Planet-BLUE

113 龍飛

「もしも私が間違えたら、私を止めてくれ。どんな手を使ってでも」


 鈍色の車が荒野を走る。
 二十四世紀型の箱型ホバー。
 運転する人間も、車を制御している人工知能も、天文台から旅立った時そのままで、ただ一つ違うのは、助手席にいた少女がそこにいないこと。
 龍飛は曖昧な立体映像を形作りながら、左手でハンドルを握っているラビットを見つめていた。ラビットは何も語らない。ただサングラスの下の見えない目を、果てのない荒野に向けているだけ。感情も何も篭っていない冷たい瞳がそこにあるのは、龍飛にもはっきりと理解できた。
 だから。
 龍飛は、作られた心で思う。
 かつて交わした小さな約束を果たす日が来たのだ、と。
 本当は、その日が来ないことをずっと願っていたけれど、もう逃げることは出来ないのだ。
 自分も、ラビットも。
『ラビット』
 龍飛は、静かに言った。ラビットは顔を龍飛の立体映像に向けた。何だ、と問う声は淡々としていたが、心が既にこの場所にない状態にも思えた。それこそ、白昼に夢を見ているかのような、浮ついた響き。
 だが。
『……覚えていますか、初めて、ワタシが貴方と会った時のことを』
「何?」
『ワタシはかつてマスターを失いました。その時、ワタシの中でも、何かが変わりました。大事な回路を欠いてしまったような、感覚。言い表しようもない感情。それが「寂しさ」だと教えてくれたのは、貴方でしたね、ラビット』
 一体、何の話を始めたのだろう、と思ったのか、ラビットは軽くサングラスの下の目を見開いたようだった。
『それだけではありません。貴方はワタシにあらゆることを教えてくれました。この地球のこと、地球の外に浮かぶ星のこと、そして』
 龍飛は明るいながら確かな憂いを秘めたブラウンの瞳を細めた。
『貴方の、ことも』
 空気が凍る。
 こちらを見るラビットは依然表情を凍らせたままだったが、明確な感情を抱いたのは龍飛にもはっきりと伝わった。それはとても冷たく、熱を感じることのない龍飛であっても回路が凍りつくような錯覚に襲われる。
 それでも、龍飛は言葉を続けた。
『ワタシは知っています。貴方が過去に心を一度殺してしまったことも、それ故に今もなお、自由に感情を表現できないことも』
 ラビットが本当の意味で笑ったところは、龍飛も見たことがない。ふとした瞬間に、自嘲に見えなくもない目を細めた左右非対称の微かな表情を浮かべるだけで。
 だが、それがラビットの笑い方にして、ただ一つの表情なのだ。感情を表現する術を見失ってしまった彼が、意識をしなくては作ることのできない不器用な笑顔。
 それだけではない。悲しみも、怒りも全てを心の内に秘めていながら、常に同じ無表情のまま、淡々と言葉を紡ぐことしかできない。彼が望もうと、望まなかろうと。
 それは、ラビットがトワにも語っていなかった事実だった。
『だから、貴方もまだ誰にも気づかれていないと、思っている』
「黙れ」
『しかし、ワタシにはわかります。ラビット、貴方は』
「黙れ!」
 ラビットは叫んだ。傍から見る限りはそこまで感情を波立たせているように見えないが、行き場のない力を込めた左手の爪は、ハンドルに食い込んでいる。
『いいえ』
 龍飛もまた、静かな口調ながらも確固たる意志を込めて、言った。
『黙りません』
「黙れ龍飛! これは命令だ!」
 龍飛の立体映像から目を逸らし、ラビットは喚く。乾いた声が、空虚に響き渡る。
 そう、空虚だ。
 龍飛は悲しげに立体映像の目を伏せた。ラビットはあくまで、逃げ続けようとしている。本来なら逃げ切れるはずもない、自分自身の影から。
『命令を聞く理由はありません、ラビット』
「何……?」
『ワタシと貴方の間に交わした、たった一つの契約です。初めて天文台に来た時に、貴方はワタシに約束しました。貴方はワタシの現マスターですが、ワタシにプログラムされた擬似感情システムと貴方の命令とが反した場合、ワタシの擬似感情を優先する、と』
 龍飛には、当時理解できなかった。機械を従えるはずの人間が、何故そのようなことを言い出すのか。するとその時のラビットは、あの不思議な笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
『人間はどれだけの正しい知識を持っていても、どれだけ正しい命令を下されても、最終的には感情に左右され、時に正しさと反しているとわかっていながら行動する。そのように出来ている生き物だ』
『貴女の擬似感情プログラムは、限りなく人間に近い。正しく考えるだけの力があり、またその「正しさ」を振り切るだけの力もある』
 正しくないことをしても良いのか、とその時の龍飛が問うたところ、ラビットは不器用な笑みを深めて言った。
 それが『人間』というものだ、と。
 ラビットは、どこまでも龍飛を人間として扱った。龍飛は、どこまでもラビットに対しては従順な機械であり続けた。
 龍飛が、自らラビットに従うことを望んでいたから。
 それも、今だけは違う。
『その契約は、現在も有効です、ラビット。ワタシは擬似感情プログラムの判断に基づき、貴方の命令を却下し、発言を続行します』
 ラビットは、今度こそ何も言わなかった。
 本当ならば、この瞬間に龍飛の声を伝えるスピーカーや映写機を壊してしまえば良かったのだ。ここにいる龍飛は本体ではないのだから、今だけでも言葉を封じてしまえばいい。間違いなく、その考えはラビットの頭の中にも浮かんでいただろう。ただ、彼は実際の行動には移さなかった。それが今の自分を守る唯一の手段だとわかっていながら。
 あくまで、龍飛の『心』を、尊重したのだ。それが擬似的な、ゼロとイチで構成された心であったとしても、ラビットにとっては自分と同じ存在だったのだ。
 龍飛は、そんなラビットを見て、ほんの少しだけ、儚げに微笑んだ。
 どこまでも、ラビットは優しかった。
 悲しいまでに。
『ラビット、貴方は、その優しさをどうして自分に向けられないのですか?』
 龍飛は言った。
『貴方は本来的には人の心を愛しています。いくら否定しようとしても、否定しきれずにいます。貴方は、心の底ではいつも誰かを信じていて、裏切られても何をされても愛し続けている』
「違う」
『違うのならば、何故』
 龍飛の中の擬似感情システムが、軋んだ音をあげる。あくまで錯覚の世界の話ではあるが、龍飛はもう、それが『悲しみ』であることも知っている。
『ワタシの姿を、「彼女」に似せたのです?』
「……っ!」
 ラビットは、息を飲み、龍飛を見てしまった。
 『龍飛』という本来目に見えない存在を表す立体映像は、蜻蛉の羽を広げ、オリーブ色の髪と明るいブラウンの瞳を持つ、黒い服に身を包んだ女性。
 元々、龍飛はこの女性が誰なのか知らなかった。ただ、ラビットと言葉をかわしていくうちに、はっきりとしたことがあった。
『貴方は、元より否定なんて一つもしていません。貴方が出会ってきた人々、貴方が経験してきたもの、そして貴方がその中で抱いてきた喜びや悲しみといった感情全てが今の貴方を形作っています』
 この似姿は、ラビットが忘れようとして忘れられなかった一人の女性への静かな『追悼』なのだ、と。
『そしてワタシもまた、貴方と出会った過去が、貴方と交わした言葉の積み重ねがあるから、今のワタシがいるのです。トワも、聖も、貴方が出会ってきた皆が、同じなのです。貴方は、はっきりと出会ってきた全ての人を、思いだせるはずです。それを、しようとしないだけで!』
 龍飛は、いつも見ていた。この小さな車の中から、ラビットとトワを。二人が旅の中で経験したあらゆる出会いと、困難と、小さな喜びと、また悲しみを。
『それを、どうして全てが「夢」などと言えるのですか! わかりません、ラビット! それは、決して否定できることではありません!』
「わかっている!」
 ラビットは、言った。龍飛の前で、この旅の中で何度も繰り返してきた言葉を。しかし、今度こそ、龍飛は退かなかった。
『わかっていません!』
 ラビットが否定できない、「彼女」の姿で。
『貴方は、トワと別れた時の自分の感情までも、否定しようとしています』
「何を」
『誰もが、貴方がトワを愛していたことを知っています。そして、その感情は今でもまだ貴方の中に残っています。それなのに、貴方は心を殺して全てを忘れようとしています。他人の心を誰よりも大切にする貴方が、何故自分の心には正直になれないのですか!』
 ラビットは俯き、表情を殺したまま唇だけを震わせた。声には、ならなかった。
 けれども、龍飛は、ラビットが何を言わんとしていたのかを察することができた。


――――『恐い』。


『ラビット……?』
 その返答の意味を解釈しかねている龍飛は、次の瞬間異変に気づいた。
 後ろから、何かがこの車を追ってきているのを、レーダーが察知したのだ。それだけではない。前方からも何かが近づいてきている。この骨董品同然のレーダーを信じるならば、近づいてきているのは、数十台の、型番のわからない小型ホバー。
『ラビット!』
 警告の声を上げても、ラビットは返事を返さない。呆けた表情で、まるで寒さから身を守るように両腕で身体を抱き、肩を震わせているだけ。それ以上の反応は無かった。
 そんなラビットの姿は、酷く脆く、見えた。
 どんどんと近づくレーダー上の点を見据えながら、龍飛は思う。その『思う』という行動さえ、あくまで電子の世界の話ではあったが。
 守らなくてはいけない。今、ここでラビットを守れなければ、龍飛がよく知り、愛したラビットは二度と戻らない。
 ラビットに残された時間がどれだけ短かろうと。
 電子の心が音を立てて軋む。今度は何故軋んでいるのか、わからない。悲しみでもなければ寂しさでもない。その答えを再びラビットに問うためにも。
『守りたい……』
 呟いた言葉は、乾いた空気に霧散して――――