理解できるのは、それが、炎だったということだけ。
白と赤の渦。
狂い死ぬ人々を包み込み、自分をも包み込む炎。
忘れたかった。記憶から消し去りたかった。そんなの夢だと笑い飛ばしたかった。
だが、もう目を背けることはできない。
それはわかっていながらも横を向いて光景を見まいとするが、その首を誰かがしっかりと押さえ、耳元で囁く。
「……夢だったらいいの?」
懐かしい声。
一気に胸の鼓動が高まる。身体が震えるのがわかる。これが夢なのか現実なのかは判断つかないが、明らかに呼吸が荒くなる。
目を白く染まった熱波の空間に向けつつ、耳だけは背後にいる何者かの声を聞き取ろうとする。透き通った、囁きでありながら何処までも響き渡る女の声は、続ける。
「でも、全部夢だったら」
耳に、そっと何かが触れる。ほんの少し冷たい、柔らかな感触。
それが唇だと気づいたのは、一瞬後のことだった。
「そんなの、悲しすぎるでしょう?」
ラビットは大きく腕を振って女の声から逃れ、一歩離れて向き直ろうとした。
その瞬間、白かったはずの床はいつの間にか深い青をした水を湛えた海になっていた。空は依然として白いままだったが、それは先ほどまでの光渦巻く混沌ではない。
そして、ラビットの目の先にいたのは、ラビットの頭の中に浮かんでいる人物ではなかった。
水面に背筋を伸ばして立つ、白いコートの男。闇よりもなお黒い髪を揺らし、足元に広がる海よりも深い青の瞳をこちらに向けて。笑みも怒りも悲しみも浮かばない整いすぎた白い顔に、深く刻まれた刺青が威圧感を覚えさせる。
ラビットは口の中が乾くのを感じていた。
目を見開き、前に立つ男を見つめる。男の、色の薄い唇が微かに動く。
「それでも、まだ逃げると?」
耳に届く声は自分としてもとてもよく聞きおぼえのある声。
言いながら一歩、男は踏み出す。水面に波紋が走るが、音は無い。放たれた声すらもかき消されてしまうような、静寂。果ての無い虚ろな空間。
逃げなくては。
ラビットは瞬間的に思った。だが、何処へ逃げると言うのか。何から逃げると言うのか。それすらも今の彼には理解できない。
ただ、脳裏に焼きついた白い狂気だけが、彼を駆り立てていた。
逃げろ、と。
早鐘のように何度も何度も繰り返し響く逃亡を促す声。それなのに、ラビットは動けない。一歩も動けず、目は自分の裏返しのごとき色彩を持つ男を見つめたままで目線を逸らすことも出来ない。
先ほどのように、誰かが頭を押さえているわけでもないのに。
「もう、気づいているだろう、全ては不毛だ」
諭すように、男は言う。高くも低くも無い、よく響く声。
「時間は溝を広げるだけだ。いつもそうして、貴方は」
「わかってる……」
そういえば、以前にもそんなことを言った気がする、と思いながらも。半ば無意識にラビットの唇は言葉を紡ぐ。
「わかってる、わかってるんだ!」
ラビットは首を振って両耳を塞ぎ、男の声を聞くまいとする。子供のように縮こまり、それでも目は男から離すことが出来ない。
「でも、怖いんだ、怖くて、それで」
「それで、自ら過去を否定するのか」
「……っ!」
淡々とした男の声は耳を塞いでもラビットの精神を貫き通す。一歩、また一歩。ラビットにとっての恐怖でしかない男は近づいてくる。
「過去の罪を否定して、許されたつもりか。それとも今やっていることが、貴方の償いか?」
「違う」
「違うのであれば、今ここにいる貴方は何だというのだ?」
何度も、夢の中でこの男に問われた質問だ。
堂々巡り。
『白兎』とは誰なのか。
それに対する答えをはっきりと示せたことは、一度もない。
だから怖いのだ。答えられないことを答えろと迫るこの男が。存在しているだけでは許されないのか。何故こうまで自分を責め立てるのか。その理由はラビットもわからないわけではなかった。
誰も、自分を許すわけがないのだ。
過去に犯した大きすぎる罪に背を向けて忘れようとしていた自分を、誰が許すと言うのか。
「許されるわけがない……貴方が今も、貴方自身を許していないように」
そう、自分でも、自分を責め続けているのだから。過去から目を背け逃げ続ける自分を、許せるはずも無い。
矛盾だらけだ。
ラビットはすぐ目の前に来た男を見上げながら思う。こちらを見つめる鋭い深淵の瞳も、全て矛盾を生み出しながら生きるラビットが生み出す矛盾の一つなのか、それとも……
「なあ……」
ラビットは弱々しく呟く。かつてはかろうじて認めることができたその言葉。今はどうあっても認めるわけにはいかないと知りながらも、問わずにはいられなかった。
「私が、幻なのか?」
瞬間、男の顔が歪んだ。口端を歪め目を細める、ラビットが自嘲気味に「笑う」時の表情とよく似ていた。しかし、そこに込められた感情はあからさまなラビットに対する侮蔑。
そして、男の唇が、決定的な言葉を紡ぎ上げる。
「そうだと言ったら、どうする?」
『ステキな夢よ。白い男の人と、不思議な女の子の話。今まで見た夢と違うの』
声が、蘇る。
あの時静寂を貫いて届いた、懐かしい女の声が思い出される。
何故、今まで思い出せなかったのだろう、と思う。あの悲劇を再現して、初めて気づかされるとは。
これは、自分は、まさか――――
「否定の先に待つのは、元より極限まで希薄な存在意味の消失だ」
あえてわかりづらい言葉を使うのは目の前の男らしいな、とラビットは停止しかけた思考で無駄に考えを巡らせる。おそらく今頭の中に浮かんだ最悪の可能性を考えないようにしているからだろう。
「矛盾も夢も幻も無意味だ。ただ事実だけが存在する。そうだろう、白兎……」
男の声も、ラビットの耳にはほとんど届いていない。男もそれを構う様子はなく、ラビットの左の頬に手を触れる。びくりとするラビットの目に入ったのは、
「あの時」と同じように。
焼け爛れていく男の左半身。
既に目は焼け落ち、左の頬に踊っていた蛇の刺青ももはや姿を留めていない。
ラビットは悲鳴を上げたが、その時ラビットの身体にも焼けるような痛みが走る。自分からではその痛みの正体を見ることもできない。ただ、「あの時」と同じ……いや、それ以上の熱がラビットを襲っていることしか理解できない。
痛みに声を出すことも出来ず、喉から息が苦しげに漏れる。
歪んだ笑みらしき表情をその焼け爛れた顔に貼りつかせながら、男は、言う。
「さあ、何が事実だと思う?」
どんなに痛みで頭が支配されていようとも容赦なく男の声はラビットの脳に直接言葉を刻みつけていく。勿論今のラビットにその意味を判断するほどの思考能力も残ってはいなかったが。
「ここに私は存在しているのか、ここに貴方は存在しているのか、いや」
やめろ。
かろうじて、伸ばした手が男に届く直前に。
男は笑みを消してはっきりと言った。
「この夢を見ているのは、自分ですらないのか?」
「やめろおぉぉっ!」
ラビットは叫びながら伸ばした手で何かを掴む。何故か男に向けて伸ばしたはずの手は、男には届いていなかった。その代わり、小さな何かが手の中で存在を主張する。
手袋を嵌めているはずなのにしっかりと感じられる硝子玉の冷たさ。
それが小さなビー玉だと気づいた瞬間、ラビットは目を見開いた。目の前にいたはずの男の姿が消え、周囲の風景も一変していたのだ。一瞬前まで身体を支配していた痛みも、いつの間にか消え去っていた。
白い壁に囲まれた小さな部屋。
壁にだらりと寄りかかる大きな熊のぬいぐるみに無造作に置かれた薬瓶、足元に転がる四つのビー玉。
そして、ラビットを……いや、「彼」を見上げる一対の瞳。手の中のビー玉と同じ、海色の目が真っ直ぐにこちらを見上げ、小さな桜色の唇が動く。
「そのときには、わたしと……」
瞬間、白い空間も光へと埋没して、ラビットは何度目になるかもわからない真っ白な光の海に放り出される。
全ては夢か現実か。
唇が紡いだその先の言葉を思い出せないまま、ラビットはまだ、青いビー玉を握り締めて光の中を彷徨い続ける。
それを見つめる、一つの影があることにも気づかず。
「早く、気づいてあげて。あの子も、貴方も、それに私も……そんな結末は望んでいないから」
影の呟きなど尚更ラビットに届くはずもなく、ヴィシャス・サークルは続く。
Planet-BLUE