Planet-BLUE

093 理解不能

「もう、起き上がっても大丈夫なの?」
 朝食を運んできたセシリアの問いに、ベッドの上に座ったラビットは、視力補助装置の固定用バンドを調節しながら言った。
「ああ、本当にすまなかった。感謝している」
「いいのよ、そんなに硬くならないで。でも、驚いたわ」
 ほんの少し埃をかぶった机の上にトレイを置いて、セシリアはベッドの横の椅子に腰掛ける。「何が」と問うラビットに対して、少しだけ、微笑んでみせた。
「貴方たちが、レイに……軍に追われてる重要人物だなんて。一体、何をしたの?」
 そこに、責めるような響きは含まれていなかった。純粋に、いたずらっぽく輝く茶色の瞳がラビットを射る。
「何をした、か……」
 問いの答えを探して、ラビットは視線を宙にさまよわせた。そこには、多分にセシリアから目を逸らすという意図も込められていたが。
 自分は何をしたかったのか。トワを連れて、彼女の望みどおり地球を見て回り……そして、彼女が求めるものを探す。それが、この旅の目的だ。
 強大な力を持ち、軍の保護下にあったトワを連れて旅をする、それ自体が軍に追われる理由だった。セシリアの問いに対する答えとしては、それで十分なのだろう。これ以上何も語る必要はない。
 だが。
「もし、私がとてつもない重罪人だったら貴女はどうするつもりだ?」
「それはないでしょう? もしそうだったら、レイが今だけでも見逃すわけないもの」
「それはそうかもしれないが」
 ラビットは、口ごもる。
 何か大切なことを言わなければならないと思った。それが何なのか、ラビット自身にもよくわからなかったが。
 ただ、自分が今言ったことはあながち間違いでもないはずだ。
「だけど」
 考えているうちに、セシリアが先に口を開いた。微笑を浮かべながらも、どこか悲しげな色を目に湛えて。

「もしも、貴方がこれ以上何かを奪おうっていうのなら、私はレイが気づく前に貴方を殺す」

「……っ!」
 息が、止まる。
 目の前が、ブラックアウトするような錯覚に陥る。
 セシリアの顔から、笑顔が消えた。ラビットは、口の中が乾いているのを感じながら、何とか言葉を紡ぎ出す。
「貴女は……」
「否定したいのなら、左腕を出して。左腕に巻いた包帯を取って見せて」
 今の自分は、どんな表情をしているだろう。
 ラビットは、左腕から響く痛みを感じながら思う。右腕の、全てがゆっくりと凍りつきつつあるあの鈍い痛みとは違う、左の神経から直接胸に楔を打ちつけるような、鋭い痛み。
 覚悟を、決めろ。
 何度も言い聞かせた言葉が、頭の中に響く。何故ここまで来て後怖じするのだろうと漠然と思いながらも、どうしても前に進むことを躊躇う。
 それでも、何とか声を出した。
「無理だ。否定なんて」
 出来るはずもない。
 はっきりと、言わなくてはならないのに声は掠れて言葉にならない。
 自分が、どうしたいのかがわからない。セシリアは、じっとラビットを見つめていた。記憶の底から見つめているような、深い色の瞳……
「貴方は、知らないかもしれないけど」
 セシリアの唇が、ゆっくりと動く。
「あの時から、全部が狂ったの。私も、レイも。噛み合わないの。何かが足りなくて、でも、もうどうしようもないの」
 淡々とした声の中に、秘められた感情は何か。
 悲しみと、嘆きと、怒り。
 苦しい。息が詰まりそうだと思う。しかし、ここで逃げ出すわけには行かない。
「なのに、貴方はずっと逃げてたのね。私の知らない場所で、ずっと」
「違う」
「そうでしょう? 皆のものを奪うだけ奪って、後は逃げてばかり。 残された人のことなんて考えちゃいない……私たちが、どんな思いで生きていたと思うの? 答えて」
 言葉は、時に形あるものよりも深い傷を残す。それを誰よりも知っていたつもりだったラビットですら、セシリアの追求に含まれた刃を深々と突き立てられ、言葉を失う。
 言えることなんて、無い。
 何を言っても、どうしようもない言い訳にしかならない。
 セシリアの目は、ラビットの持ちうるどんな反論をも許さぬ確固たるものを持っているように見えた。
「答えられないでしょう? そう、貴方はいつもそう。貴方なんて、大嫌い。全部取り返しがつかなくなった後で、どうして帰ってきたりするのよ! これ以上、私たちを脅かさないで!」
 そう、それはラビットに対する、確かな「恐怖」と「恨み」。
 だから、覚悟を決めるしかなかった。
 ラビットは、慣れた様子で机の引き出しについたボタンを決まった順番に押した。鍵が外れるかちりという音と共に、引き出しがするりと開く。
 そこにあったのは、一丁の、銃。
 現在普及している熱線銃ではなく、鉛の弾丸を放つ回転式弾倉を持つ重たい骨董銃がそこにあった。
 ラビットは、少しだけ躊躇った後、銃を手に取った。弾倉を見れば、きちんと六発、銃弾は込められていた。机の中で数年放置されていたものだから、それがきちんと銃としての役割を果たすかは怪しいものだが。
 それでも、構わなかった。
「貴女がそう望むのならば……今すぐ、私を殺してくれ」
 緩慢な動作で、セシリアの小さな手に銃を載せる。
 セシリアは目を見開いて、ラビットを見た。
 ラビットも、今度こそ目を逸らさなかった。
 しばらくの沈黙の後、セシリアの腕が上がる。その手にしっかりと銃を握り締め、人差し指が引き金にかかったまま。銃口が、ラビットの額に向けられる。どんなにセシリアが細腕でこの銃を扱うには非力だとしても、この距離からならばまず外さないだろう。
 多分、これでよいのだとラビットは思う。やけに静かな気分で。
 一つ、心残りがあるとすればトワのことだが、もうすぐ、トワは自分が求めていた答えを見つけるだろうという奇妙な確信があった。その時には全てが手遅れになっているのだろうが、それでも構わないと思った。
 この瞬間だけは。
 しん、と。
 沈黙だけが、部屋を支配する。
 ラビットは、ただ、その時を待った。
 セシリアの指に、力が入り……次の瞬間、銃を、床の上に放り出した。ラビットが驚きに目を見開くと、セシリアは叫んだ。
「馬鹿! それが、逃げだって言ってるのよ!」
「セシリア……」
「貴方を殺したって何も変わらない……死んで許されようなんて思わないで! 死んだら何も残らない! 姉さんのように!」
 どくん、と。
 身体中の血が逆流するような嫌な感触と共に、ラビットの脳裏に、白の原野の光景が浮かぶ。何も残らない。あの、場所のように。
 あの場所で死んだ、一人の女のように。
 その女とよく似た顔をしたセシリアは、目に涙を溜めながらまくし立てる。
「貴方が帰ってきたのに、何で殺さなきゃいけないのよ! わかってない、何でわかってくれないの?」
――――この女は、何を言っている?
「確かに、貴方のことは恨んでる。殺したいとも思う。でも」
――――何故、泣いている?
「生きていてくれてよかったって思っているのも、本当なの……!」
 そのまま、セシリアはラビットに背を向けて、駆け出すように部屋を出て行った。一人残されたラビットは、何故か無意識にあげていた手を力なく下ろした。
 セシリアを呼び止めようとしていたのか。
 それとも。
 わからない。
 わからない。
 わかるはずが、ない。

『生きていてくれてよかった』

 セシリアの言葉が嘘ではないことくらい、「わかる」。
 だから、わからないのだ。
 自分が逃げようとしたのは理解できる。セシリアに恨まれる理由だって十分すぎるほどある。しかし、何故、セシリアはそんなことを言ったのか。彼女に殺されて当然の、自分に向かって。
 ぐっと、握り締めた拳に爪が食い込む。痛みは遠く、ほとんど感じないほどで。
 ただ、胸が張り裂けそうで。
 息を吸い、ラビットは、乾いた喉が悲鳴を上げるのにも構わず声の限りに叫んだ。

「……どうしろって、いうんだよおぉぉっ!」

 床の上に投げ出された骨董銃が、ランプの光に照らされて淡く、輝いているように見えた。