夜中。
再び深い眠りについたラビットの寝顔を見つめていたトワは、静かに立ち上がって部屋を出た。ラビットの具合は随分良くなっていて、見守っていなくとも心配はないと判断できたからである。
部屋を出て、セシリアがトワのためにと貸してくれた部屋へ足を向けようとする。しかし、その時リビングの明かりが灯っているのに気づいた。
誰が起きているのだろう。
トワは眠い目をこすりながらリビングへと向かう。廊下は冷たく、腕で自分の体を抱きながら。
リビングの扉は細く開いていて、トワはその隙間からその中を覗き見ようとしたが……
「……起きてたのか」
リビングの中から、声がした。穏やかな、声。それがレイ・セプターの声だと気づくには、そう時間はかからなかった。ゆっくりと扉を開けてみると、セプターはソファに深く腰掛け、若葉の色をした瞳を細めてトワを見ていた。
トワは少しだけ躊躇ってから、リビングの中に足を踏み入れた。
「アイツは、大丈夫なのか?」
「うん、今は平気みたい」
「そっか、よかったな」
セプターは屈託のない笑顔を浮かべた。それは、トワがこの方一度も見たことのない表情だった。いや、それ以前にここにいるセプターは、旅の中で見てきた追手としての彼では考えられないほど、穏やかな表情をしていた。
「座るか?」
「うん」
だからだろう、トワもほんの少しの恐怖心こそ残ってはいたが、大人しくセプターの横に腰掛けた。
セプターはワインの入ったグラスを手に、窓の外に目をやった。今夜はよく晴れていて、紺色に染め上げられた空に満天の星が浮かんでいた。
トワは何を言っていいのかわからず、そんなセプターを見上げていることしかできなかった。こんなに近くでセプターを見たのも初めてだと思いながら。セプターは大体ラビットと同じくらいか、それより少し低いくらいの背丈だと気づいた。
セプターも、やはりトワに何を言っていいのか迷っていたのだろう。星空を見上げたまま思いにふけっているように見えたが、唐突に話を切り出した。
「シリウスから聞いたよ」
「え?」
「君が地球に来た理由。ここで……クレスを、探してたんだな」
トワはどきりとして、胸に手を当てる。セプターはトワに目を戻して、柔和な、しかしほんの少し陰のある微笑を浮かべた。
「見つかったのか?」
「……わからない。まだ、わたしには」
もう少しで、きっと『白の二番』に手が届く。この場所に来て、求めていた答えが手に入る。
それはわかっていても、手を伸ばしていいのかわからない。それが、本当に正しいことなのかが今のトワにはわからずにいた。
セプターはそんなトワの戸惑いをどう捉えたのか、軽く息をついてぽん、とトワの頭の上に左手を載せた。
「俺は、ずっとクレスが死んだと思っていたんだ」
トワを見ていながら、その目の奥はずっと遠くを見ているようで。トワはそんな目に吸い込まれるような錯覚に陥った。
「 『白の二番』、クレセントが俺の相棒だったって話は、もう知ってるか」
「……うん」
「ここには、昔俺たち以外に、セシリアの姉ミューズと、クレスが一緒に住んでたんだ。クレスとミューズは結婚したばかりでさ……や、ミューズをクレスに紹介したのは俺なんだけど。四人で、何だかんだ言っても楽しくやってたと思う」
一つ一つ、確かめながら昔の記憶を呼び覚ましていくセプター。
「でも、あの事件の前日に、ちょっとクレスと喧嘩してさ。あの事件の日はミューズのコンサートだったんだけど、俺とセシリアは初めてコンサートに顔を出さなかった」
言って、セプターは長く、息をついた。
そういえば、『白の原野』でミューズはクレセントに何を言っていただろう。セプターと喧嘩したというクレセントをたしなめていたような気がする。
「そしたら、あの事件だ。何が何だかわからないうちに全部なくなっちまって、クレスも、ミューズも」
ぎり、と。
セプターは作り物の右手を握り締めた。これも、トワが今まで見てきた禍々しい兵器の腕ではなく、傍目から見る限りでは普通の人間のそれと変化ないように見える、精巧な作り物。
やり場のない思いが、トワにもはっきりと感じられた。突然、側にあったものが奪われた空虚感。そんな姿を見ていると、『白の原野』で垣間見た『消滅事件』の真実をセプターに伝えていいものかどうか、一瞬迷ったが、全てを伝えることはトワにできるはずもなかった。
「だけどさ」
ふと、セプターの表情が緩む。
「……クレスが生きてるってのは本当なんだろ?」
トワは、少し考えてから小さく頷いた。それを見て、セプターはまた穏やかな微笑を戻して言った。
「なら、一度でいいから、きちんと話をしたいなって思ってるんだ」
「何を?」
「さあ、その時になんないとわかんねえな」
セプターは笑う。無邪気な子供を思わせる笑顔に、トワもつられて口元が緩む。もはや、トワが当初セプターに感じていた恐怖心すらも完全に消えていた。
不思議な人だ、と思う。
その一挙一動が目を奪う。一緒にいるだけで心が安らぐ。セプターは、トワにとって不思議な魅力を兼ね備えた存在だった。
いや、誰もがセプターに対してそういう印象を抱くのだという確信があった。
だから、トワも素直に言葉を口にした。
「聞いても、いい?」
「何を」
「クレセントの、こと」
セプターは「ああ」と言ってワインを一口、口に含む。そして、グラスをテーブルの上に置いて改めてトワを見た。
「アイツとは、蘭……聖の姉ちゃんと同じで、軍事学校からの付き合いになる。すげえ頭はいいし、腕のいい魔法士だってのに、当時の評判はとんでもなく悪い上、本人も恐ろしいくらいの人間嫌いだった。アイツが精神感応に特化した無限色彩保持者だって知ったのは軍に入ってからだけど」
「どうして、セプターさんはクレセントと仲良くなったの?」
「レイでいいよ。……まあ、クレスとは仲良くなったっていうかな。俺が無理やり懐いてたってのが正しいかも。どうも、俺はアイツが嫌いになれなくてさ。実際、アイツだって少しずつ丸くなってたし、元々悪い奴じゃねえんだ」
当時を思い出したのか、ほんの少し笑みをこぼすセプター。だが、それはすぐに浮かんだ陰に沈んでしまう。
「いろいろね、事情があるんだ、アイツには。ガキのころ、アイツは無限色彩で親御さんを殺しちまったそうだ」
「え……」
「俺も詳しいことは知らない。クレス本人も記憶がないらしいしな。だから、研究体として軍の研究所に送られそうになってたところで、シリウスに引き取られたって話を聞いたことがある。えーっと、シリウスはわかるよな」
「ヴァルキリーさんだよね」
「そう。大体そこらへんはシリウスから聞いたんだけどな。俺は今でもあんまりピンときてないけど。ただ、クレスが自分の能力を恐れて、自分が他の連中を傷つけないか、っていつも悩んでたのは今になって何となく、わかる。
軍に入ってからは、クレスも適当に上手く折り合いつけながらやってたように見えたけどな。俺はクレスと組んでいろんなところに飛んでて、その時は何だかんだで楽しかった。
ただ、そんな時に、悪い任務を受けちまった」
セプターの陰が、深まる。
「任務は、帝国が連邦内部に作った研究所の殲滅作戦。今では『シュリーカー・ラボの悲劇』って呼ばれてる。詳しいことは言えないんだが、とんでもない戦場でさ。何人も、味方がいかれちまった。その中で、クレスも」
知っている。
その話は、トワも、知っている。
同じ話を、聞いているのだ。一度目は、ラビットから。二度目は、夢の中に浮かぶ『白の二番』から。
無垢な子供たちに特殊能力を植え付けるという狂気の実験施設。殺戮兵器と化した子供たちとの不毛な戦闘。
「クレスの能力が、精神感応だってわかってんのにな。上の連中が何を考えてるのかわかんなかったし、俺も気づいてやれなかった。狂った戦場に、クレスが耐えられるはずがねえって」
そして、満たされた狂気と生死の狭間で精神を侵されて。
「クレスは、ただ、逃げ出したかっただけだと思う。逃げられなくて、どうしようもなくて、何も見えなくなって、自分の持っている限りの力を使って目の前にあるものを壊そうとした……俺でも、止められなかった。これは、そん時にクレスにやられちまったんだけどさ」
言って、セプターは機械仕掛けの右腕を上げてみせる。今度こそ、トワの中で全てがはっきりとつながったのがわかった。
ラビットと『白の二番』が語っていたのも、この、クレセントとセプターをめぐる物語なのだ。
「レイは、クレセントを、恨んでないの?」
「恨む? 何でさ」
トワの問いに、セプターは大げさに目を丸くしてみせた。
「アイツは必死だったんだ。そりゃあ俺だって痛かったけどさ、あれだけひどいことになって、それでもアイツは正気に戻れたんだから良かったと思うよ。恨むもんか」
『男は、相棒に向かって「良かった」と言って泣いた』
ラビットの言葉が、脳裏によみがえる。
セプターは、ただ、クレセントのことを考えていた。
けれども、クレセントは。
「そう、クレスはその後奇跡的に正気に戻れたんだけどさ、すぐに病院送りになって……俺も、何度か会いにいったんだけどどうも相手にしてもらえなかったんだよなあ。一度は、『もう来るな』ってまで言われたっけ。何でアイツがそんなこと言うのかよくわかんなかったんだけどさ」
セプターを、頑なに拒むクレセント。
その理由は、セプターを傷つけた罪悪感に悩まされるクレセントと、ただただクレセントの無事を喜ぶセプターの間に生まれた一点の格差。クレセントの閉ざされた心が、セプターの喜びを受け止めようとしなかったのだと。
そう言っていたのは、ラビットだったと思う。
「だから、気分転換にって思って、その頃仲良くなってたミューズとセシリアのコンサートのチケットを渡したんだ。アイツ、昔から音楽は好きだったからさ。そしたらクレスも結構喜んでくれたもんだから、俺、二人にクレスを会わせたんだよ。
それで、ミューズとクレスが仲良くなって、果てに結婚しちゃってさ。後はさっき話したとおり」
幸せは長くは続かずに。
聖夜のコンサート、未来を視ていたミューズはクレセントを庇って凶弾に倒れ、クレセントはミューズを失った悲しみにまかせて力を解き放つ。
しかし、それは、セプターの知らない物語。
「そう、だったんだ」
トワがぽつりと言うと、セプターはもう一度トワの頭に手を載せて、いとおしげに青銀の髪をなでた。
「俺がアイツについて知ってるのはこのくらい」
「……レイは」
「ん?」
「レイは、クレセントのことが、大好きだったんだね」
トワの言葉に、セプターは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにそれを崩した。
「そうだな。うん、好きなんだろうな。考えたこともなかったけど」
「考えてなかったの?」
「クレスがそこにいるのが、当たり前だったからな。腐れ縁ってやつだけど、いなくなるとやっぱり寂しかったし」
そういう感情は、トワには良くわからない。
ずっと、まるで身体の一部のように、側にいてくれる存在。そんなものをトワが知るはずもなく。それでも、セプターの言うことは何となく理解できた。
「さ、そろそろ寝た方がいいだろ。アイツの看病で、寝てないんだろ」
「うん」
トワは立ち上がって、「ありがとう」と一礼してその場を立ち去ろうとしたが、その背にセプターが呼びかける。
「なあ、嬢ちゃん」
「何?」
トワが振り向くと、セプターは今までにない複雑な表情でトワを見ていた。何だろう、と思っていると、暗い声でセプターが言う。
「あの、白兎のことだけどさ」
「ラビットが、どうしたの?」
空中で、視線が交差して、そのままお互い凍ったように動かなくなる。
先に視線を逸らしたのは、セプターの方だった。
「や、何でもない。お休み」
「うん。お休みなさい」
トワはセプターを残しリビングを出た。
暗い廊下が、やけに長く感じられた。
Planet-BLUE