意識が覚醒する。
花の形をしたアンティークのランプが暗い部屋をうすぼんやりと照らし上げる。軽く頭を振ってベッドの上を見ると、ラビットがトワが眠る前に見た姿のまま眠り続けていた。掛け布団から突き出した左手は、何かを握り締めているようにも見えた。
「ラビット……」
先ほどの夢は、何だったのか。
単なる、この部屋に残された記憶なのか。それとも。
トワがその先まで思考しようとしたその時、ラビットが薄く目を開いた。トワは驚きラビットの顔を覗きこむ。
「大丈夫?」
ラビットはまだ熱に浮かされているようにも見えたが、そこにトワがいることはきちんと認識しているらしく二、三回瞬きしてから乾いた唇から声を漏らす。
「トワ、私は……?」
赤い瞳は、元々ほぼ見えていないのに加え、まだ意識がはっきりしていないこともあり酷く虚ろに見えた。
「あの場所で倒れたの。酷い熱でね、偶然会ったセシリアさんっていう人に助けてもらったの。それで、ここはセシリアさんの家なの」
トワも上手く今の状況を説明しようとするが、自分でも状況が上手く把握できていない。それに、先ほどの夢が頭から離れないからだろう。どうにも要領を得ない言葉しか出てこない。
ラビットは何とかトワの言葉を理解しようとしているようだった。しばらく黙って何かを考えていたが、やがて小さな声で呟いた。
「セシリア?」
「そう。セシリア・トーンさん。ラビットも知ってるよね、歌歌いのお姉さんなの」
「……ああ」
ラビットは確かに返事をしながらも、全く別のことを考えているように見えた。トワは不安になって言う。
「まだ寝てた方がいいよ。熱、下がってないもの」
「いや、大丈夫だ。それより、迷惑をかけてすまなかったな」
そう、いつもそうやって、誰かのことばかり気にかける。
いつもそうだ。
トワは胸に手を当てて、言った。
「そんなことないよ。わたしも、たくさんラビットに迷惑かけてる。なのに、ラビットは何も言わない。わたし、ラビットに何も出来ないかもしれないけど、苦しかったり辛かったりするの、黙っているのはきっともっと辛いと思う」
「トワ?」
「わたし、ラビットの心はわからないけど、ラビットが辛いんだってことだけならわかるよ。だから、無理しないで。わたしも、ラビットも、話したくないことはあると思うけど、話せば楽になることもいっぱいあると思うの」
一気に言い切ってから、トワはラビットをじっと見つめた。
別にラビットに何を求めているわけでもない。ただ、伝えておきたかったのだ。苦しむラビットを見ているだけなのは、あまりにも辛すぎるから。いくら拙くても、言葉にしなければ届かないのだから。
ラビットは何かを考えるように目を伏せ、それから言った。
「すまない。それほど辛そうに見えたか」
「うん」
何故謝られなくてはならないのかと思いつつ、トワはこくりと頷いた。
「……そうか。それは悪かった。だが、もう」
大丈夫だ、と言いたかったのか。しかし、その言葉は最後まで放たれることなく、ラビットは左手で頭を押さえた。苦痛からくる呻き声がその唇から漏れる。
「ラビット、苦しいの?」
トワの声は聞こえているのかいないのか。ラビットは首を横に振る。トワは慌てたが何をしていいのかわからず、咄嗟に額を押さえているラビットの左手を握った。
瞬間。
何かが、トワを貫く。そんな錯覚に襲われる。
トワははっとしてラビットの手を放してしまう。ラビットの手から青いビー玉が零れ、床に落ちる乾いた音が部屋の中に響き渡った。
手を握った一瞬だけ、トワの中に映し出されたのは、ラビットの思考。
ラビットの視点は、二人の後姿を見つめていた。決してこちらを振り返ることはない、長身の男とオリーブ色の髪をした女。二人を待つのは、温かく穏やかな町の風景。だが、ラビットは雪の降る白い原野に一人立ち尽くしていて……
ラビットの苦しげな息遣いが、トワを強制的に現実に引き戻す。転がったビー玉がトワの足に当たる。
そういえば、ラビットの思考を「見た」のは、初めてだと気づく。
人の心を読むことはどんな能力者でもタブーとされている。トワも普段は意識して感応能力を抑えようとしている。ただ、ある拍子で偶然人の心の中が「見えて」しまうことはよくあることだ。事実、同行者である聖やマーチ・ヘアの思考には何度か共鳴してしまったこともある。
ならば、何故ラビットの心が見えたことはなかったのだろう。これほどまで近くにいながら、ラビットの思考は常に白い霧がかかったかのように見通しが利かない。
まるで、自ら意図的にトワの能力を遮断しているかのような拒絶の意志。
考えながらも、トワは首を横に振って「そんなことはありえない」と思う。
意識していなくともトワは無限色彩の『青』である。人の身に余る力を多彩に展開する無限色彩の中でも最強といわれる存在。その力を遮断するほどの力が超能力者かどうかも定かではないラビットにあるとは思えない。
そんな能力を持っている人間がいるとすれば。
トワはラビットから足に当たったビー玉に目を向けて……思考が否応なく停止する。
頭に一瞬よぎった可能性。普段ならば何て幼稚な考え方なんだろうと苦笑してしまうような思考だというのに、何故。
完全に否定することができないのか。
「……嘘、だよね、ラビット」
ラビットは痛みの波が去って少し楽になったのか、頭を押さえたままではあったが薄く目を開いてトワを見た。
「何が、だ?」
「あ、ううん、何でもない」
何でもない、ともう一度繰り返しながら、トワは足元に落ちたビー玉を拾ってラビットに返す。ラビットはのろのろとビー玉を受け取りながら言う。
「私は長い間、夢を、見ていたんだ」
「夢?」
「覚めなければいいと思う、そんな幸福な夢だ。そんなこと、望むことも許されてはいないというのに、私はいつもいつも、繰り返し同じ夢を見ている」
そう言っているラビット自身、まだ夢の中にあるかのような口調だった。トワはベッドの横に膝をつき、ラビットの今にも消え入りそうな言葉を何とか拾い上げようとする。
「トワ、貴女はそこにいるのか?」
「え……?」
「何処までが夢で、何処からが現実なのか。わからない。わからないんだ。私が夢なのか、それとも私が見ているもの全てが夢なのか」
ラビットは左手を強く握り締める。手の中の、ビー玉の感触を確かめるように。
トワが何も言えずにただ呆然としていると、ラビットは少しだけ語調を弱めて、ぽつりと呟いた。
「……変な事を言ったな。忘れてくれ」
忘れられるはずもない。
トワは、初めてラビットの真意を垣間見た気がしたのだ。「貴女はそこにいるのか」……その言葉は、ラビットが常に抱いていた不安をはっきりと描き出していた。今まで決して表に出すことはなかった不安と焦燥を、ここに来て初めてトワの前にさらけ出したのだ。
ラビットの言葉が何を意味しているのかはわからない。それもまた夢の中の出来事のように散漫で一つのまとまった意味を成しているようには思えないが、ラビットが何かを訴えかけようとしていることだけはわかった。
「怖いの?」
トワは、問う。ラビットは、一瞬迷った後に、静かに答えた。
「そうかもな。情けないと思う。貴女を守ると言った私が、ここまで弱くては」
守る、という言葉は、ラビットにとってどういう意味を持っているのか。
トワは、その言葉を聞くたびに何故か胸が締め付けられるような息苦しさを覚える。そんなトワに気付いているのかいないのか、ラビットは自嘲気味に口端を歪め、言葉を紡ぐ。
「所詮、私は」
淡々と放たれた言葉は。
「ただの、臆病な」
『ただの、臆病な』
その先は、トワには聞こえなかった。
一瞬ラビットの声がトワの記憶の中にある「もう一つの声」と共鳴して、意識が一気に遠ざかるような感覚。
トワの脳裏に描き出されるは、かつて夢の中で見た白い空に青い海。その上に立つ……
「嘘」
「……?」
「違うよね、ラビット。違うって、言って」
「何が、だ?」
突然トワが混乱する意味がわからず、ラビットは首を傾げる。トワは再びラビットの左手をとり、今にも泣き出しそうな表情で訴えかける。
「ラビットが」
しかし、その先を言う前に、部屋の扉がノックされて「入るわよ」という声と共に開く。ラビットとトワが同時にそちらを向くと、料理を載せたトレイを片手に持ったセシリアが不思議な表情で二人を見つめていた。
Planet-BLUE