いつの間に眠っていたのだろう。
トワは思って薄く目を開ける。
ラビットの看病を続けていたはずが、途中で寝てしまったらしい。早く起きなければ。
そう思いながら、身体を起こして……目を見開いた。
一瞬、自分が何処にいるのかわからなかった。確かに部屋は先ほどラビットの看病をしていたあの殺風景な部屋だ。しかしベッドにラビットの姿は無く、薄くつけていたはずの明かりも消えていた。
いや、テーブルの上に置かれていたはずのランプ自体が存在していなかった。
そういえば、身体がふわふわと浮かんでいるような不思議な気分だ。初めは寝起きだからかと思ったが、考えれば考えるほど、何かが絶対的に狂っている気がする。
部屋はほぼ真っ暗で、今、何時なのかもわからない。
トワは確かめようと思って扉の方に目をやると、ちょうど扉が薄く開き、誰かの声が聞こえてきた。
「……のか?」
男の声。
懐かしい、しかし聞き覚えのあるそれとは少し違う響きも混ざった、不思議な声。
トワがじっとそちらを見ていると、扉を開いて誰かがこちらに背を向けて立っているのが見えた。逆光で輪郭しか捉えられなかったが、背の高さや肩の広さを見てトワは影が何者なのかをはっきりと悟った。
「クレセント……?」
そう。それは確かにクレセント・クライウルフの影。クレセントは大きな鞄を手に提げ、部屋の外に居る誰かに向かって話しかけているようだった。
「本当にいいのか、この部屋を借りても」
「構わないわよ。遠慮しないで」
クレセントの影になって見えないが、向こうに居るのはあのピアニスト、ミューズ・トーンだろうか。
「辛気臭い病室よりは随分マシだと思うけど」
病室?
トワは何となく会話の流れが掴めず首を傾げる。まず考えるべき、「何故ここにクレセントとミューズがいるのか」という疑問は頭の片隅にも浮かばなかった。
「ああ。すまない、ミューズ」
「何で謝るの。それ、クレスの悪い癖だと思うな。別に私がそうしたいからしてるだけ。クレスは何も悪くないんだから」
「……ああ」
クレセントの声には、言葉とは裏腹に感情というものが一切含まれていなかった。淡々としすぎていて、人間らしさが感じられない。
「それじゃあ、適当に時間潰してて。私、夕飯作ってくるから。あ、電気つける?」
「いや、構わない」
「そう? それじゃあ待っててね」
ミューズの声はそれきり途絶え、足音が部屋の前から遠ざかるのがわかった。クレセントは静かに扉を閉め、部屋の中に荷物を放り出す。部屋は闇に包まれているため、トワがクレセントの表情を確かめることは出来ない。
ベッドに寄りかかっているトワの方に、クレセントは一歩一歩近づいてくる。トワの存在には気づいていないようだった。
トワは本来そこには存在していないのだから。
そう、全ては『白の原野』と同じ。
これは、過去の記録。
この部屋に残された、断片的な映像。
クレセントは無造作にベッドに腰掛けた。見上げるトワの横で、背を曲げて、俯いた姿で沈黙する。肩の上ほどまで伸びた闇色の髪がクレセントの顔を隠すのはかろうじてわかった。
その時、トワの目に映る映像が歪んだ。
俯くクレセントの姿を中心として、この部屋ではない別の空間がトワの目の上に浮かび上がる。
この暗い部屋とは対照的な白い部屋。広い窓からは日光が差し込み、部屋を明るく照らしている。しかし、窓は破られないように加工されており、その上金属の格子で覆われていて、ベッドに奇怪な格子模様の影を描いている。
真っ白なベッドに、クレセントは同じように座り込んでいた。俯き、前まで長く伸びた黒い髪が顔を覆い隠している。
クレセントは何をするでもなく、俯いていた。眠ることも無く、ただ、沈黙し続けていた。聞こえてくるのは、白い部屋の外に立つ誰かの声。本来厚い壁を隔てているが故に人間の耳には届かないはずの声だが、クレセントの意識ははっきりとその声を捉えていた。
『 「白の二番」の様子はどうだ?』
『今のところ精神波は安定しています。しかし、安定期より波長が大幅にぶれていて、いつ暴走するかわからない状況です』
『やはり、「シュリーカー・ラボ」での任務が原因か』
『おそらく』
『仕方ないな。「白」の中では外界適合能力もまずまず高い方だが、もはやこの状態では外には出せまい』
『研究所送りですか』
『ヴァルキリー大佐は渋るだろうがな。我々の安全の方が優先されるべきだろう』
『では、手続きを』
そこで、クレセントは意識を閉ざした。
五月蝿い声は遮断され、部屋は静寂に包まれる。クレセントは膝の上に載せた左手を握ったり開いたりしながら、手の中を見つめているようにも見えた。
覗き込めば、その手の中には、青いビー玉。
胸が、鳴った。
自分にはわかる。それは、元々トワ自身が持っていたもの。そして今はラビットが持っているはずのもの。その間、トワの手の中からいつの間にか無くなっていた青いビー玉が何処を渡っていたのかは誰も知らないのだ。トワですら。
「何で、貴方が……?」
トワは、思わず呟いていた。
すると、クレセントはビー玉を握り締め、俯いたまま低く嗄れた声を出した。
「誰か、そこにいるのか?」
「え?」
驚き、甲高い声を上げるトワ。それもそうだ。自分が見ているのは過去の映像であって、今そこに存在しているものではないはずなのだ。
クレセントは淡々と、暗い部屋でトワが聞いたものと同じ感情の無い声で喋る。
「誰だか知らないが、出て行った方がいい」
クレセントには、トワの姿は見えていないように思えた。俯いているからわかっていないのか、それとも本当に見えていない状態でありながら、トワの存在だけを察知しているのか。
その、鋭すぎる無限色彩で。
トワは首を横に振って、クレセントの左手をそっと握る。クレセントはびくりと身体を震わせたが、トワの手を振り払おうとはせず、口を閉ざすだけだった。
その手は、微かに震えていた。
「出て行け」
かろうじて、クレセントの口から漏れたのは拒絶の言葉。
「私に殺される前に、早く」
「殺される?」
トワはオウム返しにクレセントの言葉を口に出す。だが、目の前の男が何かを殺せるようには見えなかった。
「そんなことない。貴方は殺すことを望んでないよ」
「違う、私は、人を、殺したんだ!」
手の震えは増す。息が苦しいのか、言葉も段々と不明瞭になっていく。不安になって、トワは少しだけクレセントの手を強く握り締めた。
「この手が、血に、染まってたんだ……気づいたら、皆、死んでいた。何も、覚えてない。ただ、死にたくなくて、でも死んで、私は何度も死んだんだ。苦しくて、苦しくて、気づいたら、私はアイツまで……」
クレセントは顔を上げた。伸びきった前髪で表情はほとんど隠れてしまっていたが、鋭い深淵の瞳だけは髪の間からトワを鋭く射抜く。
「見るな、私に触れるな、もう、誰も殺したくない! 来るな、来ないでくれ、嫌だ、嫌なんだ……っ!」
「どうした!」
クレセントの叫び声を聞きつけたのか、重い扉を開けて数人の白衣の男たちが部屋になだれ込んでくる。クレセントはそれを見て余計に恐怖に駆られたのか叫び声を上げる。
男たちは暴れるクレセントを取り押さえて落ち着かせようとする。しかしクレセントのパニックは収まらず、思わずクレセントの手を放したトワに向かって喚き散らす。
「独りにしてくれ! 私を、独りに! もう嫌だ、何も、誰も見たくない! 誰か、誰か……」
クレセントの叫びがフェードアウトする。
気づけば、トワは先ほどの暗い部屋に戻ってきていた。クレセントは俯いたままベッドの上に座っている。
トワは思わず胸に手を当てた。
今の記憶はいつのことだろう。まるで檻のような白い部屋。狂気……というよりもむしろ恐怖に近い感情に侵されたクレセントの姿は、『白の原野』で見たクレセントと同じように、トワがこの旅の中で何度も出会ってきたクレセントからは遠く離れているように見えた。
クレセントが、わからない。
トワは無限色彩『白の二番』としてのクレセントを必要としていた。しかし、実際にクレセント・クライウルフという個人が何者であるのかなど、『白の原野』を経てクレセントの過去に触れた今になるまで考えたこともなかった。
トワに警句を与える存在としてのクレセント。幸福を語るクレセント。消滅事件の中心人物としてのクレセント。死と殺害の恐怖に怯えるクレセント。そして、今目の前にいる、俯いてただ沈黙を守り続けるクレセント。
どれも、まるで別人のように見える。
しかし、何故かはわからないが。クレセントの存在自体は、トワにとってとても懐かしいものに感じられる。
しばらく黙り込んでいたクレセントは、唐突に唇を動かした。
「……貴女か」
トワは、今度こそ驚かなかった。何故なのかは知らないが、この部屋に残された記憶であるクレセントは、間違いなく存在する次元が異なるトワの存在を捉えているのだ。
「久しぶりだな。確か、病室で会ったな」
トワは頷いた。
どうやら、トワはこの部屋からあの白い病室へ意識を飛ばしていたが、クレセントからしてみれば病室の記憶の方がこの記憶以前のものらしい。
クレセントは顔も上げないまま淡々と言葉を紡ぐ。
「貴女が誰かを問う気はない。何故この部屋にいるのかも、私には関係ない。ただ」
「ただ?」
「不思議だな。貴女を、私は昔から知っている気がする」
トワはどきりとしてクレセントを改めて見上げる。影になって見えない顔に目を向けて、小さな声で囁く。
「わたしも、貴方が懐かしい」
「そうか。何故だろうな、思い出せない……」
クレセントはそこで何かを考えているかのように首を少しだけ上に向ける。やはり顔は見えなかったけれど、そのシルエットはトワのよく知る誰かに似すぎていた。
トワが何か言うべく口を開こうとすると、軽い足音がこちらに近づいてくるのがわかった。足音は部屋の扉の前で止まり――――
Planet-BLUE