に、セシリアはやはり聖の表情とよく似た冴えない笑顔を向けた。
 『ゼロ』はすぐ側まで迫っている。ここから抜け出すためにはここ第二ブロックに停泊している軍の避難船を使わなくてはならないのが悩みどころだな、と聖は思う。今まで軍に追われるラビットとトワと同行していた自分がのこのこ出て行けば、おそらくしばらくは身柄を拘束され、しつこく二人について問いただされるのは目に見えている。
 それでも、この消え行く地球に残ろうという気は、起きなかった。元より聖はこの星の人間ではない。
 だが、それならば。
「……セシリア、さん。アンタは、どうするんだ?」
 聖は、ホバーのハンドルを握ったまま、セシリアに問いかける。セシリアは微かな笑みを浮かべたまま、答えようとはしなかった。
「レイ兄には、次の船で出ろって言われてるんだろ?」
 セプターがトワを連れていく直前に。聖は、セシリアとセプターの会話を聞いていた。セプターはセシリアをここに残すことを決して望んではいない。それを聖はよくわかっていたし、そしてセシリアもよくわかっていることではあったはずだ。
 すると、セシリアは静かに、言った。
「わからないの」
「セシリアさん」
「貴方に言っても仕方ないと思うけど、私、自分がどうしていいのか、わからない」
 声はあくまで静かだったけれど、聖にはわかった。その言葉にもやはり、聖が感じている空虚感とほとんど同じ響きがこめられていた。
「私が、歌えなくなった理由は、姉さんが死んだからだと思ってた。その悲しみで歌えないのだとばかり思っていた。歌えなくてもいいってレイが言ってくれることは嬉しかったけれど、辛かった。レイは私の歌が好きだっていつも言ってくれたから、なるべく私は姉さんのことを忘れようとした。そうすることで、もう一度歌えると思った」
 多分、誰に聞かせるつもりもないのだろう、セシリアは真っ白な空を見上げて呟いた。ただ、聖はその言葉を一つ一つ、聞き逃さないように耳を澄ませる。
「……だけど、あの人が来て、やっとわかったの」
 天を仰ぐ黒い服のセシリアは、そこに聖には見えない何かを見ているようにも、見えた。
「私は、姉さんが死んだから、歌えなくなったんじゃない。姉さんが死んで、あの人がいなくなって、レイは変わって、多分私も変わってしまった……多分、もう、戻れないほどに」
 セプターが急激に変わったのは聖も知っていることではあった。ただし、セシリアは知らないかもしれないが、セプターは二回、大きな変化に直面している。
 元々、セプターはどちらかと言えば落ちこぼれに属する軍人だった。出世を続ける聖の姉に対し、同期でありながら昇進を望まずに相棒と飛び回っていた。それでも、その頃のセプターは今よりはずっと、楽しそうではあったかもしれない、と思う。
 それが一度目の変化を迎えたのは、おそらく、相棒が精神を病んだ時だったのだろう。今まで展望もなくただ軍の窓際部署に所属しているだけだったセプターが、急に軍最強の遊撃部隊『アレス部隊』への転属を申し出た。
 その時に、セシリアとも出会っていたはずだ、と聖は考える。
 何故セプターが急にそのような行動に出たのかは、何となく想像はできるが確かなものではない。その真意を知るのはセプターのみだろうが、きっとセプター自身、何故自分がそのようにしたのか、本当の意味では理解できていないかもしれない。
 そして、二度目の変化はセシリアの言うとおり。
 『消滅事件』、だ。
 その後のセプターは、外面的には目覚しい活躍をし、狭き門として知られる『アレス部隊』のリーダーにまで上り詰めることになる。
 だが、内面では。
「全て、一つに繋がっていたと思うの。だけど、私も、レイも、それから目を背けていた」
 悲しみ、という言葉だけで全てを消化しようとしていたのだ。ミューズを失った悲しみ。あの男を失った悲しみ。今までは、それでよかった。危うい均衡を保っていたが、見た目だけは今までどおりの関係を維持しておくことができた。
 それを崩したのは、一人の男の存在だ。
 臆病で、現実全てを認めることを拒否しながら、周囲には現実を見せ付けてしまうという不器用な男。彼が「存在した」ことで、均衡が崩れた。
「全て、夢ならよかったのに」
 セシリアは、ぽつりと言った。
 聖は、ぐっとハンドルを握る手に力をこめて、きっぱりと言った。
「でも、現実だ」
「聖、くん……?」
 セシリアが空に見ているのは、過去の「幸福だった」世界の投影だ。それは、ラビットが今までやってきたことと、全く同じ。
「あの事件が起こったことも、ミューズ・トーンが死んだことも、アイツが生きていることも、レイ兄が戦っているのもアンタがアイツと出会ってしまったことも、全て現実なんだよ。否定できない。否定しちまったら、おっさんと同じだ」
 言いながら、高慢だと思う。聖とて、現実を否定したいことくらいはある。ラビットのように真っ向からの否定ではないといえ、何度でも逃げようとしたことはある。
 それでも、言わずにはいられなかった。
「戻れなくたっていい。何だって壊れたものを直すのは難しいかもしれねえけど、もう一度作ればいい。時間はかかるし、失敗するかもしれない。でもそれを恐れてちゃ何もできねえよ」
 それは何にだって言える。例えば、形のない、人の心であろうとも。そんなことを言ったのは、一体誰だっただろう。
「綺麗事ね。何も知らないくせに」
 セシリアは、明るいブラウンの瞳を細めて、言った。そこに含まれた感情を読み取れないまま、「そりゃそうだ」と聖は投げやりに返す。
「ただ、事実は事実だ」
「ええ……本当に、貴方もあの人に、よく似てる」
「え?」
 セシリアは、微かに笑った。何かを懐かしむような、それでいて痛みをこらえているような、不思議な表情で。
「あの人も、口癖のように言っていたわ。どんなに大きな力を持っていても、時間は戻らない。壊れたものは直せない。なら、その力は何のためにあるのか。何を、成せばいいのか」
 風に巻き上げられた白い砂が、渦を巻く。揺らめく煙のように。形の定まらない、どこかで見た白い翼のように。
「それが、あの人の、命題だった。その答えを、いつも探しているようだった」
 聖は、息を飲む。
 ならば、『奴』はいつ、その命題を見失った?
 心を病んだ瞬間ではない。ましてや『消滅事件』ではない。あの時に一度折れていたとしても、もう一度その命題を思い返すだけの場面に直面しているはずだ。
 決定的だったのは、聖のよく知る、あの瞬間。
「……殴りに行こう」
 聖は、突然歪んだ笑みを浮かべて、呟いた。セシリアは聖が唐突に何を言い出したのかわからなかったらしく、首をかしげた。
「ああもう全部バカらしくなってきた。アンタのこともレイ兄のこともトワのことも、全部、結局は奴次第なんじゃねえか!」
 そこまで言って、聖は改めてセシリアに向き直った。強い意志を、その瞳に込めて。
「セシリアさん、俺、ちょっと一発奴を殴りに行ってくる。地球を出るのは、それからだ」
 もはや手遅れかもしれない。それでも構わない。ただ、許せなくなったのだ。
 ほとんどの鍵を握っていて、なお逃げ出すことを選んだ臆病なあの男が。
 そんな聖を呆然と見ていたセシリアは、ふと表情を硬いものにすると、言った。
「……私も、連れて行って」
「え?」
「私も、一発殴りたいから」
 聖はどきりとした。
 セシリアは黒いスカートを白い砂の中に靡かせ、両足に力を入れて立っていた。そこに、一瞬前までの弱さは見えなかった。確かな存在が、そこにあった。
 だから、笑う。
 苦笑にも似て、しかし確かに、聖は笑っていた。
 何も変わらないかもしれない。それどころか、最悪の事態を引き起こす可能性も考えられなくはない。だが、何もせずにこの空虚感を抱えたまま地球を出るよりは、ずっとましだと聖は思う。
 一つ、息を吸って。
「行こう」
 セシリアに手を差し伸べる。
 決意を込めた細い指先が、応える。
 終わるわけにはいかない。まだ、何も終わってはいない。
 二人を乗せたホバーは、白い砂を巻き上げて風と共に駆け出した。
 遥かに遠ざかった、鈍色の車を追って。