ラビットは、ベランダに出て夜空を見上げていた。空に輝く『ゼロ』は青白く、月を飲み込むかのごとく光り輝いていた。
もうすぐ、この星は終わる。
自分も死ぬのだろう。
なのに、何故、こんなに静かな気分なのだろうと思う。
セシリアとの対話以降、ラビットは考えることをやめていた。トワのことも、自分のことも、全てを頭の中から取り払い、ただその場に存在しているだけ。それは逃げだろうと叱咤する声も脳裏から響くが、それに煩わされるのもやめた。
何故、こうまで必死に否定するのだろう。
自分の中に浮かんでは消える、答えの出ない問い。思考を止めてもなお浮かび上がる問いかけは、一体何を訴えかけているのか。
臆病者。
一体、何に怯えて震えている?
それは。
「こんなところにいたのか」
背後からかけられた声。ラビットは緩慢な動作でそちらを見て、サングラスの下の瞳を細めた。
「レイ・セプター」
「病み上がりだろ。風邪引くぞ」
セプターは、両手に湯気立つコーヒーカップを持っていた。そのうち片方のカップをラビットに手渡す。並々と注がれたカップの中身は、コーヒーというよりはカフェオレに近かった。
ラビットは軽く会釈をしてそれを受け取り、口をつける。熱いとは思ったが、味覚も麻痺してしまったのだろうか、ろくに味を感じない。ただ、ラビットがそれを疑問に感じることはなかった。
自分もカップに口をつけながら、セプターはラビットの横に並び空を見上げる。
「今日は、星が綺麗だな」
「……そうだな」
何故いちいち話しかけてくるのだろうと思いつつも、ラビットは味の無いカップの中身をすする。
「嬢ちゃんから聞いたよ、お前、天文学者なんだってな」
そういえば、セプターはここ数日でやけにトワと打ち解けているように見えた。セプターが良くも悪くも単純な性格であることをトワも見抜いたのだろう。敵でない限りは相手に興味を示すトワらしく、おずおずとセプターに話しかけている姿を数度見かけている。
「あくまで趣味の延長線上だ。それに、トワから聞かなくとも軍の方で調べただろう?」
「まあそうなんだけど。つれないな」
笑ってセプターはラビットを見る。澄み切った色の瞳が、こちらを射抜く。誰からでも、見つめられるのは苦手なラビットはつと目を逸らす。
「それで、何の用だ」
「用ってことはないさ。ただ、一人で何してるのかなって思っただけ」
「気楽なものだな。結局、我々の処遇はどうするつもりなのだ?」
「……さあ、そういやまだ考えてねえや」
「呑気にもほどがあるな」
思わず溜息を漏らすラビット。セプターは「そうでもないさ」と呟き、目を伏せる。
「お前と嬢ちゃんを見ている限り、そのまま軍に知らせていいか悩む」
「軍からすれば、彼女は『無限色彩保持者』という名の『人の形をした兵器』なのだろう?」
自分の口から言うのは嫌だったが、ラビットはあえて少佐ケイン・コランダムの言葉を借りて確認するように言った。だが、セプターは意外にも表情を暗くしたまま言葉を続ける。
「それはコランダム少佐の言い分だろ。あの人の無限色彩嫌いは徹底しすぎだ。まあほとんどの軍の人間がそう認識しているのは確かだけどさ」
言いながら、セプターはコーヒーを口にする。
「俺の相方……クレセントは無限色彩保持者だった」
「ああ、知っている」
「だろ? だけど、無限色彩保持者だからって、そんなに変わらないだろ。もちろん強い力ってのはそれだけで危険だけどさ、それだけの理由でクレスや嬢ちゃんを『兵器』って決め付けるのは間違ってるんじゃないか?」
当然のようなことを、当然のように言うセプター。
ただ、それが無限色彩を危険視する軍の中ではかなり特殊な考え方であることも確かだった。
事実、ラビットとて元は軍人だ。無限色彩保持者がどのような扱いを受けていたかなんて知らないはずもない。だからこそ、セプターの発言が奇異に映る。
「それとも何だ、お前は」
セプターは、伏せた目を上げて、問う。
「嬢ちゃんが軍に引き取られた方がいいなんて考えてんのか?」
「まさか」
ラビットは呆れた声で言った。
「軍のやり方は間違っている。トワにもトワの自由があるべきだ。ただ、『貴方』がそんなことを言うとは意外でな」
セプターは言われている意味がわからず、きょとんとした表情を浮かべた。そう、このレイ・セプターという男は敵対してさえいなければ、ここまで無防備な表情を見せる。それが、ラビットからは奇妙なものとして認識される。
しばらくの思考の後、やっとセプターはラビットの言いたいことについて思い至ったらしく、苦笑を浮かべた。
「ああ、まあ俺も立場が立場だからな。軍人としてはんなこと言えねえよ。ただ、今は休暇中、別に本音言ったって構わないだろ」
そう、セプターは現在一番『軍神』に近い男。
かつては窓際部署にいたというのに、その卓越した戦闘能力と誠実さで屈指の遊撃部隊『アレス部隊』の隊長にまで上り詰めた、現在の軍では最強の戦闘能力者。軍に忠誠を誓い、軍のために戦うことを迷わぬ勇士とラビットは風の噂で聞いている。
だが、実のところそうではないのかもしれない。
ラビットはそこまで考えて、軽く首を横に振った。
結局、セプターは何かを望んでその場所にいるわけではない。ただ、自分に与えられた役割を淡々とこなしているだけに過ぎないのだろう。
ならば、何故セプターは戦い続けるのだろう。
「セプター、貴方は何故軍に?」
唐突にも思える問いかけに、セプターは少なからず驚いたが、すぐに表情を崩して微笑む。
「元々は周囲の意向だ。だけど、今は……意地、かもしれない」
「意地?」
「俺、今の上層の考え方は嫌いでさ。今回の任務だってあんまり乗り気じゃなかったし、それ以前に、クレスがつぶされたのも、軍の意向に振り回されたからだって思ってる」
背筋を伸ばし、星空を見上げるセプター。
「だから、いつか変えてやろうって思ってる。俺は馬鹿だけど、何かやらないよりはマシだろ?」
そう、その目だ。
ラビットは、胸に小さな針を刺されたような痛みを覚えて、目を伏せる。自分には、セプターのその純粋さが、まぶしすぎる。
夜空を見上げながら、その向こうまでも見透かしてしまうような目は、多分セプターにしか出来ないし、おそらくそんなセプターを誰もがうらやんでいるだろう。それに気づいていないのはセプター本人のみ。
セプターは、望む望まぬに関わらず、常に誰かの前に立つ存在だ。
ラビットは、無意識ながらもそれを思い知る。
「まあ、そんなのお前に話したって仕方ないか。とにかく、俺が軍にいる理由なんてそんなもんだ」
「そうか」
胸が重い。思考を止めたはずだというのに、再び記憶の奥底に封じた闇がラビットを襲う。それは、セプターと会話を交わしているからか、それとも。
静かだった心が、波立つのを感じる。
「じゃあ、俺からも聞いていいか?」
数秒の沈黙の後、セプターはラビットをちらりと見て、問うた。
「何だ」
「何で、黙ってたんだ?」
「何をだ?」
淡々と。
ラビットは問い返す。
大丈夫だ、と思う。まだ、自分は完全に堕ちてはいない。胸の痛みは深まるばかりだが、言葉だけはまだ、平静を装うことが出来る。
セプターは軽く息をついて、首を横に振った。
「……いや、悪い。聞くべきじゃなかったな」
それ以上、ラビットは何も言わなかった。鈍い痛みと闇が、意識を支配しそうになるのに抗いながら、夜空を見上げるだけで。
セプターも、何も言わずにラビットに倣うように空を見上げた。手にしたカップの中のコーヒーが冷めていくのも構わず。
しばしの静寂の後、セプターはラビットに向かって言う。
「お前、これからどうするつもりなんだ?」
「出来ることなら、トワをどこかに逃がしたいと考えている」
「逃がすって、どこにだよ」
それについては、ラビットもまだ答えを見つけてはいない。それどころか、トワはまだ、目的を達していない。昨日見た涙が、ラビットの胸を締め付ける。何が、トワを迷わせているのか、ラビットには理解しかねていた。
セプターも、ラビットの沈黙の意味を察し、言葉を繋ぐ。
「……いや、それは嬢ちゃん次第か。じゃあ、お前はどうしたいんだ?」
「私、が?」
「ああ。ここに、残るのか? それとも、嬢ちゃんと一緒にどこかに行きたいのか?」
そうか、その質問があった。
ただ、その質問への答えは既に出ている。
「私は、残るつもりだ」
「何でだよ」
「どちらにしろ、私は死ぬからな」
「死ぬ……って」
どうやら、セプターにとってその答えは意外なものだったらしく、驚きに目を見開いてラビットを見やった。
「石化肢侵食症。右腕はもう使い物にならない。侵食具合からいくと、よくてあと一ヶ月だ」
「何でそこまで放っておいたんだ! ここじゃ確かに治らないが、アークに行けば……っ」
セプターはそこまで言って、口ごもる。
気づいたのだ。
その奥にある、ラビットの真意に。
「嘘、だろ?」
セプターの口からこぼれた言葉は、頭の中に浮かんだ最悪の可能性を何とか打ち消そうとしているように見えた。
だが、それが無為であることも、理解していただろう。
「……いや、貴方が察するとおりだ、セプター」
ラビットは、表情一つ変えずに言った。
「元より、死ぬつもりだったよ。病の進行を待たずとも、この星と運命を共にするつもりだったのは本当だ。彼女を悲しませるのは望まないが、初めから決めていたことだ」
「それは、死にぞこなったからか?」
ラビットから目を背け、セプターは唸る。ラビットは答えず、『ゼロ』を見上げる。
「自分で死ねないから、逃げるってのか? ふざけんな!」
今にも掴みかかりそうな勢いのセプターだったが、反射的に手を伸ばして、その腕が力なく折れる。
「……どうして、わざわざ死にたがるんだよ」
「生きている理由もない。それだけだ」
「嘘だろ」
「ああ、嘘だ」
言って、すっかり冷めたカフェオレに口をつける。地球の夜は寒い。コートを着ていても、カップを持っている左手は既に冷え切っていた。
セプターはラビットに背を向けて、言った。
「寂しい奴だな」
端的な言葉だが、それはセプターのラビットに対する最大の侮蔑だったのだろう。実際に、ラビットは思わず振り向きそうになるがそれは耐えた。
悪意ある言葉には慣れているというのに、そう言われることだけは慣れない。それが、一番ラビット自身気にしていることなのだが当人はそう思っていない。
ラビットの返事がないことをどう受け取ったのかはわからないが、セプターは独り言のように続ける。
「俺は、最終便でセシリアを連れ出すつもりだ。それから、アークで式を挙げる。セシリアは出ることを渋ってるけどな。それまでは、ここでの生活を楽しむつもりだよ」
「そうか」
気のないラビットの声を背に、セプターはベランダからの去り際、一つだけ付け加えた。
「……何で、わかってくれねえのかな」
言葉の余韻を残したまま、扉が閉められた。静寂が戻り、ラビットは一人嘆息する。
理解できないわけではない。セプターの言いたいことなんて、簡単に察することが出来る。ただ、それを認めることができないだけだ。
『ゼロ』の明るさに圧倒されつつある星を数えながら、ラビットは再び思考を閉ざし記憶の闇を拒絶する。
後は、トワの答えを待つだけだと思いながら。
もう、待っている意味などないと気づくこともなく。
セプターは、暗い気持ちで部屋に戻ろうとした。
その時、小さな影が前に立ちはだかった。
トワだ。
トワは、切実な表情でセプターを見上げ、今までセプターが聞いたことないくらいにはっきりとした声で言った。
「レイに、お願いがあるの」
Planet-BLUE