『白の二番を、クレスを捜して……』
声が脳裏に響き渡る。
凛と静寂を貫く女の声。
もう、トワは理解していた。これが、この場所で死んだピアニストの声であることを。
「ミューズ、クレセントはどこにいるの?」
全てが白い色で塗り潰された空間の中で、トワは手を伸ばす。どこにいるかもわからない、失われつつあるミューズの意識に向けて。
「ここにもクレセントはいない。ここにあるのは」
白の原野に刻まれた悲しい記憶だけ。目に見えるクレセントの姿は幻に過ぎない。だが、トワを呼ぶミューズの声は確かにここから聞こえていた。東の果て、白の原野。ここが旅の終着点だと思っていたのに、まだ『白の二番』は見つかっていない。
ミューズの声は、囁く。
『クレスは全てを拒絶している。クレセントは死んだのだと自分に言い聞かせて、本当にこの星と共に消えようとしている』
「!」
『その目に見えるものも、耳に聞こえるものも、手に触れるものも全て拒絶して、独りであることを選んだの。最後まで、ずっと』
「そんなの、悲しすぎる!」
トワは叫んだ。白い空間はその声も吸い込んでしまうくらいに広い。まるで全てを包み込んでいく、クレセントの狂気と孤独をそのまま表したような純白の空と大地。
「独りは悲しいんだよ? わたしも、初めは自分が独りだって知らなかった。でも、地球に来てわかったの。わたし、独りが怖い」
今までは、そんなこと考えたことがなかった。
いつも、自分は独りで、ずっと独りのままだと思っていた。淡々と時を刻む時計塔の中で、作り物に囲まれ死人に抱かれているのが当たり前だった。
そんな変わらぬ毎日を過ごしている時、ミューズの声が聞こえたのだ。
どこから放たれているのかもわからない微かな声が、トワを呼んでいた。
初めは聞き間違いだと思った。だが声は段々と確かになっていく。聞き取れなかった言葉もやがてはっきりと聞こえてきた。
『白の二番を捜して』
その言葉の意味を、トワはまずセツナに問うた。
セツナは笑って「 『白の二番』は死んだ無限色彩保持者だ」と言った。トワは信じなかった。トワの『青』はその名を持つ『白』の存在を感知していたから。それが一体誰でどこにいるのかはわからなかったけれど。
次にトワはヴァルキリーに問うた。
答えはセツナと同じだった。ただ一つ違うのは、セツナは笑って言ったけれど、ヴァルキリーは悲しげに目を伏せたことだった。何故ヴァルキリーがそんな表情をするのかは、トワにはわからなかった。
今なら、ヴァルキリーにとって『白の二番』が大切だったのだと理解できるけれど。
最後に、トワはクロウに問うた。
クロウの答えはトワが思っていたものとは違った。「 『白の二番』はきっと一番幸福だった無限色彩保持者だ」と彼女は言った。どういう意味だと問えば、クロウははっきりとこう言った。
『 「白の二番」は、幸せの意味を知っていた』
幸せの意味。
セピアの過去の中で、ミューズがクレセントに問いかけていたのを思い出す。今、幸せかと。クレセントの答えは曖昧だったけれど、答えていたときの彼は確かに暖かな感情を抱いていたはずだ。
クロウがどうしてそう答えたのか、トワには今でもよくわからない。
ただ、その言葉がひどく頭に残った。
だから、トワは時計塔を離れた。同じだけれど違う、無限色彩保持者『白の二番』を捜すために。「幸せの意味」というのが一体何なのかを問うために。
そして。
トワは、出会ったのだ。
同じように独りだった、優しくて暖かな手の持ち主に。
そこで初めて気づいたのだ。自分が独りだったことに。自分はもう独りじゃないことに。それから、独りが怖くてとても悲しいものだということに。
「独りきりで消えていくなんて、そんなの……」
ああそうか。
だから、幻のクレセントはいつも背を向けていたのだ。
思い至った途端、トワの目から涙が零れた。苦しい。胸が熱い。トワは胸……そこに埋まっている青いジュエルの上に手を重ねる。
クレセントは拒絶し続ける。自分を求めるトワの願いも、あの時笑顔で死んでいったミューズの思いも、全てその背に受けながら振り返ることはない。
そんなのは、悲しすぎて。
トワはぼろぼろと涙を流しながら嗚咽を漏らす。
その時、トワの頭に何かが触れた。はっとしてトワが目を上げると、そこには一人の女が立っていた。真紅のドレスを纏った、一人の女。涙に滲む目に映るのは、少しだけ歪んだ、寂しげな笑み。
「貴女も、クレスと同じね」
女……ミューズは穏やかな声で言った。トワは気付かなかったが、それはトワ自身の声とよく似ていた。
「貴女も誰かのために、泣いてくれる」
「え……」
「クレスもそうよ。誰かの心に共感して、涙を流す人なの。優しくて、優しすぎて、だから危うい」
トワの頭の上にそっと手を載せ、続ける。
「だから、私は貴女を呼んだの。きっと人のために涙を流せる貴女なら、クレスを見つけてくれる。クレスの名を呼んでくれる。そして」
ミューズはそっと跪く。白い大地から灰が舞い上がる。
「クレスに、幸せを思い出させてくれるって、信じてる」
「……ミューズ」
「泣かないで、トワ。あの人が心を閉ざし続けている限り、クレスはどこにも見つからない。その扉を開くのは、貴女なの」
歌うように。
響くミューズの声はとても心地よい。
「私はクレスに笑っていて欲しい。クレスの笑顔は、とてもステキだから。わがままな願いだってことはわかってる。だけど」
全てが終わったあの日、『赤』であるミューズには見えていたのだ。クレセントが「殺される」という未来が。
あの時彼を抱きしめたのも、自らの力で全てを包み込んだのも、トワを呼び続けていたのも、全てはクレセントのため。ミューズにとって、クレセントはそれほどまで大切な存在で。
「私は、ここに思いを遺す。貴女に、クレスに、伝えるために」
跪くミューズの姿が、やがて世界の白に溶け込むように薄まっていく。トワは叫ぶ。
「嫌、行かないで! わたし、わからない……クレセントは、どこにいるの? どうすれば、クレセントは独りじゃなくなるの?」
ミューズは微笑み続ける。自身が死ぬ時にすら、クレセントに向けて笑顔を向け続けていた彼女は、ジュエルが埋まった右手でトワの頬に触れ、伝う涙をすくい取る。
幻のはずのミューズの手は、人の温かさを持っていた。
「クレスは、いつでも貴女の側にいたわ。自分でも忘れている約束を守り続けて。後は、足りない記憶を繋ぎとめるだけ」
「足りない、記憶?」
「もう一歩、歩み寄れば全てが繋がる。その小さな手で、クレスの手を握ってあげて」
ふわり。
ミューズの身体が宙に浮かび上がる。翼のような真紅のヴェールをその背に浮かび上がらせながら。
トワは叫ぶ。不安と焦燥が彼女にそうさせるのか、片手を突き上げて、離れ行くミューズを掴もうとする。
「わからない、わからないよ! ミューズ!」
そんなトワを見下ろしてミューズは囁く。小さいけれど透き通った声で。
「クレスは怖がっているの。独りは寂しくて悲しい。でも、大切なものを失うことが、一番怖い」
「あ……」
トワは思わず声をあげた。
ミューズの言うとおりだ。トワは、ラビットと出会った。独りじゃなくなって、暖かな感情を知った。けれども、今度はラビットを失うことが怖い。とても、怖い。それは、きっと独りになることが怖いのではない。
それだけ、トワにとってラビットは大切なものだから。
「でも、永遠はないわ……どんな形でも、別れは来るの。それは、覚えておいて」
ぴしり、と白い空間に亀裂が入る。ミューズの背に浮かぶ真紅のヴェールが燃え上がる。それは、ミューズの記憶が形作るこの世界の終焉を意味していた。
「私の思い出はここで終わり。でも、貴女の思い出はここから始まる」
誰も知らない未来が待ってる、と。
ミューズはクレセントに言ったように、笑顔で言った。
「ミューズ、貴女は」
どんな未来を見たの?
トワの思いは、言葉にならなかった。
次の瞬間には、世界は音を立てて崩れ落ち、トワの意識は再び闇に落ちていった。
Planet-BLUE