もう、日は暮れ始めていた。白い空も、この時間だけは西の空がおぼろげに赤く染まる。
聖はセシリアから言われたものを買ってきて、町外れの家に帰ってきた。わざわざ自分から買い物に出て行ったのは、セシリアの家に邪魔している身というのもあったが、それ以上にラビットを見ていたくなかったからだ。
少々乱暴にドアを閉め、続く廊下を見つめて目を伏せる。
もう、限界だ。
聖は思う。
全てとは言わなくともラビットのこと……彼の過去を知っている聖からすれば、現在のラビットの様子は目を背けたくもなるような状況だった。
あの高熱も、正確なことは言いがたいが、理由がわからないわけではない。
必死に、否定しようとしている。身体も、心も。自分が見た、自分が起こした、全てのことから逃げようとしている。
「みっともねえよ……」
言いながらも、そんなラビットの存在を否定しきれない自分に気付く。誰だってそういうことを思わないわけではない。暗く、闇に包まれた過去を否定したいと思う感情は、誰だって同じ。
ラビットの場合は、その存在が大きすぎる。
そして、後に退けなくなっている。
それだけなのだから。
聖が台所を覗き込むと、セシリアはいなかった。夕食の準備は出来ていることから、おそらく、ラビットが寝ている部屋に夕食を運んでいるのだろう。荷物を置いて、自分もラビットの部屋に向かいながら、思考を続ける。
だが、それならば、トワはどうすればいい。
これ以上、今のラビットがトワを守り続けていくのは難しい。今ラビットが戦っている相手は、トワを追っている軍ではなく、不毛にも自分自身だ。勝ち目のない戦いは、自分を蝕むばかりだと気づいていながら。
聖は、トワのことは何も知らない。
とてつもなく大きな力を持った存在ということしか。
しかし、それ以前に一人の、小さな少女だ。どれだけ強大な力を持っていても、常に心の底で怯えている。孤独を恐れ、自分を支えてくれる人間を必要としている。
トワにとって、自分を支えているラビットが全てなのだ。
ならば、トワがラビットを喪失したらどうなる?
ラビットが、心の闇に堕ちて戻ってこなかったとしたら、トワは……
「くそっ」
――――何してんだ、おっさん!
苛立ちだけがつのる。想像できるのは、最悪の結果だけ。そう、ラビットが今のままであれば。この一連の事件の全てを知っているわけではない聖でも、そのくらいははっきりとわかる。
今も、そこまで軍の手が伸びているというのに、ラビットにトワを守れるのか。
ラビットの部屋の前で、聖は足を止める。少しだけ開いたドアの向こうからは、静かな話し声が聞こえてくる。その声にラビットの声が混ざっていることに気づき、慌ててドアを開けた。
嫌な、冷たい感覚が聖を包む。
ラビットを運び込んだ時にも思った、ひどく殺風景な部屋。必要最低限のもの……いや、聖から見ればそれすらも十分に存在していない。
セシリアは言っていた。ここは、昔この家に住んでいた一人の男の部屋だったと。そして、その当時のまま部屋をずっと残してあるのだと。一体、どんな人間がこんな部屋で暮らしていたのか。それを考えるだけでぞっとする。
机の上に置かれた花を模ったアンティークのランプが、一つだけ殺風景な部屋の中で遺物として浮かび上がっている。たった一つのランプが、悲しい不協和音を奏でているような錯覚に陥る。
しかし、聖が寒気を感じていたのは、それだけが理由ではない。
「……聖」
ベッドの上で身体を起こすラビットが、こちらの気配に気づいたのだろう、聖の名を呼んだ。セシリアも、それにつられてこちらを見る。
変だ。
聖は、思わず一歩下がった。
この二人の間でどんな会話が交わされていたかなど、聖にわかるはずもないし、きっと取り留めのないものだったのだろう。なのに、何故、
これほど、息苦しいのか。
「おっさん、目覚めたのか。大丈夫なのか?」
聖は内心の動揺を隠しながら、改めて部屋の中に足を踏み入れ、ラビットのベッドの横に移動する。ラビットは、小さく頷いた。その時、ベッドの横に座り込んでいたトワが立ち上がって、聖に向き直る。
「聖、行こう」
「え?」
「セシリアさん、ラビットに話があるの。だから、外で待ってよう」
驚いて聖はセシリアを見た。セシリアも、トワがそう言うことは予測していなかったらしく、目を丸くしてトワを見つめていた。ラビットだけが、表情を変えずにトワの声に耳を傾けていた。
何が何だかわからないまま、聖はトワの声に後押しされて部屋を出てしまった。すぐ後ろについてきたトワが後ろ手に扉を閉じた音で、聖は我に返った。
「……どうしたんだ?」
トワは、ドアを背にして俯いていた。長く伸ばした銀色の髪が、肩の上で揺れていた。
「聖」
ぽつりと放たれた声に、感情は感じられなかった。
「わたし、わからないの」
「何が」
「ラビットが苦しんでるのに、何もしてあげられない。ラビットが、どうして苦しいのかわからないの」
胸元で握り締めた手がやけに小さいことに、聖は初めて気づいた。
「セシリアさんは、ラビットがどうして苦しいのかわかるのかな。セシリアさん、ラビットのこと、悲しい目で見てた」
聖は、トワに全てを話してしまいたい衝動に駆られた。
自分の知っているラビットのこと。過去。その全てをぶちまけてしまいたい。
きっと許されないことだ。何より、ラビットがそれを望んでいない。ラビットは、聖に理解できない感情とはいえ、それを隠し通すことを望んでいる。最低でも、トワに知られるわけにはいかないと思っている。
――――わかってねえよ、おっさん。
聖は、ラビットがいつもそうしているようにトワの頭にぽんと手を載せて、小さなその身体を見つめる。
――――何もわかってねえ。この子まで不安にさせて、悲しませて、結局、アンタが一番わがままなんじゃねえか……
「聖?」
トワが、顔を上げた。青い大きな瞳が、鏡のように聖の影を写している。
聖ははっとしてトワの頭から手を離した。それから、気まずそうにトワを見て、苦笑する。不思議そうに、トワは首を傾げて問う。
「どうしたの?」
「いや、何でもねえよ。それより」
聖が何とかトワの気を逸らそうとしているとき、玄関の方でドアが開き、閉じる音がした。二人ははっとして廊下の先……玄関を見る。
そこには、見覚えのある人影があった。
「……『青』?」
二人を凝視し、呆然としてその場に立ち尽くしていたのは。
かつてトワを追っていた、連邦政府軍大尉レイ・セプターだった。
トワはパニックを起こしてとっさに逃げようとするが、「どこに逃げようってんだよ」と聖が何とか引きとめた。そして、聖は混乱しているらしいセプターに向かって言った。
「レイ兄、久しぶりだな」
トワはそれを聞いて、抵抗をやめて聖を見上げた。セプターは、状況が理解できない状態を少しでも落ち着かせようと片手で頭を押さえながら、眉を寄せて口を開く。
「何してるんだ、聖……こんな所で」
「ちょっといろいろあってな。今、おっさんを預かってもらってんだ」
「白兎、を?」
「何だか熱出してぶっ倒れてさ。そこで偶然セシリアさんに助けてもらったってわけ。それで今のところ数日間お邪魔してるわけなんだが」
その時、トワが聖の服の裾を引っ張った。聖がトワを見ると、トワは首を傾げて不安そうに聖を見上げていた。
「……友達?」
唐突な質問に、そういえば自分がレイ・セプターと知り合いであることはトワには伝わっていなかったと気付く。自分がトワの事を知らないのと同じように、トワとて聖の背景を理解しているわけではないのだ。
「俺の友達ってより、俺の姉貴の友達。今までドタバタしてたからこうやってまともに喋るのは久しぶりだけどさ」
言って、聖は再び目をセプターに戻す。
セプターは、何かを探るようにじっと聖とトワを見つめていた。澄んだ緑の瞳は、何もかもを暴き出すような輝きを秘めていて、聖はぞっとする。
『気づいている』のか?
聖の脳裏に響く声は、最悪の事態を示唆している。それを振り払うように聖は軽く首を横に振る。
「聖、わかっているのか?」
諭すような声で、セプターは言葉を紡ぐ。
「何が目的で白兎とその子に同行しているのかは俺も知らない。美術館で見たときに、すでに警告しておくべきだったな。お前は自分が今何をしているのか、わかって……」
「それはもう耳タコだ。姉貴にも言われたし、向こうでダウンしてるおっさんにだって言われてる。今更だろ」
聖は肩を竦めて、おどけた声で返す。それを聞いたセプターが、深く溜息をついた。
トワは、聖の背後からセプターを伺い見ていたが、段々と不安感は薄れているようだった。今までならばすぐに自分を捕まえようとしてきた男が、今目の前で呆れた表情を浮かべているのを見て、自分がセプターの意識の中にないことに気づいたのだろう。
それに、セプターが軍服を着ていない姿を見るのは初めてで、物珍しいという意識もトワの中に少なからずあるように思えた。
諦めたように首を振って、セプターは聖に問いかける。
「どちらにしろ、詳しく話を聞かないと始まらないな。セシリアは?」
聖は、無言でラビットが寝ている部屋を指した。その瞬間、セプターの表情があからさまに曇ったが、すぐに気を取り直して部屋に向かう。聖とトワは、その背を追った。追いながら、トワは小声で聖に問う。
「どうして、あの人がここにいるの?」
「ああ、そっか、知らないよな」
――――普通、知っているはずがない。おっさんならともかく。
聖は苦い表情を浮かべながら、やはり小声で言う。
「レイ兄は、セシリアさんの恋人だ。もう付き合って六年くらいになるか。結婚はしてないが、ほとんど夫婦みたいなもん」
「え……」
「だから、実質的にここはレイ兄の家でもある」
『アレス部隊』に入ってから、正確にはセシリアの姉とその夫が死んでから、ほとんどこの家に帰ることもなくなったと聞いたが。やはり、『青』奪還から外されて長期の休暇に入っているという噂は本当だったのか。
そう考えながらも、聖はセプターの大きな背を見つめていた。
セプターはゆっくりと部屋の扉を開く。セシリアはすぐにそれに気づいて、声を上げる。
「レイ!」
「ただいま」
セシリアは、立ち上がって歩み寄ってきたセプターの胸に体を埋めた。上目遣いにセプターの顔を見上げて微笑む。
その微笑みは、何故かどこかぎこちないものだと聖には思えたけれど。
「……おかえりなさい」
重いカーテンが引かれ、ランプの明かりだけが灯る暗い部屋に、セシリアの声は静かに響いた。セプターはセシリアの背に腕をかけ、暖かな微笑みを浮かべた。
「変わりなかったか」
「ええ。でも」
寂しかった、と。
セシリアは掠れた声で呟いた。
悪かった、と言いながら軽くセシリアの頬にキスをして、それからセプターはセシリアから身体を離し、改めてベッドの上……そこに座るラビットに目を向けた。ラビットは虚ろに、セプターがいる方向を見ていた。実際には、そのシルエットもラビットの目には映っていないだろうが。
セプターも、無言でラビットを見る。
奇妙な沈黙が流れる。
先ほどの冷たい空気が蘇ったような気分になり、自然と身体が硬くなるのがわかった。セシリアさえも、神妙な表情で二人を見ていた。
やがて、セプターが口を開いた。
「驚かないんだな」
穏やかな、声。
それが、どういう意味で放たれた言葉なのか。聖には全くわからなかった。自分がここにいることなのか。『青』を目の前にして何もしないことなのか。それとも。
答えは幾通りも考えられるはずだというのに、ラビットは目を細め、存外はっきりした声で答えた。
「驚く理由が何処にあると?」
その答えは、セプターも予想していなかったのだろう。一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それから、笑った。
「変なことを言ったな。すまん」
笑顔のセプターに対し、ラビットは決して表情を崩そうとはしなかった。
「別に、構わない。ただ、一つだけ頼みがある」
淡々とした言葉が、セシリアの声以上にはっきりと部屋の中に響き渡る。それは、まるでこの空虚な部屋をそのまま音で表現したような、乾いた声。
「貴方がいくら休暇中とはいえ、現在の最重要捕縛対象である彼女が目の前にいるとなれば、報告は必須だろう……だから、彼女がこの家にいる間だけは、見逃してもらえないか」
「ラビット……」
トワの小さな呟きが、霧散する。
「虫のいい頼みだということはわかっている。貴方がこの頼みを受ける理由はない。それでも、貴方に頼みたい」
その声に感情は感じられないというのに、痛切なまでに響き渡る言葉。セプターはしばらく目を閉じてその言葉の意味を吟味しているように見えたが、少しの間をおいて、唇を動かした。
「……考える時間をくれ。ただ、その間までは、上には黙っていることを約束しよう」
ラビットとセプターの会話を不安げに聞いていたセシリアが、暗い瞳でセプターを見る。
「レイ、それで大丈夫なの?」
「軍規違反はしょっちゅうだからな。このくらいならバレないだろ。それに」
セプターは、真っ直ぐにラビットを見据えた。
「アンタにも、話があるから丁度良かった」
その時、ラビットの呼吸が乱れたのに気づいたのは、聖だけだったのか。
「そうか」
ラビットの口から放たれた落ち着いた声は、しかし、聖にはやけに浮ついたものに聞こえた。
Planet-BLUE