Planet-BLUE

094 月の光

 目を覚まし、ラビットに会おうと思ったトワは、ラビットが部屋にいないことに気づいた。もう起き上がれるようにはなっていた、とセシリアは言っていたけれど、それなら一体何処に行ったというのだろう?
 この家はそんなに広い家ではない。家の外から出たという話は聞かないから、きっとこの家の何処かにいるのだろうが……
 その時。
 ピアノの音が、聞こえた。
 たどたどしい指使いで、メロディラインだけを奏でている。そのメロディは、トワが何処かで聞いたことのあるものだった。いつ、何処で聞いたのか、すぐには思い出せなかったけれど。
 トワは音に導かれるように、ある部屋の前に立った。
 ピアノの音は、この扉の向こうから聞こえてくるようだった。この部屋が何の部屋なのか、トワは聞かされていない。セシリアも、トワには最低限のことしか教えていなかった。
 少しだけ迷ってから、トワはドアノブに手をかけ、回す。音もなく扉が開き、トワの目に入った光景は。


「何を弾いているんだ?」
 グランドピアノの前に腰掛ける女は、声をかけられてピアノを弾いていた手を止め、そちらを見た。ドアのところには、背の高い男、クレセントが立っていた。
 女、ミューズは彼の姿を認め、微笑んで言う。
「ドビュッシー作曲『ベルガマスク組曲』の、『月の光』よ。知らない?」
「聞いたことはあるが、曲名までは知らなかったな」
 そう、とミューズは頷き、再び鍵盤の上に指を載せる。しなやかな白い指が幻想的な音色を奏でる。
 暗闇を青白く照らしあげる、月の姿が脳裏に焼きつく。
 時に暖かく、時に冷たく輝き、淡々と満ちては欠ける地球の伴侶。古来から魔力を持つとされ、静寂と狂気を同時に表現する夜の象徴。
 開発が進んだ現在、単なる衛星である月にそのような象徴性があったと覚えている人間はそう多くないが、遠い昔から人の心に刻み込まれているイメージというものは、ふとした瞬間に呼び起こされることがある。
 例えば、今。
 ミューズの奏でる音色は、心の底に沈んでいた、幻想的な存在としての月を思い出させる。
 誰が教えたわけでもないのに知っているのは、きっと人の遺伝子に刻み込まれた何かが、月の魔力を語り継いでいるのだ。決して絶えることなく、この地球を遠く離れ、本来の月を知らない子供たちにまで。
 静かな余韻を残して、ミューズの指は鍵盤から離れた。息を飲んで演奏を聴いていたクレセントは、手袋を嵌めた手で小さく拍手した。
「……さすがだな」
「ありがと」
 ミューズは無邪気な表情で笑い、それから言った。
「この曲は昔から好きで、この曲を弾くために小さな頃練習したの、よく覚えてる」
 クレセントは、側にある椅子に腰掛けて、ミューズに問いかけた。
「そういえば、貴女は何故ピアニストになりたいと?」
「昔から、音盤を聞くのが好きだったの。でも、どんなにいい音盤でも本当に弦が震える音色や指先に伝わる何かを伝えることは出来ないってわかったの。そう、自分でそれを味わってみたかったっていうのが一番かも」
 ぽん、と。
 指先が、白鍵を叩く。
「これだけ作り物で何でも取り替えられる時代なのに、やっぱり人が奏でる音色には敵わないのね。音楽って不思議。その、不思議を皆に伝えられたら素敵でしょう?」
「そうだな」
 クレセントも、先ほど聞いた音色を思い返しながら言った。今の演奏がミューズの言っていることを端的に表現していたと思う。
 音盤では伝わらない、『何か』。
 揺り動かされる、自分も知らない過去の記憶……それよりも根源的なもの。
 ミューズの演奏には、それだけの『何か』があった。形はなく、実体の掴めない存在。しかし、それは確かに存在する大きな『力』。
「だから、私はピアノを弾くの。いろんなものを自分で味わって、皆に伝えたいから」
 ミューズの目は、クレセントを見ているはずなのに、ずっと遠くを見ているような錯覚を呼ぶ。常にそうだ。ミューズの意識はここではない遥か高い場所にあるのかもしれない。
 それこそ、音楽を愛し、音楽そのものである女神か何かのように。
「クレスも、音楽が好きなのね」
 ミューズが笑いかけると、クレセントは一瞬躊躇った後に、淡々とした言葉を紡ぐ。
「……聴いていると、心が落ち着く。雑音が聞こえなくなるからかもしれない」
「雑音?」
「正確には音とは言わないか。ただ、そこにいるだけで、誰かの声が聞こえるから」
 それは、この世界に存在する誰よりも人の心を感じ取る能力に長けた男に与えられた、常なる苦痛。
「意識的に能力を閉ざそうとしていても、ノイズのように、ぎりぎり聞き取れないくらいの小さな声が頭の中に響いている。音楽を聴いているときだけはそれを忘れられるから、音楽は好きだ」
 静かに語られるクレセントの言葉に、ミューズはじっと耳を傾けていた。
「ただ、何だろうな。貴女の演奏は、それだけではない気がする」
 クレセントの視線が、鍵盤に向けられる。
「聞いているだけで、貴女と対話しているような、不思議な気分だ」
「そう言ってもらえると、音楽家冥利に尽きるわね」
 ミューズは心から嬉しそうに言った。
「音楽は、一方通行じゃないの。曲を弾くだけじゃいけないし、聞く人だけじゃいけない。二つがそろって、初めて音楽になるの。私たちは、音楽を通して人とつながるの」
「そうか……何となく、うらやましいな」
「何で?」
「私は、一生人とつながることなんて出来ないだろうから」
 ぽつりと呟いた言葉は、部屋の中で霧散する。俯いたクレセントの表情をうかがい知ることは出来ないが、声は低く、沈んでいた。
「そんなことないわ。貴方はただ、怖がっているだけ」
 ミューズは笑顔を浮かべたまま、クレセントの手を取った。クレセントは驚き反射的に顔を上げる。
「人の心が見えるって、私にはよくわからない。きっといろんなものが見えちゃうんだろうね。だけど、遠くから見ているだけじゃわからないことだってあるんじゃないかな」
 例えば、とミューズは手に取った、クレセントの左手に軽く口づけする。白い手袋の上に、淡い色の口紅が落ちる。
 クレセントは、ただ硬直してその様子を見ていることしか出来なかった。いたずらっぽく笑ってミューズは言う。
「ちょっと、ドキドキした?」
 言われて、クレセントはやっと我に返り手を引っ込める。そうやっても手袋の上の口紅が消えるということはないのだが。
「あ、貴女は唐突に何を」
「あはは、クレスってばかわいいところもあるのね。知らなかった」
 声を上げて笑うミューズに、クレセントは何とか声を落ち着かせながら言う。
「それが何だというんだ」
「でもほら、ドキドキしたでしょ? 貴方は私に笑顔をくれる。私は貴方にドキドキをあげる。ちょっとだけ、つながったと思わない?」
「……貴女は、いつも変なことを言うな」
「そうでもないわよ。きっとクレスはきっと難しく考えすぎていると思うの。ちょっと見方を変えれば、クレスはいろんな人とつながっているんだと思う。怖がらずに一歩近づいてみれば、きっといろんな人が貴方のこと思ってくれてるの、わかると思うわ」
 クレセントは依然、不機嫌そうな態度を崩そうとはしない。自分の左手を見つめながら、ミューズの言葉に納得しかねているように思えた。
 ミューズは「困ったなあ」とおどけた表情で言う。
「でもね、私はもっとクレスのこと知りたいと思うの。クレスと、つながりたいと思ってる」
「ミューズ?」
「ね、クレスはどう?」
 問いかける、ミューズ。明るいブラウンの瞳は、その色に似合わぬ深さを併せ持っていた。クレセントはその目を直視することが出来ずに、思わず目線を鍵盤に逃がす。
「……私も、貴女のことをもっとよく知ることができればよいと思う。だが」
「 『だが』はいらないわ。クレスがそう思っていてくれるだけでいいの。それだけで、私もクレスも、少しだけ近づいたでしょ?」
 少しずつでいい。一歩ずつ、近づいていこうとするだけでいい。お互いを思う気持ちが、二人を「つなげる」のだと。
 ミューズは言って、少女のように微笑む。
「たまに、思い合うがゆえにすれ違うっていうこともあるけど……それも、ある種のつながりだと思ってる。だから、ね、クレス」
 どうか、自分を一人だと思わないで。
 そう言ったミューズの声は、ピアノの音色と同じように、言葉以上の何かを伝えようとしているように聞こえて……


「……トワ?」
 声が、トワを現実に引き戻す。
 はっとして目を上げれば、幻視と同じ、ただあれから長年使っていなかったのだろう、埃を被った大きなグランドピアノ。
 そして、その前に立つラビットの姿。
「どうした?」
 ラビットはトワを振り返り、いつもと同じ、淡々とした声で言った。そう、その声はいつもと同じはずなのに、ラビットではない誰かの声に被さるようにして聞こえる。
 トワは、短い夢を振り切るように、首を横に振って言った。
「部屋にいなかったから、どこにいるのかなと思って」
「ああ、そうか。すまない」
 ラビットは言って、再びピアノに向き合う。だらりと垂れ下がった右手の代わりに、左手でたどたどしくメロディラインを奏でる。
「ラビットは、ピアノ弾けるの?」
「楽譜は読めるが昔少しかじった程度だ。それに、今は右手が利かないから、簡単な曲も弾けない」
 言いながら、ぽつりぽつりと鍵盤を叩き。
 奏でる曲は幻視と同じ、『月の光』。
 演奏は、演奏者の持つ何かを伝えるものだと言ったミューズの姿を思い出す。ラビットは、この鍵盤に何を託そうとしているのだろう。指先は震えるようで、奏でる音もどこか弱々しい。
 ミューズの演奏が暖かく、そして確かに全てを見守る夜の月だというのなら、ラビットが奏でるのは、今にも空に溶けて消えそうな、儚い硝子細工の月。
「この曲、『月の光』っていうんだよね」
「ああ」
「ラビットは、この曲好きなの?」
「ああ……そうだな」
 左手を、上げる。
 手袋を嵌めたままの左手は、鍵盤の上で、何かを掴むような動作をする。
「トワ」
「何?」
「貴女の答えは、見つかったのか?」
 ピアノに背を向けて、ラビットは、トワに向き直った。
 トワは、どきりとする。息が詰まるような、奇妙な威圧感がある。何故。何故。いつもと変わらないはずなのに、ラビットを見るのが、苦しい。
「あの、白の原野で、貴女は何かを掴めたのか?」
 問いかけるラビットの声ですら、何故か叱咤するように聞こえる。
 いや、違う。トワは、震えそうになる身体を両手で押さえ、目を閉じる。
 自分は、恐怖しているのだ。自分が求めていた答えが目の前にあるというのに、その扉に手をかけることができずにいる。その答えに手を伸ばしたら、今まで自分を支えてきたもの全てが壊れてしまう気がして。
「どうすればいいか、わからないの」
 トワは、掠れた声で呟いた。
「……きっと、答えはわかってるの。でも、どうしていいかわからない。ごめんなさい、ここまで一緒に来てもらったのに、わたし……」
 それ以上は言葉にならずに、理由もなく目から涙があふれた。悲しいのか、悔しいのか、自分でもよくわからないまま、熱いものが頬を伝う。
 すると、トワの身体を何かが包み込むような感触があった。トワが目を上げると、ラビットが穏やかな表情でトワを抱きしめていた。
「貴女の目的が何なのか、私は知らない」
 ラビットの口調はあくまで静かだったが、切実な響きを伴っていた。
「ただ……貴女の思うとおりにして欲しい。貴女に、後悔がないように」
 思うとおりに。
 トワは、ラビットの胸に顔を埋めながら思う。自分は、どうしたいのだろう。どうすれば、後悔しないのだろう。
 自分を抱きしめてくれる、優しい腕。暖かな身体。それだけで、トワはとても安心する。ラビットがいなければ、自分はきっと折れていた。何も出来ないまま、『時計塔』に戻っていたと思う。
 それならば、トワが描きあげるこの旅の終わりは。
「ラビット」
「何だ?」
「もう少し、このままでいてくれる?」
 構わない、という声が降ってくる。抱きしめる力が少しだけ強くなって、トワは涙を流しながら目を閉じる。
 この暖かい腕が自分から離れたとき、覚悟を決めようと思う。自分の大切なものを守るために戦おうとしているのは、ラビットだけではない。トワも、同じなのだ。
 自分が『青』なのは、大切なものを守るため。
 だから、終わりにしよう。
 自分が始めたこの長くも短い旅に、決着をつけよう。