トワはベッドの上でうなされ続けているラビットをじっと見つめていた。依然熱は収まらず、トワが握り締めるラビットの左手は燃えるように熱い。
無力だと思った。
確かに能力を使えばラビットの状態を一時的に楽にすることは出来るかもしれないが、この高熱の原因がトワにわからない以上根本的な対策をとることは出来ない。
今の彼女に出来ることは、側で手を握っていることくらい。
ラビットの苦しげな息遣いだけが、小さな部屋に響く。トワはそんなラビットから目を逸らし、部屋の様子を見た。今まで気が動転していて、まともに周囲を見渡すことすらしていなかったのだ。
殺風景な部屋だった。一人用のベッドと机と椅子とクローゼット以外は何も無い。小さな窓には分厚いカーテンがかかっていて、光もほとんど射さない。机の上に置かれた花を模ったアンティークのランプだけが部屋を仄かに照らしている。
使われていない部屋なのだろうか、とトワが思っていたとき、扉がノックされた。
「入っていいかしら?」
「あ、はい」
扉の向こうから聞こえてきたのは女の声。トワが慌てて返事をすると、音もなく扉が開き女が部屋の中に入ってきた。
光の当たり方によってはオレンジ色にも見える蜂蜜色の髪を波立たせ、白い服に身を包んでいる。手には、水の入った器と一枚の布。
セシリア・トーン。
初めてその名を聞かされたときは、トワも驚いた。地球を旅している間、何度も彼女の歌を聞いた気がする。何しろ、地球どころかこの宇宙の中でもトップクラスといわれている歌い手である。
そして、『白の原野』で死んだピアニスト、ミューズ・トーンの妹。
ラビットを第二ブロック街の端に位置するこの家に運んだ後、改めて何故あの時『白の原野』にいたのかと聖が問うたところ、セシリアはほんの少しだけ悲しげな笑顔を浮かべて答えた。
『一ヶ月に一回、ここに来て姉さんに挨拶していることにしてるから』
セシリアは、知っているのだろうか。
ミューズがどのようにして死んだのか。何故『白の原野』が出来たのか……
「大丈夫?」
そんなことを考えていると、セシリアがトワの顔を覗きこんできた。トワは驚いてこくこくと頷いた。セシリアは布を水に浸してから絞り、熱を帯びたラビットの顔を軽く拭う。
「貴女もずっと寝てないでしょう? この人は私が看てるから、寝ていていいのよ」
トワを気遣うように微笑むセシリアに、トワは首を横に振る。セシリアも、ずっとラビットを看ていて、寝ていないはずなのだ。第二ブロック街の医者に診せもしたが、結局この高熱の原因はわかっていない。
「そうよね、心配だもんね」
トワがセシリアを見上げると、セシリアは微笑みを浮かべたままぽつりと言った。しかし、そのブラウンの瞳……『白の原野』で見たミューズのそれとよく似ている……は陰りを見せたように思えた。
「この人は、本当に大切な人なのね」
「はい」
トワははっきりと答えた。それだけは確かだと言う確信があった。ラビットと出会うまでは、「大切」なんて言葉の意味もわからなかった。けれど、今ならわかる。自分にとって、ラビットはなくてはならない存在なのだ。
これが、「大切」ということ。
かつて、いつかは忘れたが自分に「大切なものはあるのか」と問うた何者かの顔が思い浮かびそうで、しかし頭の中にかかる白い霞の向こうに隠れてしまう。
セシリアはもう一度布を水に浸しながら、呟いた。
「そう。羨ましい」
「……え?」
「私には、よくわからないの。そういう気持ち……だから、貴女が羨ましいわ」
水滴が、セシリアの白く細い指を伝って落ちる。
波紋が水面に広がる。
「私ね、昔、歌を歌っていたの。知っているかしら?」
「はい、よく聞いています」
ラビットの車の中でかかっている音楽は大体ミューズの弾くピアノ曲かセシリアの歌だったような気がする。ミューズのファンだったという話は聞いたが、セシリアのファンでもあったのだろうかと思う。
実際、トワもセシリアの歌は好きだった。
今こうやって喋っているだけでもわかる、透き通った声。ミューズの声も綺麗だったが、それ以上に心に染み渡るような響きを持っている。
旋律に乗せ詩を歌い上げる時、声はあらゆる形になって聞くものの心を揺さぶる。
それは喜びであり悲しみであり、幸福であり絶望であり。あらゆる人の持つ感情は、セシリアの声の中にあった。
ただ、トワが聞く限り、セシリアの歌には必ず共通点……というより一つの通奏低音が存在していた。
それは、トワの中では降り続く雨のイメージだった。
こうやってセシリアを目の前にしても、なおそのイメージは覆されるどころか確固としたものになっていることを感じる。歌の中に表現された雨は、セシリアという一人の人間が常に抱いている心の形なのだろうか。
セシリアは、布を絞りながら言葉を紡ぐ。
「昔から歌を歌うのが好きだった。姉さんはピアノを弾いて、私が歌を歌うの。昔はそれだけで、幸せだった」
トワに聞かせているというよりは、もはや独り言に近い言葉がセシリアの唇から漏れる。
「だけど、姉さんが死んでから……歌を、歌えなくなったの。理由はわからないけど、歌詞も書けないしメロディも頭の中に描けない。無理して歌わなくたっていいって言ってくれる人もいるけど、私には歌しかないから」
トワはじっとセシリアを見ていることしか出来なかった。半ば伏せられたセシリアの目は、うなされ続けるラビットを見つめているようにも見えた。
「多分今までは、歌と姉さんが私にとって一番大切なものだった。でも、今はもう歌えないし姉さんもいないから、わからないの。今の私にとって大切なものが何なのか」
白い布を握ったセシリアの腕が、ラビットに向けて伸ばされる。
どくん、と。
目の前が赤く染まるような奇妙な錯覚。
白い布が床に落ちる。
セシリアの指はそのままラビットの喉元へと向かい、力をかけて首を締め上げるかのように……
「やめて……っ!」
トワはとっさにセシリアの腕を掴んでいた。セシリアは驚いてトワを見る。視界にかかったフィルタはその瞬間に消えうせていた。
「ど、どうしたの?」
セシリアは困った顔をしてトワを見た。よく見ればセシリアの手には依然布が握られたままで、ラビットの首を締め上げた様子などない。まるで、時間をそのまま巻き戻したかのような光景に、トワは唖然として目を見開いた。
一体、自分は今何を見ていた?
何故、セシリアがラビットの首を絞めるなどと思ってしまったのだろう。そんなことをする理由など何処にもないというのに、何故自分はそんな場面を幻視したのだろう。
「ごめん、なさい」
何を言っていいのかわからず、力ない謝罪の言葉しか出なかった。セシリアは「いいのよ」と微笑む。
「きっと貴女も疲れているのよ。……もし休みたくなったらすぐに言ってね」
「はい」
トワは頷き、セシリアから布と水の入った器を受け取る。器は、トワの腕には重く感じられた。
それじゃあ、と言ってセシリアは部屋から出て行こうとする。トワはふと気づいて、その背に向かって声をかける。
「あの」
「何?」
「貴女は、わたしたちがどうしてあの場所……『白の原野』にいたか聞かないんですか?」
セシリアは一瞬きょとんとした表情を浮かべて、それから微笑みを深めた。
「言いたくないのなら聞かないし、言いたいのなら聞くわ」
似たような事を、昔ラビットから言われた気がする。その頃は、まだ全てを話す勇気がなくて、何も言えなかったことを良く覚えている。
今度こそ全部ラビットに伝えたいのに、ラビットは何かに抗うように苦しみ続けていて、今のままではトワの声は届かない。
無意識のうちにラビットに集約されてしまう思考を何とか元に戻し、トワもほんの少しだけ笑ってみせた。
「ありがとう」
セシリアは何故礼を言われるのかよくわからなかったらしく首を傾げるが、すぐに気を取り直して「無理しないでね」と言葉を残して部屋を去った。
トワは白い布を手に取り、ラビットの喉元を拭く。布越しにも熱が伝わってきて、トワの不安は深まるばかり。
このまま目覚めなかったら、どうすればいい。
やっと大切なものを見つけたのに。この場所に来た目的が、やっと果たせると思ったのに。
その時。
ラビットの唇が、微かに動いた。
「……う」
「ラビット?」
トワは慌ててラビットの顔を覗きこむ。ラビットは薄く目を開けて、苦しげに声を上げる。
「……すまない」
「ラビット、どうしたの?」
トワが何を言っているのか、ラビットは聞いていないようだった。まだ夢の中にいるような、そんな表情で一言だけ、呟く。
「すまない、セシリア……」
「えっ?」
唐突に放たれた言葉に呆然とするトワをよそに、ラビットは聞き取りづらいよくわからない言葉を口の中で二、三言呟いてから、また熱と眠りの中に落ちていった。
Planet-BLUE