海原 凪は今日も「彼女」のいる病室へと足を運んだ。
おそらく今日が最後になるということを考えながら。
回復を理由に、今日付けで軍の情報部への復帰を言い渡されたのだ。これ以降、本部から離れられる機会は無いだろう。『青』をめぐる軍上層部の意識の相違は混迷を極めている、と上官であるシリウス・M・ヴァルキリーは苦い顔で語った。
それに加えて、帝国側の諜報が軍に入り込んでいるという嫌な噂も飛び交っているようだった。
病室の扉を開けると、「彼女」は今日もいつもと同じようにそこにいた。
グローリア・コランダム。
開いた窓から吹き込む風が、彼女のつややかな黒髪を微かに揺らす。懐かしい、記憶の人と同じ深海の瞳は意識なく虚空を見つめている。
無限色彩によってその心を壊され、人形同然になった女の姿は、否応無く無限色彩保持者である海原の心を揺さぶる。そうでなくともグローリアに惹かれていた海原は、一つの決意を胸に、グローリアの手を取って囁いた。
「……僕の力では君を救うのに足りないけれど」
無限色彩は、何かを壊すだけの力ではない。この力は、人の心を形にする、ある種の『奇蹟』。
そう語った、友人の言葉を信じたいのだ。
「僕は、奇蹟を信じてる。だから、待ってて」
今なら、真っ直ぐにグローリアを見つめることが出来る。グローリアの目はきっと海原の姿を映してもいないのだろうけれど、それでもよかった。
グローリアに微かに笑いかけて、凪ははっきりと言った。
「絶対に、『青』を連れてくるよ」
情報処理室には、無防備にも海原以外の誰もいなかった。一瞬前までもう一人軍人がいたが、海原が来たことをいいことに休憩しに出て行った。
海原は久しぶりに座り心地の悪い椅子に座り、無数のディスプレイを見上げながら、トゥールに刺された前後を思い出していた。
あの数日間の記憶は、完全に白紙にされたわけではなかった。
本当に一部分だけだが、残された痕跡を辿ってやっと辿り着いた。
今、何とかできるのは自分だけ。いつも誰かの背後で怯えてばかりいたけれど、ここで自分が動かなければ、きっと取り返しがつかなくなる。
今からやろうとしていることは、普通なら許されることではない。気づかれれば軍にいられなくなるどころか、それ以上の自由も失う可能性があるということもよくわかっていた。
それでも、やらなくてはいけない時はあるのだ。
電脳の電源を入れ、仮想空間に張り巡らされている網に接続する。ここまでは誰でも同じようにする工程だが、これ以上は自分だけが出来る領域。
「僕は泡」
小さく、口の中で呟く。
それは自分と同じ……正確には自分以上の力を持った……ある無限色彩保持者が教えてくれたこと。
言葉にすることに意味がある。
頭の中の思考だけでは揺らいでしまうものを、声として放つことで固める。魔法士が魔法の名を唱えるのと同じ原理だと言ってある無限色彩保持者は笑った。
「海の中に漂う泡沫。泡沫の橙。僕は白日の下に夢を見る」
紡ぐ言葉は呪文に近い。
自らを『無限色彩保持者』という存在に切り替える、魔法の呪文。
右手の平に埋まった橙色のジュエルを電脳に向けて、最後の呪文を唱える。
「僕の夢は、世界を知る」
ジュエルからまばゆい光が放たれ、海原の意識は肉体を離れる。精神がゼロとイチの記号に限りなく近いものに変換されて情報の海へと流れ出す。
泡のように霧散しそうになる意識を集中させ、ありとあらゆる情報で混沌とした仮想空間の中、海原は「それ」を捜す。自分の意識を乗っ取り、『青』を見つけ出そうとした何者かの姿を。
海原には、何となく「それ」が何なのか理解し始めていた。
残された断片的な記憶と、今この海で少しずつ得られていく情報は「それ」の確固とした形を海原の中に形成していく。
「それ」は一つの「意識」なのだとわかった。
それも、今の海原とよく似た、電脳世界に息づく限りなく「情報」に近い「意識」。ゼロとイチで構成されながら自ら思考し己を形作る目的のために生きている存在。「それ」が本当に人間なのかそうでない、作られたモノなのかはよくわからない。
ただ、「それ」には一つ、大きな特徴があった。
情報の海に接続している人間の意識を乗っ取り、一時的にではあるもののその人間を自由に操ることができるということ。この場合、相手はディスプレイ越しに情報を閲覧しているだけで構わない。「それ」は狙いをつけて相手の中に滑り込み、意識の中に根を張るのだ。
軍部の重要な情報を扱う海原が「それ」に狙われたのも当然のことなのだろう。
いくら情報の海を自由に泳ぐ「それ」といえど、厳重に管理された部分に触れることは容易ではない。情報の鍵を持つ人間を乗っ取り行動したほうが確実に情報を得ることが出来る。
そして、情報収集が終わった後は、自分が「いた」という形跡を消去して再び情報の海の中に還っていく。この時も何らかの情報端末に宿主が触れている必要があるが、その条件さえ満たせば「それ」は自由に情報の海と現実を行き来することが出来るのだ。
とんでもない能力者だ。
海原は思う。情報の海に潜るのは得意だが、海原は相手の精神に同調し乗っ取るほどの能力を持たない。……というより能力のタイプが違うと言った方が正しいのだろう。
無限色彩保持者はその名の通り一人の人間が多用な能力を有する。だがやはり得手不得手というものがあるということは否定できない。
海原の能力は自らの意識を別のものに変換することには長けているが、他の何かに干渉することは苦手としている。
相手を乗っ取るほどの能力を持つのは、『青』以外で考えるとすれば、精神関係の能力だけに特化しているという『深淵の白』クレセント・クライウルフくらいだろうか。
海原はそんなことを考えながらも深く深く、海の底へと潜っていく。目まぐるしく変化する情報の流れを感じるだけで気持ち悪くなるが、今はそんなこと考えている余裕もない。
ただ、「それ」の行方を追う。
それだけに意識を向ける。
一件無秩序な海も海原の視界を通してみればある程度の法則性を持っているように見えてくる。これも海原の能力が無意識に情報を選別し解釈しているせいなのだろう。
だから、「それ」を見つけるまでには、そう時間もかからなかった。
軌跡を残しながら泳ぐ影。溢れる情報の中で唯一、「自分の意思」を持って動いているように見えるモノ。
「それ」も海原の接近に気づいたのだろう、情報の海から離脱しようとする。だが海原もそれを許すわけにはいかない。瞬時に檻を構築し、「それ」を囲い込む。とは言ってもにわか作りのプログラムである。少し時間を使えば簡単に破られてしまうだろう。
「それ」は檻を破るプログラムを構築しながら、海原に向かって言う。
『 「泡沫の橙」か。黙っているかと思ったが』
『しかし、貴方を捕らえられるのは多分僕だけです』
海原はきっと「それ」を見つめ……とはいっても肉体を離れた今ではそう意識するだけなのだが……言い放つ。もちろん檻に加えてそれを破壊させないための楔を打ち込みながら。無限色彩を介して思考を直接処理機能に繋げているのだ。処理速度なら自分の方が上だとわかる。
『そう、だな。本物の無限色彩には敵うまい』
「それ」の言葉は、どこか力無いものに思えた。海原は一瞬演算を止め、「それ」を観察する。演技かとも思ったが、「それ」はすでに抵抗をやめていた。
『貴方は、一体』
海原は、檻越しに「それ」に問うた。「それ」は言葉に自嘲に似た感情を込めて言い放つ。
『 「ナイト」と称されるモノ、とだけは言えるな。貴殿と似て異なるものだ。その点についてはおそらくトゥール・スティンガーの方がよく知っているだろう』
『トゥールさんが……?』
『あの時も今もトゥール・スティンガーと相対したが、間違いなくあの男は狂っている。だが、その思考の飛躍が奴を天才たらしめているのだろうな』
ナイト、と名乗った「それ」は淡々と言う。
「あの時」というのはおそらく海原がナイトに乗っ取られていた時期の事を指すのだろう。
『全ては、あの男が知ることになるだろう。あの男は、今一番真実に近づいている』
ナイトが言った瞬間、第三者がこの場に介入してきたのがわかる。情報の海の流れが変わったのだ。とは言っても海原やナイトのように精神をそのまま情報に変換しているわけではなく、何者かがこの空間に電脳を介してログインしたのだ。
海原は即座に情報を読み取り、それがトゥール・スティンガーのものであることを知る。
『トゥールさん……』
トゥールは情報の海に影だけを投影して現れた。これがトゥールの仮想空間上の「アイコン」であることは、海原もよく知っていた。
『ごめん、凪くん。手間かけさせたわね』
『いえ、すみません。僕が勝手に先走って』
『いいえ、お手柄だわ。流石に無限色彩でもないとコイツは捕らえられないしね』
ナイト自身が言っていた通り、トゥールはナイトが一体「何」であるのかを完全に理解しているのだろう。トゥールは海原からナイトに意識を移す。
『さ、大人しくして頂戴? 裏でこそこそするのは趣味悪いわよ。特に、これ以上何かしようってんならあたしも容赦しないわ』
ナイトは何も言わずにトゥールを観察しているようだった。しばらくの沈黙の後、ナイトは口を開く。
『……貴方は、何を求めている』
『あたし? あたしは』
トゥールが、ディスプレイの向こうで笑ったのが、海原にははっきりとわかった。
『あたしの目に映る全ての人の、幸せを』
おどけた口調だったが、それがトゥールの本気であることは、海原にも、ナイトにも理解できてしまった。海原は言葉とは裏腹に背筋が凍るような心地になる。
きっと、この男は。
そのためには、どんな手段でも使う。
そう確信させるだけの力が、この男にはあるのだから。
『だから、アンタの上が何を企んでいるのか知りたい。「青」に何を求めているのか。アンタたちは何を求めているのか』
『……私が、答えるとでも?』
『思わないわ。でもそれはそれで構わない。あたしはアンタが勝手に動き回ってくれると迷惑だから、大人しくしてくれてるだけでありがたいもの』
ふっ、と。
トゥールの言葉を聞いて、精神だけのナイトは微かに笑ったような気がした。
『どちらにしろ、私はこの「橙」と貴方に囚われたのだ。好きにすればいい』
『そうさせてもらうわ』
トゥールは強力な檻のプログラムを展開し、ナイトを完全に封じ込める。海原はどこか不安にも似た感情を覚えながらトゥールに問いかける。
『あの、これからどうするつもりですか?』
『あたしの考えでは、内部に入り込んでいた諜報はコイツ一人のはず。だからコイツはひとまずあたしが預かって、聞けるだけのことは聞くわ。その後は……ま、なるようになるわよね』
トゥールは笑った。いつものように、明るく。
海原も、少しだけ安心した。
目の前の男は、確かに自分の知るトゥール・スティンガーであり続けているから。
『お疲れ様、凪くん。ゆっくり休んだ方がいいわ。潜るの、かなり精神力使うんでしょう?』
『はい。ありがとうございます』
『それじゃあ、あたしも引き上げるわね』
トゥールはナイトを連れてログアウトしようとした。その時、ナイトが檻の中から海原に、一つだけ言葉を投げてよこした。
『貴方は、とても真っ直ぐな目をしている。私が敵うはずもない』
その言葉の意味が判らないまま。
海原も、泡のように海の水面を目指して浮かび上がっていく。もう、トゥールの影もナイトの檻も見えなくなっていた。
「海原」
声が聞こえる。
ちょうどキーボードに突っ伏す形になっていた海原ははっとして顔を上げた。すると、横には自分の上司であるシリウス・M・ヴァルキリーが立っていた。
「た、大佐……」
「無限色彩の使用は禁止されているはずだが、理解しているのか?」
「い、いえ、そのっ」
しどろもどろになりながら、何とか言い訳を考えようとする海原に、しかしヴァルキリーは笑い声を返した。
「ははっ、わかっている。トゥールから聞いている。帝国の諜報を捕らえたらしいな」
相変わらずの情報の速さに驚いて、海原は目を丸くしてしまう。
「上手く誤魔化して上には伝える。ひとまず、ご苦労だったな」
「いえ……」
普段から言葉こそ硬いものの優しい……時に甘すぎるフシもあるヴァルキリーの言葉だが、今回ばかりはそれが本当に嬉しい。
ヴァルキリーは紫の瞳を細めて微笑みながら、ふと海原に問いかける。
「しかし、お前が自分から動くとは珍しいな。トゥールの指示でもなかったらしいし……どういう風の吹き回しだ?」
海原は青く染め上げた髪に指を通しながら、苦笑ともつかない表情を浮かべる。
脳裏にあるのは「彼女」の深い青の瞳。
それだけが、今の海原を突き動かす。
だから、ヴァルキリーにはただこう言うことしか出来ない。
「何となく、居ても立ってもいられなくなっただけです」
Planet-BLUE