Planet-BLUE

106 コランダム

『約束だよ』
 高い足音に被さるように、頭の中に懐かしい声が響く。
 コランダムは長い廊下を歩きながら、その声と同時に否応なく思い出される鮮やかなヴィジョン、袖を握った小さな手の感触を振り払うように頭を軽く振った。
 こんなところで、思い出すべきことではない。
 それは、幼い頃の思い出。皮肉にも最後の暖かな記憶となってしまった、こちらを見上げる自分と同じ深淵の瞳。
 思い出すな。
 そのヴィジョンを思い出すたびに、何か苛立ちにも似た感情が自分の中に生まれる。
 何かがおかしい。『青』と関わるまで、この記憶は完全に封じ込めておけたはずだった。ただ、グローリアを見るたびに原因のよくわからない胸の痛みを感じる、それだけで済んでいたはずだった。
 ならば、それが初めて破られたのは、幾重の暗示にも近い封印が破れこの記憶が蘇ってしまったのはいつのことだっただろう。
「……っ」
 思い出したくないことを考えるたびに、視界が、揺らぐ。
 それでもコランダムは何とか記憶の糸をたどっていく。
 そうだ。
 この記憶が蘇ったのは、あの時。『青』と相対した、あの場所。白兎が対峙の場に選んだのは、まるでそのまま時間が凍りついてしまったような、朽ちた遊園地だった。長い間誰も足を踏み入れなかった祭りの跡で、コランダムは初めて『青』と出会うことになったのだ。
 遊園地……人の手によって造られた楽園。
 それは、コランダムにとっては特別な意味を持った存在だった。
 楽園を願って、それでいて足を踏み入れることを許されなかった一人の少年の顔が、意識しなくとも小さな『青』の姿と重なる。
 ある日、まだ幼かった弟、ライトはグローリアと一緒にコランダムに言ったのだ。町に新しくできた遊園地に行きたいのだ、と。誰から遊園地の存在を聞いたのかはわからない。もしかするとグローリアから聞いたのかもしれない。今まで外に出ることもままならなかった弟。自ら何かを望むことすらなかった弟。
 そんなライトが、初めて望んだこと。
 当時の自分はライトがどうしてそんなことを言い出したのかなど何も考えることなどなかった。いつか必ず一緒に行こう、と簡単な口約束をしたことは今でも覚えている。
『約束だよ』
 それを聞いたライトが何故か不安げな目で、自分を見上げていたことまで、はっきりと。
 その翌日に、ライトはあの事件を起こした。
 ライトは、もしかすると自分がどのような惨事を起こすのか、既に知っていたのだろうか。そうでなくとも、何かが、取り返しもつかないくらいに大きく変わってしまうのだという予感があったのかもしれない。無限色彩保持者であれば、そのくらいは容易いだろう、とコランダムは思う。
 だから、遊園地というのはコランダムにとって鈍い痛みを伴った存在でしかない。その痛みの正体が何であるのかはコランダム自身もわかっていなかった。それが、余計に苛立ちを募らせる。
 『青』。
 不可解な存在だ。
 初めて相対したときには、強大な……それこそコランダムから全てを奪った弟、ライトよりも強大な力を持つという、圧倒的な脅威でしかなかった。
 だが、実際にはどうだ。
 世間知らずで、世の中の汚いものなど何一つ知らず、しかしだからこそ誰よりも真っ直ぐにこちらを見上げてくる、一人の少女。まるで鏡のような青の瞳は、覗き込むだけでこちらの思惑が全て暴き立てられているような、居心地の悪い気分になる。
 ただ、それは決して悪い感情ではなかった。
『この力で、守りたいものがあるの。無限色彩は、壊すだけじゃない。何かを作ることも、守ることもできるはずだよ』
 そうやって言い切った『青』の言葉はどう考えてもお伽噺の中にしか存在しないような綺麗事だ。
 なのに、何故、それに上手く反論する言葉が見つからなかった?
 まるで、あの時の自分と同じように。
 全てが糸で繋がっていたかのように、記憶がずるずると蘇っていく嫌な感覚。次に脳裏に浮かび上がったのは、「あの時」。
 真っ白な部屋だ。部屋というより、箱と言った方が正しいような、殺風景な空間。
 そこにはぽつんとベッドが置いてあり、ただ息をしているだけのグローリアが横たわっている。そして、その前に立っているのは、自分と瓜二つの姿をした弟。
 これが、ライトとの最後の会話の瞬間だというのはすぐにわかった。あの時、自分はライトに何を言っただろう。

『こんなことを言っても許されないってわかってる。でも、兄さんにはわかってもらいたいんだ』
『黙れ』
『兄さん……』
『帰れ、二度とグローリアの前に姿を現すな!』

 そう、その瞬間にはヒステリックに叫ぶことしかできなかったのだ、と思い至って無意識に目を伏せる。
 本当は、何となくわかっていた。ライトが何を求めていたのか。ライトが自分にわかって欲しいと願っていたのは、一体何だったのか。
 わかっていながら、拒絶して、今もまだ拒絶し続けている。それは『青』と言葉を交わした今も、変わらない。変わることなど、できない。
 無限色彩は、破壊だけではなく、もしかすると何かを直すことも、守ることもできるのかもしれない。『青』の言う通り、それだけの力を持っているのかもしれない。
 だが、それで、何が変わる。
 グローリアから奪われた二十五年も、自分に残った傷も、ライトの大きすぎる罪も、彼が避けることのできなかった死も、全てを無かったことにできるというのか。
 そんな綺麗事に縋るくらいならば、拒絶し続けた方がましだ。それがどれだけ不毛なことか、理解していながら……

『結局、貴方はわかってくれないのか』

 頭の中に響き続ける、鈍い痛み。
 微かな声でそんな言葉を呟いたのは、誰だっただろう。
 コランダムはその言葉の主を未だ思い出せないまま、コックピットのドアが開くのをうつろな目で見つめていた。
「……少佐」
 薄暗いコックピットの中から、少尉ルーナ・セイントの声が聞こえる。コランダムは何とか頭の中から不毛な思考を一度封じ込めて、コックピットの中に足を踏み入れた。
 その時、コランダムを襲ったのは異様な感覚。こちらを見上げていた『青』の不安げな色が封じようとした意識を超えて蘇ろうとする。
 何故。
 自問しながら、セイントに促されるままに本部からの通信を受け取るために、通信用のディスプレイを覗き込む。
 だが、ディスプレイには何も映ってはいなかったし、スピーカーが何かを伝えることもなかった。本部からの通信など、いくら履歴を見ても存在しない。
「どういう、ことだ」
 小さく呟き、コランダムはその答えをセイントに求めようと背後を見て……身体を、硬直させた。
 コックピットの扉の前に、いつの間にか部屋の中に入ってきていた軍人たちが列を成して並んでいた。この薄暗さの中では、軍服の赤も血の色のように見える。そして、一番異様だったのは、その軍人たちの目が、皆一様に赤く染まっていたことだった。
「……何、だ……? お前たち、一体」
 コランダムの掠れた声に合わせるようにして、ざわりと軍人たちが同時に一歩を踏み出す。全員が全員、うつろな、魂の抜けたような表情をしている。その動きは、まるで糸で吊るされた操り人形のように見えた。
 ゆっくり、ゆっくりと軍人たちは輪を詰め、自分の上官であるはずのコランダムに迫る。敵意は感じられないが、明らかに彼ら自身の意識で動いていないことは確かだ。手の届きそうな位置まで迫ると、そのまま手を伸ばしてコランダムに掴みかかろうとする。
 ぎり、と歯噛みし、コランダムは右の手袋を外した。掌に刻まれている紋章を床に向け、声を上げる。
「 『死呼ぶ神の槍』!」
 その瞬間、青白い光がコックピットの中を包み込む。普通ならば一点に収束して放つ精神衝撃波を拡散させることで、この軍人たち全員を一度に、なるべく少ないダメージで昏倒させようとしたのだ。
 精神に干渉する光はコランダムを中心に波紋のように広がり、軍人たちにも容赦なく襲い掛かる。光に飲み込まれるようにして、ドミノのように倒れ、眠りにつく軍人たち。伸ばされていた腕は、コランダムに届く前に床に落ちた。
 それを見て、コランダムが思わず安堵の息をついた……その時だった。
 床に向けていた右腕が、動かない。
 いや、右腕だけではない。左腕も、両足も、前に向けた顔すらも、自分の意思では一ミリも動かせないのだ。
 ひゅう、と喉から嫌な音が漏れる。
 呼吸もままならない。
 なのに、意識だけは妙にはっきりとしていて、得体の知れない恐怖だけが、コランダムを支配している。
 弟と似た『青』の瞳が、意識の中にふつりと浮かび上がり、消えた。