Planet-BLUE

108 全ての結末へと

 息が苦しい。
 身体が悲鳴を上げる。
 もうすぐ、終わるのはわかっているというのに。
 まだだ。
 あと少しなのだ。
 全ての糸をつなげるまで。
 最後の一歩を踏み出すまで。
 それまでは、どうか。

 この死にぞこないの命を、つなぎ止めておいてほしい。


 多方向通信がけたたましく鳴っている。聞きなれた音のはずではあったが、今の身体ではどうにも受け付けない。
「……っ」
 頭がぐらぐらして、気分が悪い。
 トゥール・スティンガーは、自分が机に突っ伏していたことに今さらながら気づいた。痛む身体を無理やりに動かし、腕を突いて起き上がる。見れば、助手のプラム・パーシモンが心配そうな表情でこちらを見つめていた。
「……プラム、何分寝てた?」
「三分三十秒ほどですよ」
 本当ならば、トゥールの身体を気遣うようなところだろうが、プラムはあくまで淡々と、事務的に答えた。トゥールはその返答に苦笑しながら頷く。
「まあ、そんなもんね」
「リカーさんに連絡入れます?」
「よろしく。でもメンテ受けてる時間はないのよねえ」
 それ以前に、メンテナンスを受けたとしても、既に身体が根本的に稼動限界を迎えている。ろくに手を打つことはできないだろう。プラムはリカー研究室への回線をつなげながら、言った。
「今、上層では突然『青』護送船が追跡不能になって、連絡も取れないと大騒ぎですよ」
 言っていることはとんでもないことだというのに、プラムはあくまで冷静だった。トゥールもまた、落ち着いた口調で返す。
「それ、いつの話?」
「二分前です。船の位置は『子午線の塔』に向かう海上で消失しました」
 トゥールはゆっくりと息をつき、顔色は悪いながらも笑顔を見せた。
「オーケイ。完全に尻尾を見せたわね。あたしが護送船側に仕掛けた通信機器はどうなってる?」
「やはりジャミングされていて通じませんね。三十分後、上層会議が始まりますけどどうします?」
「回線開けといて。内容によっては動くから。あ、あとさ、一つお願いがあるの」
「何ですか?」
「 『彼女』に連絡を。『子午線の塔』に向かわせて……そろそろ、舞台を整えないといけないでしょ?」
 トゥールの言葉に、プラムも笑みを見せる。壮絶、と称することもできるだろう笑い方で、二人は頷きあう。
「了解」


 殺風景な白い部屋。
 そこに立っていたのは、バイオリンを奏でる黒い髪の少女。いや、少女の姿をした、モノ。
 クロウ・ミラージュは目を閉じて自らが紡ぎだす音に耳を傾けていた。
 バイオリンの音色は、凍るように凛として、それでいて綱の上を渡るかのように危うい。それが何かに似ているのだ、と思う。
 『水鏡の白』、クロウの目が映し出すのは、水面に移しこんだかのような未来。それはどこまでも冷徹で、しかし手で触れようとしても波紋によって揺らいでしまう、危ういもの。
 この音色に、似ている。
 クロウは普段にない勢いで弓を動かす。心の中に渦巻く思いをそのまま弦の上に乗せようとしているかのごとく。クロウの心はいつになくざわめいていた。無限色彩がもたらす人を超えた感覚がクロウに何かを伝えようとしているのか、それとも元より人が持って生まれた予感というものなのか。
 いや……無限色彩とて、決して特別なものではないのだ。
 クロウは思う。
 無限色彩が人の力として存在している限り、それは人がどこかで必要として、そのように自らを作り上げた結果なのではないだろうか。ある意味、進化の過程なのではないだろうか。
 それならば、人はこれほどまで強大な力を求める必要があったのか。
 それは、無限色彩保持者の命題。
 多くのものを奪われ、同時に多くのものを奪ってきたクロウが、未だ到達していない場所。
 誰かが、この答えを出す日が来るのだろうか。
 未来を見据えるクロウとて、その答えが見つかるという未来を見たことはない。彼女の目に映るのは、常に悲しい未来だった。何かを奪われ、何かを奪う。その繰り返し。圧倒的な未来は常に彼女の心を蝕み、今もなお意識は混沌の中に浮かぶ葉のように儚く曖昧だ。
 幾度と無く、自らの能力を恨んだ。能力を持って生まれた自分自身を恨んだ。
 それでも彼女が立っていられるのは、その命題のためだ。
 自分が解き明かせなくとも、もしかすると解き明かす人間が存在するのかもしれない。それだけを夢見て、今、彼女は弓を引く。
 己の目に映っているのが、どうしようもない破滅の未来だったとしても。
「クロウ!」
 ばたん、と大きな音を立てて、部屋の扉が開く。クロウはびくりと震えて弓を止めた。息を切らして入ってきたのは、相棒であるリーオン・フラットだった。リーオンはクロウの姿を認めると、汗をぬぐって言った。
「 『青』の護送船が追跡不能になったって連絡が入って……クロウ、見えないか?」
「……トワ、が?」
 クロウは淡々とした口調で言いながら、最後に見た『青』……トワの笑顔を思い出す。その記憶を媒体に、クロウの中に存在する無限色彩の鏡が現在の状況、そして未来のあるべき姿を映し出す、はずだった。
 しかし、クロウが鏡の中に見たのは、血のように赤い糸で雁字搦めにされた、巨大な船の姿。それ以外に、何も見えない。未来も、トワの姿すらも。
「船……糸……そう、始まったの」
「え?」
 クロウは、手にしていたバイオリンを取り落とす。そして、真っ直ぐにリーオンを見つめた。
「リーオン、私、行かなくちゃ」
 リーオンは、一瞬何を言われたのかわからず呆気に取られて目を丸くしたが、すぐにクロウの変化に気づき、クロウの手を取った。
「兎のところにか」
「そう」
 常に無表情だったクロウに、初めて表情が浮かんだ。それは、どこまでも悲痛な、微笑み。小さな唇が、はっきりと言葉を紡ぎ上げる。
「本当は、こんなことしたくなかったけれど」
 決意をこめて、リーオンの手を握り返しながら。そうしているだけで、普段は混濁を極めている意識が研ぎ澄まされるのがわかる。心の中に渦巻く混沌を意志で抑え込み、空ろだった瞳に光を込めて。
「彼でなければ、トワは救えない。だから、少しだけ荒療治」
 クロウは、言いながら白兎の姿を思い出す。心の闇と過去を凍らせ、感情を殺し、それでもなお遠い約束に縛られ続けた哀れな存在。自分とある意味では似ていて、ある意味では全く別の存在。
 そして、多分、クロウの言う『命題』に一番近い、存在。
「カルマにもトワのことを言っておいて。カルマには、カルマのすることがあるから」
「……わかった」
「それじゃあ、私は行くね」
 クロウはリーオンの手を離そうとした。すると、リーオンはなお強くクロウの手を握ってきた。クロウが驚いてリーオンを見ると、リーオンは、じっとクロウとは対照的な明るい色の瞳でこちらを見つめていた。
「クロウ」
 どこまでも純粋で、それでいて鋭い目が、クロウを射抜く。
「すぐに、戻れよ」
 その言葉に、クロウは思わず苦笑した。いくら少女の姿をしていようとクロウはリーオンより一回りは年上であり、また精神的には実年齢に準じている。それでも、いつでも保護者のように接してくるリーオンはとても愛しかった。
 だから。
「大丈夫。心配しないで。絶対に戻るから」
 クロウは今度こそ、確かに笑ってみせた。
 今、こうやって立っていられるのは、彼女を突き動かす命題もあったが、もう一つは確かにこの男が傍にいてくれるからだと、再確認して。
 今度こそ、クロウはリーオンの手を離した。
 そして、そのまま、心の中の水鏡に自らを投じた。


 『青』護送船が追跡不能になった。
 シリウス・M・ヴァルキリーはそんな言葉を右から左へと聞き流していた。意見を求められれば適当にかわし、さっさと会議が終わってくれないかとばかり願った。
 相変わらずバルバトス・スティンガーは唾を飛ばすような勢いで自らの非ではないとまくし立て、ヴィンター・S・メーアは何食わぬ顔で座っている。そういえばメーアは一体先ほどトゥールと何を話していたのだろうか、という考えも浮かんだが、何となく想像ができたのでその考え自体もあっさりと頭の中から抜け落ちていった。
 トゥールは、手を打ったのだろうか。
 もうそろそろ、限界のはずだ。『青』をめぐる一連の事件が終結するのが先か、トゥールの限界が先か。危うい賭けだ。
 もし、トゥールが動けなくなれば自分の出番なのだが、と思いながら見れば、ふとスティンガーと目が合った。
「ヴァルキリー大佐、聞いているのか?」
「聞いている」
 心にもないことを言って、再び思案にふける。
 トゥールが今まで『青』をめぐる真相に気づけなかったのは、それが全て自分の近くで起こっていたからなのだろうと思う。
 トゥールとて、あのように冷静にして飄々とした中立の態度を装ってはいるが、一部の人間には恐ろしく甘いのだ。特に、自らの身内とも言える存在には。
 奴の場合、その「身内」というのがとても広いから困ったものなのだが。
 そんなことを思いながら、ヴァルキリーは頬杖をつく。
 トゥールのことは心配ではある。それでも、このようにゆったりと構えていられるくらいには、トゥールのことを信用していた。最後の一手をしくじるような男ではないし、それに。

「もうそろそろ、全て引っくり返しにかかる頃だろうしな……」

 口の中で呟いた言葉は、不毛に言い争う上層部の耳には届かなかったけれど。