シリウス・M・ヴァルキリーには奇妙な予感があった。
もうすぐ、全てが大きく動き出すという。
ヴァルキリーは知将と謳われているものの、元よりその功績の大半はトゥールに負っている。正確に言えば、パートナーとして、お互いの弱い部分を補い合っているからこそ正常に機能しているのである。
ヴァルキリーの致命的な弱点は、おそらく、情に伴う甘さという一点だろう。
長年……そう、この連邦政府軍の大半を占める太陽系圏人よりは遥かに長い時間軍にいるはずの彼女は、どうにも軍人らしからぬところがあった。
それが、彼女独自の観察眼と、他人への余計とも取られかねない共感から来ているものだというのはヴァルキリー自身はっきりと認識していることである。理解していながらも、どうしても甘くなってしまうのはやはりヴァルキリーの生まれ持った素質のようなものなのだろう。
ただ、その共感は時に何よりも確かな勘として働くことがある。トゥールに言わせれば「非科学的」という部分だが、これはヴァルキリーにあってトゥールに無いものでもある。
今感じている「予感」も、その類のものなのだろう。自分を取り巻くものが、変化しようとしている。
長い連邦政府軍本部の廊下を歩きながら、ヴァルキリーはある一点を見て紫苑の瞳を細める。
「……メーア?」
口の中で、呟く。
目線の先には、ちょうど自室から出てきたヴィンター・S・メーアの姿があった。ヴァルキリーは声をかけようかと思ったが止めた。メーアはいつものように護身用のデバイスを連れ、ヴァルキリーに気づく様子もなく早足に廊下を歩いていく。
揺れる、幹色をした長い髪。その背は若き大佐には似合わぬ、老いのようなものを感じさせる。
いや、そうではないのか。
ヴァルキリーは目を細めたまま、遠ざかるメーアの後姿に向かって嘆息する。
「どうしたのですか、ヴァルキリー大佐」
その時、唐突に声をかけられて、ヴァルキリーは思わず目を丸くした。気づけば、メーアの部屋から出てきた、副官の鳳凰 蘭(ほうおう・らん)がこちらを不思議そうに見つめていた。
「いや、何、偶然メーアが出て行ったからな。何かと思って」
「ああ、大佐ですか」
鳳凰はもうメーアの姿が見えなくなった廊下の先をヴァルキリーにつられるように見て、軽く眉を寄せる。
「先ほど、トゥールさんから連絡があったのですよ」
「トゥールから?」
「ヴァルキリー大佐はご存じなかったですか?」
意外そうに、鳳凰は首を傾げた。
もちろんトゥールはパートナーではあるが、逐一連絡を取り合ったりはしない。時には、お互いに詳しい動向を知らない方が都合よく話が進む場合がある。トゥールもヴァルキリーも、その関係はよく心得ている。
今回の場合は、やはりヴァルキリーには何も知らされていない。
「知らないな。トゥールは何と?」
「通信に立ち会いましたが、『答え合わせをするから研究室に来い』と、それだけ」
「……答え合わせ、な」
どうやら、自分の勘は当たりそうだ。
ヴァルキリーは思わず苦笑した。トゥールはなかなかヴァルキリーの勘を認めようとはしないが、これは時にトゥールの理詰めの戦略より素早く状況を読み取る場合がある。物事の概観を捉えるのは、ヴァルキリーの最も得意とするところなのだから。
とにかく、トゥールがついに動き出したのだ。これで今まで黙っていた連中も動かないわけには行かないだろう。
そんなことを考えていると、鳳凰は眉を寄せたまま不機嫌そうな声で言い放つ。
「全く、トゥールさんもメーア大佐も、こそこそ動くのが好きですよね」
この、鳳凰 蘭という女は有能な軍人であり、メーアの副官として働いてはいるが、メーアとは到底合いそうもない性格をしている。どうにも、古くからの知り合いであるヴァルキリーに愚痴をこぼすのが日課となっている節がある。
ヴァルキリーは慣れた様子で軽く言い放つ。
「そういう人種なんだろ」
「まあそれを言ったらおしまいですが……しかし、大佐、何処に行くんでしょうね。研究室、反対側なのに」
その言葉を聞いて、ヴァルキリーははっとした。
メーアが歩いていった方向は、本部の出口に繋がっている。一体、メーアは何処に行こうとしている?
トゥールとの「答え合わせ」を前に、メーアが向かう場所……
「……そうか」
ヴァルキリーの口から、小さな声が漏れた。
「悪い、感謝する、蘭。弟にもよろしく言っておいてくれ」
「え、ヴァルキリー大佐?」
鳳凰の声を背に受けながら、ヴァルキリーは長い廊下を早足に歩く。メーアの辿った道筋を、そのまま追いかけるように。
クロウ・ミラージュは小さな病室の中、そこの主であるカルマ・ヘイルストームと共に窓の外を見ていた。
クロウは姿こそ少女のように見えたが、その黒い瞳だけは、長い年月が刻み込んだ夜の闇よりも深い何かを湛えていた。窓の外に見えるのは、無機質なビル群とその間を飛び交う星間定期船。
「カルマ」
視線だけは窓の外に向けたまま、ベッドの上のカルマに向かって、語りかける。
「……トワ、気づいたよ」
「そうだね」
カルマも、金色の瞳を細めて、まぶしそうに窓の外を見つめていた。重い病に侵されたカルマにとっては、決して届くことのない外の世界。
無限色彩保持者であろうとも、その中でも二番目に強く、三人しか存在しない『白』であろうとも、その病を克服することは出来なかった。
壊れたものを元に戻すのは、何よりも難しい。そう言ったのは、この場にいない『白』の最後の一人、『白の二番』クレセント・クライウルフだっただろうか。
「クロウには、見えてるの?」
ぽつりと、放たれた不可解な質問。
しかし、クロウにはそれが何を意味しているのかすぐにわかった。
無限色彩はあらゆる願いを形にする能力。ただし、その奇蹟には方向性がある。クレセントのように精神感応能力しか持たない、という例は異常であるが、そうでなくとも多少の得手不得手は必ずある。
クロウが得意とするのは、未来を垣間見る能力。カルマは、クロウにこの先が見えているのかと問うたのだ。
だから、クロウは目を伏せて、首を横に振った。
「 『青』のは、見えない、から」
「そうだったね。ごめん」
カルマは苦笑して、再び窓の外に目を戻す。空は、どこまでも青く、浮かぶ雲は、どこまでも白い。
「でも」
無限色彩保持者としてのクロウの目に映るのは、現実の風景だけではない。かつて見たもの、これから見るであろうものが視界に被さり、複雑な織物のように見えている。
「……兎は、きっと、背を向けて」
伸ばした指が、窓に触れる。
「逃げる」
窓に、鏡映しになるクロウの姿。その表情はあくまで薄く、人形のよう。カルマはそんなクロウの後姿に目を移し、嘆息する。
「だから、今、剣を抜くんだね。トワと、兎のために」
静かなカルマの声に、クロウは振り向く。
その手には、いつの間にか一振りの剣。鏡のように磨きぬかれた刀身にクロウの姿を映しこみ、ゆらりと揺らめく。
「……抜くよ」
放たれた声は、手にした剣と同じ、鋼の色をしていた。
ビルとビルの狭間に、開けた場所があった。見上げれば、灰色の建物の間から真っ青な空とそこを流れる白い雲が見えた。
ヴァルキリーは一瞬空を見上げてから、すぐに目を戻す。
そこは、墓場だった。
古風な石造りの墓が立ち並ぶ、静寂の空間。元より墓を作るという概念のない妖霊系圏人であるヴァルキリーにはこの空間の本来的な意味を理解することは難しかったが、それでも、特別な場所であることくらいはわかる。
特に、この男にとっては。
「……どうして、貴女がここにいるのです、ヴァルキリー大佐」
振り向いたメーアは、少なからずその目に驚きと困惑を込めてヴァルキリーを見た。ヴァルキリーはビル風に銀色の髪を靡かせながら、ほんの少しだけ微笑んで見せた。
「花を、手向けに」
ここに来るついでに買ってきた小さな花束を示して、言う。メーアは何を言っていいのかわからなかったのだろう、複雑な表情を浮かべて、しかし素直にヴァルキリーに道を譲った。
ヴァルキリーはひときわ小さな墓の前に跪き、青い色調でまとめられた花束をその前に置く。作法などはよく知らないが、胸の前に手を置いて、短い祈りを捧げる。
これから始まるであろう、残酷な「答え」を前にして。
「こんなこと、望んでなんかいないよな、貴女も」
微かな囁きは風に流れて消えていく。その声がメーアに届いたかどうかはわからないが、ヴァルキリーが立ち上がったところで、メーアが口を開いた。
「聞かせてください」
背中に投げかけられる、敵意にも近い感情。ヴァルキリーは苦笑を隠すこともせず、メーアに向き直る。メーアはいつもと同じ薄い笑みを張り付かせてはいたものの、目は笑っていなかった。
「何故、私がここにいるとわかりました?」
普段ならばヴァルキリーを迷わせる意味深長な質問を投げかけるメーアだったが、今この場で放たれた言葉は、十分ヴァルキリーの予想範囲内の質問だった。
「わかるさ」
強い風は、手向けたばかりの花から花弁を奪い、空へと巻き上げる。
「最後に、ここに戻ってくると思っていた。貴方にとって、この場所が全ての始まりだからな。いや、貴方だけではない。トゥールにとっても、あの男にとっても」
淡々と放たれた言葉に、メーアは今度こそ笑みを消して一歩下がる。
「まさか、貴女は」
「……私が、何か?」
「気づいていながら、黙っていたのか? 貴女は、私のことも、あの男のことも、彼女のことも、全て気づいていたのか!」
「その答えは、トゥールが言うことだ。私が言うことではない。ただ」
ヴァルキリーの目が、風に巻き上げられ、空に溶けていきそうな錯覚すらも呼び起こす青い花弁を追う。
ヴァルキリーは、トゥールとは違う。
あくまで事実と真実を追いかけるトゥールとは対照的に、ヴァルキリーは目には見えないものを求め続ける。それは形にはならない人の情であり、また、決して目に見えることはない、人と人とのつながり。
目に見えぬものを否定しながら、求め続けた孤独な少年の姿をいつも追っていたからだろうか。それとも、元より太陽系圏人とは時間の流れが違うヴァルキリーもまた孤独であり、目に見えないものを信じたいと願っていたからか。
どうにせよ、時に人の情とつながりは、思わぬ道筋を見せるものだ。今現在、メーアに示した……トゥールがなかなか辿りつくことのできなかった「答え」のように。
漠然とそんなことを考えながら、ぽつりとヴァルキリーは言った。
「彼女は、何を思って死んだんだろうな」
Planet-BLUE