「これは?」
ミューズは机の上に置かれていたアンティークのランプに目を止めて問いかける。クレセントは少々気を害したような口ぶりで言った。
「この部屋が殺風景だと散々文句を言っていたのは貴女だろう、ミューズ」
「ああ、そういえば」
ミューズは目線をランプに向けたまま、楽しげに笑う。
ベッドと机、そしてクローゼットしかないこの小さな部屋は、居候であるクレセントに与えられたものであった。クレセントは寝るだけなのだから何も必要は無いだろうとこの部屋に何も持ち込まなかったが、それを見たミューズはいつも不服そうな顔をしていたのだろう。
小さな古いランプは、ふわりと膨らんだ花弁を思わせる青い傘を持っていた。ミューズはその曲線に指を這わせて、言う。
「クレスって、青い色が好きなのね」
「そうか?」
「うん、この前私にくれたネックレスもサファイアだったじゃない」
「それは貴女に似合うと思ったからだ」
「ありがと」
ひときわ嬉しそうに笑うミューズに、こちらからは顔をうかがうことが出来ないクレセントも微かに、笑みを返したのだろう。静かな部屋の中に、暖かな空気が流れる。
「でも、それだけじゃなくてね」
ミューズはしばらく穏やかに微笑んでいたが、再び口を開く。
「クレスって、いつも何かを探してる。あの、青い星を見上げているときと同じ目で、大切なものを見つけようとしているような気がするの」
「……どういうことだ?」
時折、ミューズはよくわからないことを言う。心が読めるはずのクレセントでもすぐには理解できない、独特の言葉。笑顔のまま、ミューズは言葉を紡ぐ。
「私にもわからない。でも、クレスは自分で知らないうちに、何かを探してるんじゃないかな。それで」
――――それは、きっと青い色をしている……
トワは、埃を被ったランプを手にしたまま、ゆっくりと目を開けた。ランプが見ていた過去の記憶はトワの視界から消え、目の前にいるのは、白い布団を被って静かに眠っているラビット。しかし、トワの意識はそこにはなかった。
トワが語りかけるのは、背後に立つ存在。
「ねえ、クレセント」
トワは、緩慢な動作で肩越しに後ろを見た。白いコートに長く伸ばした黒い髪、という旅の中で見た姿のまま立っていたのは、『白の二番』クレセント・クライウルフその人だった。
だが、今ならはっきりとわかる。
この場所に、クレセントは存在しない。トワが見ているのは、形のある幻。例えば旅の途中で出会った『黄』の老婆が見せてくれた黄金色の街と同じような仕組みで存在している、本来ならばありえない存在。
クレセントは、トワの持つ色よりも遥かに深く暗い青の瞳でトワを見つめていた。微かに両目の視点が定まっていないのは、右目の視力が生まれつきほとんど無いからなのだと、トワははっきりと知っていた。
「……それが、貴女の答えか」
クレセントの口から放たれたのは、トワが考えていたものと同じ、懐かしくて悲しい響きの声。トワはこくりと一つ頷いて、改めてきちんとクレセントに向き直った。
暗い色の目の下で、刺青の蛇が踊っている。刺青は服で隠された体の大部分に刻まれているのだろう。莫大な力を秘めた無限色彩保持者でありながらそこまで魔法に執着したのは、生まれ持った無限色彩を信じることが出来なかったからだとトワも理解している。この場にいる今なら、この男の思考、感情の全てが手に取るようにわかる。
この部屋は、クレセントの記憶そのものなのだ。
クレセントは無表情なまま薄い色の唇を開く。
「後悔はないのか」
「ううん」
トワは、目線をクレセントから外してしまう。クレセントの瞳に、吸い込まれてしまいそうな錯覚に囚われて。
「まだ、わからないの」
「わからない?」
「わたし、本当は何をしていいのかわからないの。でも、もう迷っていられないよ」
「白兎のために、か」
クレセントの目が、つとベッドの上で眠るラビットに向けられる。トワは目を伏せて、こくりともう一度頷いた。
「ラビットには、時間がないの」
「だが、それは貴女が決断をしたとしても変わるまい。この男は、遠からず」
「わかってる、それはわかってるの!」
トワは叫んだ。その先を言わせないために。知っていても、認めたくない言葉を耳に入れないために、首を激しく横に振る。
「ラビットはずっとわたしのことを守ってくれたよ。だから、わたしは、最後にラビットを守りたいの」
目に涙を溜めて、きっとクレセントを見上げるトワ。クレセントは上段からトワを見下ろしていたが、やがて、大きな手をトワの頭の上に載せた。優しい動きで、しかしとても冷たい手だった。
「ならば、白兎を目覚めさせてやれ」
「え?」
目を丸くするトワに向かって、クレセントはあくまで淡々とした口調で言う。
「……守るというのは、ただ庇うだけではない。まだ、貴女も、白兎も、それに気づいてはいないのかもしれない」
「どういう……」
「だが、どうにせよ貴女の決断は無駄にはならないさ。結局、最後に決断を迫られるのは、白兎の方だったな」
クレセントの手が、頭から離れる。それを見上げたトワは自分の目を疑った。
そこにいるのは、クレセントの姿をしたものだったはずなのに。
「……まさか、貴方は……」
そうだ。
ここにいるのが『クレセント』のはずはない。トワは、クレセントが決してこの場にいるはずはないと確信しているのだから。
それならば、クレセントの姿を借りてトワに語りかけるのは。
クレセントは、いや、最早クレセントの姿すらもおぼろげになったそれは、微笑んだ。トワがよく知っている、何もかもを包み込んで癒す、暖かな笑い方で。
「大丈夫、自分を信じて……そして、ラビットを、信じて」
――――ラビットを、信じる……?
「トワ?」
問いかけは、おぼろげに残った微笑みの残滓すらも霧散させる。はっとして声の聞こえてきた方を見れば、ラビットが重い目蓋を開けてトワの姿を何とか捉えようとしているところだった。
「ラビット」
内心の動揺を抑えて、トワはラビットを見た。ラビットは手探りで視力補助装置を探しているようだったため、すぐにトワは横の机の上から装置を取って渡した。体を起こしておぼつかない手つきで装置のコードを頭蓋インプットに差し込みながら、ラビットが言う。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
手袋を外した、奇怪な刺青を刻み込んだ真っ白な指先が、トワの頬に触れる。ひどく、冷たい指先だった。トワはその感触に少しだけ体を震わせるが、ラビットの空ろな赤い瞳に射竦められてそれ以上は動けなかった。
それでも、トワはその視線を振り切るかのように、首を横に振った。
「今、誰かそこにいたのか?」
あくまで静かなラビットの問いは、トワの胸を容赦なくついてくる。本人が、意識していなくとも。
クレセントの姿をした、あの影が頭の中にちらつく。全てを見据える深すぎる青の瞳がラビットの赤の瞳と一緒にこちらを見ているようで、辛い。
いっそ、そうだ、とはっきり言ってしまいたかった。
自分が見たもの、聞いたもの、そしてずっと今まで言えずにいたことを全てラビットに話してしまいたかった。
だが、それはできないのだ。
喉元まで出かかった言葉を無理やりに飲み込み、トワは笑ってみせた。作った表情はいつもラビットが浮かべている自嘲の笑みのように、口端だけを歪め目を細めたような、不器用な微笑にしかならなかったけれど。
「ううん、誰もいないよ」
口から零れ落ちたのは、優しすぎる嘘。
「そうか……?」
トワの言葉に含まれた躊躇いに気づいたのか、それともトワの表情が冴えないと思っているのか、ラビットの問いかけにはほんの少しの疑念が含まれていた。だから、トワはこれ以上問われないために話を変える。
「それより、ラビット」
「何だ?」
「あのビー玉、まだ持ってる?」
突然の話題の転換に、ほんの少しの困惑を浮かべたラビットだったが、すぐにベッドの上から手を伸ばし、壁にかけられたコートのポケットから小さなビー玉を取り出した。
どこまでも青い、トワの瞳と同じ色をしたビー玉。
トワの幼き日の記憶に確かに存在していながら、いつからかその手の中から忽然と消えていたビー玉。
そして、何故か今、ラビットの手の中にあるビー玉。
どうしてこのビー玉がラビットの元にあるのかは結局思い出せなかったけれど、それでもよかった。偶然だと思い込んでいたラビットとの大切な出会いが、このちっぽけなビー玉を通して必然であるかのように感じることができたから。
そして、これからも、このビー玉がラビットの元にあれば、自分とラビットはつながっていられると信じられたから。
「少しだけ、貸してくれる?」
「構わないが……そういえば、これは、元々貴女のものだろう。貴女に返さなくては」
「いいの。だから、今だけ貸して」
訝しむラビットからビー玉を受け取る。
ビー玉はトワの手の中で転がり、ひやりとした硝子の冷たさを伝えてくる。この冷たさは、ラビットの指先の冷たさか、地球の空気の冷たさか、それとも。
ビー玉を握り締めて、トワは祈る。
友人である『白』のクロウは教えてくれた。無限色彩は心の力だと。その切なる願いを形にする、それだけ大きな力を持っているのだと。
だから、トワは『青』として、それ以上に一人の『トワ』として、願う。
「……ラビット」
「何だ?」
「わたし、昔、声を聞いていたの」
ラビットが、微かに呻くような声を漏らした気がしたが、トワは祈ることだけに精神を集中していたため、それには気づけなかった。
「 『幸せだ』っていう、男の人の声。優しくて、どこか懐かしくて、どこにいるのかわからないのに、はっきりとわたしのところに届く声」
それは時計塔という名の閉ざされた檻の中、トワが『孤独』という言葉すらも知らなかった頃の物語。
「でも、ある時からその声が聞こえなくなって、代わりに『 「白の二番」を探して』っていう女の人の声が聞こえるようになったの。とっても寂しそうで、苦しくて、それで、わたし、その声が聞こえてくる方向に行こうと思ったの」
「……何故?」
放たれるラビットの声は、擦れていた。
「わたしを呼んでいるから、きっとわたしの無限色彩が必要なんだって思ったの。わたしは『青』だから。わたしの力が、誰かの役に立てたら幸せだから」
それにね。
言いながら握り締めたビー玉が、段々と熱を帯びる。
「遠い昔に、誰かと約束したような気がしたの。わたしの力は、誰かを守るために使えって。それで、わたしは地球に来たの。『白の二番』を見つけられれば、きっとわたしの力の使い方がわかるんだって信じて。だけど」
目を閉じれば、思い浮かぶのはラビットと過ごした旅の記憶。
「ラビットは、『青』じゃなくて、『わたし』と一緒にいたいって言ってくれた。わたし、それがとっても嬉しかったの。ラビットは、いつもわたしを守ってくれた。わたしの傍にいてくれた。だからね」
握っていた手を開く。ビー玉は、自分から淡い光を放っていた。その色は、紛れもない、青。
まるで遠くに輝く星のように瞬く光をたたえたそれを、トワはラビットの左手に握らせる。
小さな硝子玉に、一つの、確かな祈りをこめて。
「今度は、わたしがラビットを守りたい」
「トワ……?」
ラビットの唇が、その続きを紡ごうとしたその時。
ノックも無しに、ドアが開けられた。
光を背にして立つシルエットは、見間違えるはずもない。レイ・セプターのものだ。
「迎えだ」
セプターは事務的な口調で、一つの答えを紡ぐ。
目を見開き絶句するラビットに、トワは背を向ける。
自分の、戦いに向かうために。
真っ直ぐに、前を向いて、頷く。
「はい」
悲痛な呼び声が、背中にかけられたような気がした。
それでも、トワは、振り返らなかった。
Planet-BLUE