聖はホバーを停めて片足で支え、ただその現象を見つめることしか出来なかった。
これは何だ。
自分は、ラビットたちの車を追っていたのではなかったのか。ここは、全てが灰に包まれた白の原野ではなかったのか。
いつ、自分はこんなセピア色の町に迷い込んだのか……
白兎と少女、あの二人と同行するようになってから奇妙な現象には慣れたつもりだったが、今回ばかりはやはり目を疑わざるを得ない。
この不可思議な町がかつて存在した無限色彩が作り上げた幻だとは知らず、聖は人が向かう方向にホバーを走らせる。途中に沈黙するラビットたちの車があったが、それは無視して通り過ぎることにした。中にラビットとトワがいないのは、通り過ぎざまに確認できたからである。
人々の波の中を走るホバーは、やがて巨大なコンサートホールの前で停まる。人々は素の中に吸い込まれるように消えて行き、聖は入り口の横にかかっている看板を読む。
「ミューズ・トーン……」
何度も聞いた、ピアニストの名前。
五年前に死んだはずの、あの……
聖は自分の記憶を探り、そして頭から血が引くのを感じていた。
そこまでして、やっとこれが過去の幻だと理解できた。だが、気づいたと同時に聖は人ごみをかき分けホールの中に駆け出していた。
――――危険だ。
何が危険か、というのははっきりとはわからない。それでも、聖は本能的にこの状況があまりに危ういということを理解していた。
大ホールの扉は閉まっていて、もう演奏が始まっていることを示していた。それも構わず、聖はドアを開く。
「……おっさん!」
何故、そこでラビットを呼んだのか。
何故、そこにラビットがいると思ったのか。
自分まで、このおかしな無限色彩の世界に染まってしまったのかと唯一残された冷静な部分が思考しつつも、聖はそれを見た。
拍手の中、ステージの上で花束を捧げ持ちピアニストに近づく黒髪の男の姿。
男を抱きしめるピアニストの姿。
そして、ピアニストの背を貫く、凶弾。
「何だよ、これ……」
聖は、一歩下がった。下がって、閉じたドアに背をぶつけて止まった。
ピアニストが死んだという話は聞いていた。それは誰だって知っている。だが、「何故死んだのか」なんて、誰も知らない。知る者が、誰一人として残っていなかったのだから。
まさか、狙われた夫を庇ったなど、誰が思ったか。
叫ぶクレセント。
その肩から広がる、白い、狂気の翼……
まずい、と。
沸いた頭で聖は何とか思考する。これが過去の出来事で今の自分には影響がないことはわかる。
それでも、この状況はまずい。
自分はともかく、この光景を見ているはずのあの男は、絶対に。
会場内に沸き起こった悲鳴は、やがて白い翼に包まれて死の沈黙に変わっていく。全てが白い色に染められていくホールを、聖は駆ける。
目的の人物は、すぐに見つかった。大きなドアの前に膝をつき、ステージの上に目を向けたまま、呆然としている一人の白い男。
ラビットは、虚ろな目でステージを見つめていた。普通ならば視力の無いラビットの目にそれが見えているはずはないが、これは元より幻、本来の視覚とは別の部分に作用しているのだろう。
「おっさん、目ぇ覚ませ!」
聖は叫んでラビットの肩を乱暴に掴む。その間にも、ステージから伸びる白い翼は全てを包み込んでいく。
ラビットはのろのろと聖を見る。その目に、もはや理性は感じられない。
聖はぎりと歯噛みし、ステージを見る。白い光に包まれてしまったステージの上で何が起こっているのか、ここからではわからないが。
「……貴方か」
その時、ラビットの唇から声が漏れた。
はっとして目を戻した聖の喉を、ラビットは左の手で締め上げる。
「貴方か、貴方が殺したのか……っ!」
正常な判断を失ったラビットの目に、聖がどう映っているのかはわからない。ただ苦痛の中で聖が判別できるのは、ラビットが狂気と怒りに支配されていること。
聖はこれ以上やられると危険だと悟り、強くラビットの身体を蹴り飛ばす。手は聖の喉を離れ、ラビットの身体が壁に打ちつけられる。
「くそっ、目ぇ覚ませってんだろ! これは幻だ! 今起こってることじゃねえ、もう過ぎたことだ……それはアンタが一番よくわかってんだろ!」
ラビットは身体を曲げて激しく咳き込む。咄嗟のことだったとはいえ、少しは手加減するべきだったかとも思う。それでも、ラビットの言葉はまだこの状況を把握しているとは思えなかった。
「五月蝿い、貴方が殺したのだろう! 彼女を、私は、どうして、私が、殺し、て……」
顔をあげたラビットは、白く染め上げられたホールを見た。
一面に転がる、傷一つ無い死体。
「あ……」
白い光は、やがて、ホールを越えて町へと広がっていく。精神を侵す、白い翼。狂気を司る、白い無限色彩。
ラビットは目の前にいる聖の存在も忘れ、虚空に手を伸ばす。祈るように、喘ぐように。
「違う、私は、そんなこと、望んでない……行くな、誰も、殺すな」
だが、その声は何処にも届かない。
非情な白い狂気は広がるばかり。全てが死に絶えたこの空間に彼の声を聞く何が残っているというのか。
「嫌だ、やめろ……っ!」
ラビットの叫び声が響いた瞬間。
視界が、赤に染まる。
ステージから巻き起こった炎が、白い光から守るかのようにラビットと聖を包み込む。過去の幻である以上熱さは感じないが、それが「熱」であることはわかる。
これが、無限色彩。
聖は目を丸くした。
実際に、美術館でトワの能力を見たことはあったが、その時見た能力はあくまで片鱗。今目の前で繰り広げられている光景は、過去のこととはいえ確かに存在した出来事。あまりに凄惨な出来事であるというのに、何故。
美しい、と思ってしまうのだろう。
白い狂気と赤い炎がせめぎ合う。やがて狂気を暖かく包み込むように炎が翼を取り巻き始める。
赤い炎は白く染まり、ホールを越えて何処までも広がっていくように見える。
そして。
「ミューズ――――っ!」
誰が放ったのかわからない声と共に、聖の視界は強烈な光に支配される。目を閉じても瞼を焼く光。
それが、一瞬だったのか長い時間だったのかはわからない。
恐る恐る聖が目を開いたときには、そこは白の原野に戻っていた。吹きすさぶ風が灰を巻き上げ、波のような跡をつける。側には乗り捨てられた聖のホバーとラビットの車があった。
しばらく呆然とそれを眺めていた聖だったが、すぐに我に返ると足元に倒れているラビットを抱え起こす。また首を絞められたらどうしようかという考えが頭をよぎったが、それは次の瞬間には払拭された。
ラビットの身体が、尋常でないほどに熱い。
「おい、おっさん!」
聖は慌てて声をかけるが、ラビットに聖の声が届いているようには見えなかった。息を荒げ、虚空を見上げて呟く。
「熱い……」
「それはわかってるけど、どうしたってんだよ!」
「燃える……身体が、焼ける」
ラビットはまだかろうじて動く右腕を左の肩に持っていこうとする。
聖は、第四ブロック街で聞いた話を思い出した。
ラビットは、ここで致命的な火傷を負って発見されたという。現在はその痕跡も聖からは判別できないが、その時の記憶が蘇ったのだろうか。そうしているうちにも、ラビットの身体の熱は高まっているように思える。
これ以上放っておくと、命にも関わるかもしれない。
聖は周囲を見回す。だがそこにあるのは何処までも広がる白い原野だけで、助けを求めようにも求める相手はいない。
聖が舌打ちをしてラビットを担ぎ上げようとしたその時、目の前の空間が歪んだ。思わずラビットの身体を取り落としそうになる聖だったが、かろうじてそれは耐えた。
歪んだ空間から転がり落ちるようにして現れたのは、トワ。
トワは聖に担がれたラビットの姿を見て、小さな悲鳴を上げた。
「ラビット! どうしたの?」
聖はどうしてそんなところから突然現れたのかと聞きたかったが、ひとまず今はそれを論じている場合ではない。
「何だかよくわかんねえけどすげえ熱なんだ! 早くどっかで休ませねえと危ない」
「そんな」
トワはラビットに駆け寄り、その手を握ろうとした。
だが。
それは無意識の行動なのだろうが、ラビットはトワの手を激しく振り払った。
トワは、驚いて一歩下がる。ラビットはほとんど意識を失っているのに近い状態らしく、赤い目は虚ろにあらぬ方向を見つめ、ただ「熱い」という言葉を繰り返している。
呆然とするトワにも気付かず、聖は誰に言うともなく呟く。
「……第四ブロック街に戻って、医者の姉さんに診てもらうか、だが」
ここから、第四ブロック街までは、どのくらいの距離だったか。
思い出そうとしても今の聖の頭では、まともな思考は出来ない。焦るばかりで思考は空転を続ける。
その時だった。
「……誰? そこにいるのは」
声が、聞こえた。
聖とトワがはっとしてそちらを見ると、一人乗りの小さなホバーに乗った女がいた。光の当たり具合ではオレンジにも見えるハニーブロンドの髪を灰交じりの風に靡かせて。
聖は、その女に見覚えがあった。
女はホバーから降りてこちらに駆け寄ってくる。
「こんな所で何して……」
しかし、女の言葉は最後まで放たれることはなかった。女の明るいブラウンの瞳は聖の腕に抱かれたラビットに向けられ、大きく見開かれる。
「その人はどうしたの?」
「あ、いや、ちょっと急に具合が悪くなって」
聖は一瞬何と説明すればよいかわからず、曖昧にそう答えることしか出来なかった。女は即座に言った。
「なら、こんな所に突っ立ってないで、どこかに寝かせてあげた方がいいわ。そうね、私の家、そんなに遠くないから案内するわ」
「いや、でも」
まくし立てるように言う女に、聖は慌ててしまう。女の誘いは嬉しかったが、それ以上に。
「でも、じゃないわ。本当は医者に連れて行ったほうがいいんだろうけど、この近くに医者はいないの。……それに、そんなに苦しそうにしてる人、放っておけないもの。私のホバーには乗せられないけど、貴方のホバーに乗せられる?」
「それは、大丈夫だと思う、けど」
「じゃあ、ついてきて」
有無を言わさず。
女は自分のホバーに乗り込もうとする。聖は「ちょっとアンタ」と女を呼び止める。
「何?」
「アンタは、どうしてこんなところに?」
「それは、私の勝手でしょう。さあ早く」
そっけなく、女は言う。
トワは聖の服の裾を引っ張る。おそらく聖を急かしているのだろう。それでも聖はすぐには動けなかった。
やがて、ラビットが苦しそうに呻くのを聞いて、聖は諦めてラビットを車の後部座席に横たえた。龍飛がこれ以上ないほどにラビットを心配するが、「自動運転であの女についていくように」とだけ伝えてドアを閉める。我に返ったトワはラビットを見守るように助手席に収まった。
聖は自分のホバーに乗り込み、女を見る。
「こっちは大丈夫だ」
「それじゃあ行くわよ」
女はそれだけ言ってホバーを発進させる。その背を追いながら、聖は一瞬だけ目を閉じた。
聖は女を知っていた。
セシリア・トーン。
あまりに有名すぎる歌姫の名を反芻しながら、白い原野を走り抜ける。
Planet-BLUE