Planet-BLUE

100 いつまでも

 別れの言葉はその一言だけ。
 あっけないまでの、終幕。

 トワは、再びラビットに背を向け、セプターの手を放して車に乗り込もうとしていた。ラビットは思わず一歩踏み込み駆け寄りそうになったが、目の前に立ちはだかったセプターに見据えられ足を止める。
 近づけない。
 背筋に冷たいものが走る。本能的に、ラビットはセプターのその目を恐れていた。
「どうする気だ」
 セプターの声は、あくまで硬かった。
 ラビットは何とかその悪寒を振り払うように首を振り、言う。
「通してくれ、セプター。彼女に」
「何を言う気だよ」
「……っ」
 ラビットは、言葉に詰まる。
 全て、読まれている。これから何を言おうとしていたのかも、何を彼女に言うのか、考えてもいなかったことまで。
 これでは、すっかりあべこべではないか。
 酷い喉の渇きを覚えながらも、そんな下らない考えが頭の中をよぎる。
 それは、本当に下らない考えだった。
 しかし、ラビットが自分でも無意識にかけていた、脆弱な記憶の鍵を壊してしまうのには十分すぎた。
 その瞬間、心の奥底に封じ込めていた何もかもが、堰を切ったように溢れ出す。遠ざかるトワの背中が、目の前に立つセプターが、揺らぐ。
 いや、揺らいだのは自分の視界か。
 溢れ出たのは、忘れようとして忘れられなかった記憶。否定しようとして、否定できるはずもなかった記憶。
「あ……」
 喉が、自分の意思とは無関係に声を放つ。
 目の前に映っていた現在の光景が、全て過去のものに摩り替わっていく。
 これは何だ。何だ。青い空、古びた屋敷、血に塗れた誰か、白い研究室、腕を掴む大きな手、目、目、目、笑う緑の目をした少年、背を向ける自分とよく似た男、いくつもの星、長い長い廊下、子供の亡霊、血に塗れた自分の手、純白の天井、コンサートホール、小さな部屋、そして。
 頭が、割れるように痛い。
 それ以上に、胸が苦しい……!
「やめて、くれ……」
 よろり、とラビットは頭を押さえて一歩下がる。セプターが異変に気づき、「どうした」と言いながら手を伸ばす。
「来るな!」
 ラビットの掠れた悲鳴が、響く。止まれ、という意志が通じるはずもなく、一度溢れ出した記憶は今まで欠けていた部分を無理やり埋めるかのように、容赦なく押し寄せてくる。
 セプターが、こちらに腕を伸ばしている。
 『あの時』と同じように。
 いや、『今』が『あの時』なのか、『あの時』が『今』なのか。最早『現在』と『過去』との境目すら曖昧になったラビットに、正常な判断が出来るはずもなく。
 駄目だ。
 来てはいけない。
 来てしまったら、今度こそ『私』は、貴方を殺す……!
 どんなに心の中で叫んでも、聞こえるはずはない。セプターは無情にもラビットに迫る。不安げな表情も、何処までも澄み切った緑の瞳も、記憶と少しの相違はない。だから、余計に混乱するラビットの脳裏には封印されていた『あの時』の記憶が蘇る。
 血に染まった床、そこに転がる、右腕。
 がたがたと足が震える。血が逆流するような錯覚。地に足が着いているのか、浮いているのかもわからない。もう一歩下がれればいいのに、身体は言うことを聞かない。
 左の二の腕が、熱い。脳に直接届くような、鋭い痛み。
「……来るな、来るな来るな来るな……っ!」
「おい、どうしたって……」
 セプターは、言いかけて、やっと気づいた。
 空気が、変わっている。
 埃っぽい、地球の空気特有の乾いた香りはなく、じっとりと重い、血腥い何かが周囲の空気を支配していた。はっとして周囲を見渡せば、トワを連れて行こうとしていた軍人たちも、コランダムも、そしてトワも、ラビットを見ていた。
 ラビットは、サングラスの下で赤い瞳を血走らせ、セプターを……正確にはセプターの後ろに見える、他の人間には見えない何かを見ていた。その足元で、空気が渦巻くのが目に見えてわかる。
「哀れむな、同情するな、そんな目で私を見るな……貴様も奴らと同じだろう、いつも遥か先で私を見下していたんだろう!」
 渦巻く空気は段々と風になる。血の香りを乗せて、セプターに襲い掛かる。セプターは目を庇うことすらせず、ラビットを凝視する。形の無い力そのものである風は止まることを知らず、勢いを増すばかり。
 ラビット、と微かに聞こえた声は、トワのものだろうか。ラビットにその切ない響きは届くことはなかったが。
 愕然とした表情で、しばらく沈黙を守っていたセプターが呟く。
「お前、もしかして、ずっとそんな風に思ってたのかよ……?」
 ラビットは、答えない。答えは、吹き付ける重たい風そのものだったのかもしれない。
「何で」
 セプターの唇が、乾いた言葉を紡ぐ。
「何で、何処で間違ったんだよ」
 その呟きも、空しく霧散する。
 風が、今度こそ悪意にも近い意志を持って牙をむく。しかし、セプターは動かない。動けなかった、と言った方が正しいかもしれない。頭を押さえて声にならない叫び声を上げるラビットの姿を見つめたまま、指一つ動かすことが出来ずにいた。
 風の牙がセプターに迫ったその時、ラビットの身体に、何かがしがみついた。瞬間、全ての風がぴたりと止んだ。
「もうやめろ、おっさん!」
 ラビットの背中にかじりつき、聖が叫ぶ。ラビットは頭を押さえていた左手を下ろし、のろのろとそちらを見る。聖は必死の形相で訴えた。
「みっともねえよ、格好悪すぎるよ、アンタ……八つ当たりもいいところじゃねえか、そんな姿見せて、これ以上トワを悲しませるんじゃねえよ!」
「トワ……」
 胸が、鳴る。
 左手の中にあるビー玉が、ほのかな温もりを思い出させる。
 それは、祈り。
 ラビットの幸福を祈った、一人の少女の思いそのもの。

『そのときには』

 心の奥に溢れる濁流は、忘れてはいけなかった記憶までフラッシュバックさせる。
 その時、左手を握っていたのは、誰だった?

『わたしと……』

 預けられた、青いビー玉。
 握り締めていた手をゆるゆると開けば、あの時と同じ色をしたものが、掌の上に収まっていて、記憶と同じ、温度を持っていた。
 小さな手の、温度。
「え?」
 わからない。
 何がわからないのかも、わからない。
 記憶の濁流は段々と勢いを衰えさせて、再び元通りに収まろうとしていた。同時に、ラビットの、自分自身も何処から発生したのか理解できていない敵意も確実に薄れていた。
「離してくれ、聖」
 力ない声で、呟く。
「すまない、もう、大丈夫だ」
「大丈夫なわけあるかよ……」
 聖の、腕の力が強まる。
「もう、限界なんじゃねえか」
 何が、と問うことは無為だとラビットも悟っていた。
 全てが矛盾に満ち、元より綻びていた、ラビットの存在定義。否定が何も生まないとわかっていながら否定せざるを得なかったものが、ついに綻びを破って露呈したのだ。
 再びビー玉を握り直し、ラビットはセプターを見た。セプターは困惑しているのか、複雑な表情を浮かべていた。
 その後ろから、鋭い声が聞こえた。
「お前、まさか」
 反射的にそちらに目を移せば、トワの横に立っていたコランダムが深い青の目を見開き、ラビットを凝視していた。ラビットは緊張の面持ちでコランダムの視線を受け止めたが、そこに割って入ったのはセプターだった。セプターはコランダムに目をやって言った。
「行きましょう、少佐」
「だが」
「……『青』の出した条件は彼らを見逃すことです。それを守るべきでしょう」
 淡々と放たれたその言葉には感情がなく、ラビットはどうしようもない息苦しさを感じる。もう一度ラビットの方に目を戻したセプターは、悲しげに、ほんの少しだけ口端を歪めて微笑んだ。
「お前がそう思ってたなら、俺はもう何も言えないよ。でも、お願いだから一つだけ、言わせてくれ」
 穏やかな、記憶のままの声が、告げる。
「俺は、お前と一緒にいたときが、一番楽しかったよ」
 じゃあな、と。
 背を向けて、セプターは歩き出す。
 今度こそ、ラビットは何も言わずにそれを見送ることしか出来なかった。コランダムに連れられたトワの背も、セプターの背も、遠ざかる。何処までも、遠くに行ってしまう。
 それでも、声は出ない。
 声を、かけられるはずもなかった。
 呆然としたまま、ラビットはただ、その場から走り去る護送車を見つめるだけだった。
 いつまでも、いつまでも。