Planet-BLUE

112 旅の終わり

 ラビットは、車に荷物を積んでいた。
 長旅で、随分と車も汚れてしまったなと思う。元より鈍色で古めかしい、二十四世紀型の箱型ホバーだが。帰ったら、洗うべきだろうか。洗わなくとも、もうすぐ綺麗に無くなってしまうのだろうが。
 全てが。
 全て。
「……おっさん!」
 後ろから声がした。
 それは本当に声なのだろうか。
 わからぬまま、ラビットは背後を見た。そこに立っているのは、誰だっただろう。そう、記憶さえ正しければ、多分それは聖なのだろう。だが、その記憶さえも今は信じられずにいる。
 もはや、記憶を信じる必要もないのだが。
 虚ろな表情を浮かべるラビットの感情をどう受け取ったのか、聖はつかつかとラビットに向かって歩み寄り、その襟首を掴む。
「本気か、おっさん! トワを連れてかれたままで、おめおめ帰る気か?」
「トワ……?」
 ラビットは、一瞬きょとんとした表情を浮かべた。その様子を見た聖は、何か悪寒めいたものを覚えたのだろう、声を低くしてラビットに問いかける。
「……おっさん?」
「あ、ああ、彼女か。……いいだろう、それが彼女の選んだ道ならば」
「っ、何もわかってねえんだな、アンタは! いや、わかろうとしてねえんだ!」
 何故、そんなに熱くなる。
 ラビットは妙に冷たい気持ちで、聖を見下ろしていた。トワはもういない。彼女は自分から去った。それでいいではないか、と思う。もう、自分がトワにしてやれることは何もないのだ。
 後はただ、死を待つだけ。
 それだけで、いいではないか。
 誰にも干渉されることなく、干渉することもなく、孤独に消えていく。
 それが、一番初めに自分が望んだことだったではないか。
「……わからないままで、構わない」
 静かに言って、ラビットは聖の手を払った。そのまま、背を向けて車に乗り込もうとする。聖は何とかラビットの腕にしがみ付き、噛み付くような勢いでまくし立てる。
「本当に、アンタはそれでいいのかよ、ラビット!」
 ラビット。
 その名前は、一体誰のものだった、だろう。
 ラビットはふと奇妙な疑念に囚われる。トワは「ラビット」を守りたい、と言って自分の側から離れた。聖は「ラビット」にそれでいいのかと問い詰めている。だが、そうやって呼びかけられている相手が誰なのか、よく、わからない。
「俺は、アンタのことなんて知らねえ! アンタが何でそんな風に何でもかんでも無かったことにしたがるのかなんて、わかりたくもねえ! だけど!」
 聖は必死に、呼びかける。それは、「ラビット」に向かってなのか、腕を握り締めている、自分でも誰なのかよくわかっていない何者かに、なのか。それを問おうとしてラビットは口を開きかけたが、聖の言葉の続きにかき消される。
「アンタは、このままトワが側にいた事実すら、無かったことにする気なのか!」
 胸が、鳴る。
 静かだったはずの鼓動が、蘇ったような気がした。
「……トワ」
 呟いて、汗が背中を伝うのを感じた。
 駄目だ、と思う。こんな所で、心を動かしてはいけないのだとラビットは自分に言い聞かせる。いっそ心が凍ってしまえばいいのに、と思いながらも、まだそこまでは割り切れていない自分に気づかされる。
 忘れてしまえ。いっそ本当に無かったことにしてしまえばいい。
 ラビットは思う。
 全部忘れて、帰るのだ。そうすれば、いつか、トワだって全てを忘れてくれる。
 何しろ。
「全て、夢じゃないか」
 ラビットは、うわ言のように呟いた。聖は耳を疑ったのだろう、「は?」と間抜けな声を上げた。歪な笑みすらも浮かべたラビットは、もう一度、確かめるように呟いた。
「……私は、夢じゃないか。誰かが見ている、白い、夢だ」
 口にするだけで、それが確信に変わっていく。いつも、自分は本当にここにいるのか、と問い続けていたラビットの、最後の答え。
 これは、夢なのだ。
 「ラビット」なんて人間は、何処にも存在しなかったのだ。
 この、青い少女と旅した記憶も、全ては白い、誰かの夢。
 だから。
「夢なのだから、いつか全てを忘れてしまうものだ。貴方も、私を忘れていくのだろう。それで、いいじゃないか」
「何、言ってんだよ……」
 聖は、ぐっとラビットの腕を握る力を強める。それは、そこにいるラビットの質量を、確かめているようにも見えた。
「アンタはここにいるじゃねえか、ラビット! 本当におかしくなっちまったのか?」
「……私は」
 乱暴に、ラビットは聖の手を振りほどいた。そして、冷たい声で告げた。
「とっくに狂っていたよ」
「……っ」
 聖は絶句する。
 ラビットが、本気でその言葉を口にしているとわかってしまったから。
 聖の目が映し出したのは、ラビットに対する怒りか、失望か、それとも哀れみか。そんなもの、ラビットにとっては何でもない。ラビットからすれば全ては夢。そしてラビット自身もまた、夢。現実など、何処にもなかったのだ。
 ラビットは、何も言えずにいる聖に向かって、静かに言った。
「……終わりにしよう、聖。これが、旅の終わりだ」
 あっけないまでの。
 聖は何も言わない。何も、答えられないまま、呆然とその場に立ち竦むだけ。
 ラビットは聖から目を離し、車に目を戻そうとした。その時だった。
「逃げるのね」
 全てを凍らせるような声が、響いた。ラビットは反射的にそちらを見た。
 そこに立っていたのは、喪服か何かかと思わせる黒い服に身を包んだ女性……かつての歌姫、セシリア・トーン。
 埃っぽい風に長い髪を靡かせて、明るいブラウンの瞳をラビットに向けている。その瞳が湛えているのは、明らかな敵意。だが、ラビットは表情一つ変えないまま、素直に頷いてみせた。
「ああ」
「臆病者」
 セシリアは、鋭く言った。ラビットの心の奥深くに刃を突き立てるように。
「逃げられるはずもない、全部現実よ」
「……本当に?」
 ラビットは口元を歪めて嗤う。サングラスの下の目はセシリアからは見えていないはずだが、虚空を虚ろに見つめている。まるで、そこに求める何かがあるかのように。白昼に夢を見るかのように。実際にはその赤い双眸が何かを映すことはないのだが。
「それなら教えてくれ。証明してくれ。私は何処にいる? どうして私は此処にいる?」
 歌うような口調で、ラビットは言葉を紡ぐ。
「なあ、教えてくれ……私は、『誰』だ?」
「ふざけないで」
「私は本気だ」
 ラビットとセシリアはしばらくお互いを見つめたまま沈黙していたが、先に背を向けたのはセシリアの方だった。
「もう、何を言っても無駄ね」
 セシリアは吐き捨てるように言い切った。歌姫らしく澄んだよく通る声で、しかし確かな呪詛を呟く。
「……姉さんが、泣いているわ」
 ラビットは、何も答えなかった。
 答えられなかっただけかもしれない。
 背を向け、家へと帰っていくセシリアをしばらく見るともなく見つめていたラビットだったが、やがて今度こそ、車に乗り込んでぼろぼろの扉を閉めた。今度は、誰もそれを止めなかった。止められるはずもない。
 帰ろう。
 自分が在るべき場所、丘の上の天文台に。
 この長い旅……長い夢の始まりに帰ろう。
 そして、全てを終わりにしよう。
「……行こう、龍飛」
 外で、聖が何かを叫んでいるのが聞こえたけれど、何を叫んでいてもラビットには届かない。ラビットの脳は、言葉を理解することを既に拒否していた。
 立体映像の龍飛は複雑な表情でラビットと聖を交互に見ていたが、ラビットに促されるまま車の運転プログラムを起動させる。
 車が動き出してからも、ラビットは決して、振り返らなかった。
「さようなら」
 振り返らないまま誰にも聞こえないくらい、小さな声で別れの言葉を呟く。その言葉が誰に向けられたものなのか、呟いたラビット自身わかっていなかった。


 ふと見上げた空には、全てをゼロにする青い星が、煌々と輝いている。
 地球消滅まで、あと少し。