ミューズはセピア色のステージに上がる。
真紅のドレスを揺らし、ホールを埋め尽くす観客の姿を認め、嬉しそうに微笑みながら一礼する。
一番奥のドアの前に立っているラビットは、知らずに体が震えるのを感じながらドアに寄りかかる。それでも目はステージの上に立つミューズの姿を捉えて離れようとしない。
もはやこれが夢なのか現実なのかもわからない。
ホールの中に巻き起こる拍手の音を聞きながら、ラビットは無意識に手を胸に当てた。
ラビットの記憶が正しければ、この後に起こるであろう出来事もはっきりとわかる。きっと、見てはならないのだと痺れる頭の中で誰かが囁く。だが、目を逸らすことは出来ない。
それどころか。
いっそ、このまま時間が止まってくれればと、思った。
やがて、拍手が止むとミューズは椅子に座り、鍵盤の上に指を乗せる。
軽く息を吸い、彼女は大昔から変わらぬ形をした八十八の白と黒の上で、踊り出す。
第一の曲目は、聖夜にふさわしい古いクリスマスの音楽を集めたメドレー形式の曲。舞台裏から見ているトワも知っている曲だった。透き通った声で聖なる言葉を歌う、誰かの声がトワの脳裏に響く。懐かしいその声が誰のものだったのか、思い出せないけれど。
ミューズの指は、縦横無尽に鍵盤の上を駆けていく。時に穏やかに、時に激しく。その勢いは曲が進んでも衰えることは無い。
そして、クレセントはそんなミューズを見つめていた。トワから表情は見えないものの、おそらくはその深い青の瞳で、真っ直ぐに彼女を見守っていることだろう。
トワはその背を見ながら思う。
いつまでもこのままならば良いのに。
皆、知らない。これから起こるだろう出来事を。トワも、実際には知らない。しかし、一つだけわかることはある。
どんなに素晴らしい奇蹟の使い手でも、「過去を変える」ことは出来ない。
トワの身に秘められた無限の色彩でも、それは不可能だ。
だからだろうか。トワはクレセントの背を見つめながら、いつしか涙を零していた。海の色をした瞳から、ぽろぽろと雫が落ちる。気づいてもらえるはずも無いとわかっていながら、手を伸ばして言う。
「クレセント……」
本来ならばその身体に触れられる位置で伸ばした手は、虚しく空を切る。
クレセントも、ミューズも、このセピア色の世界も、全て過去を映し出した幻なのだ。
静かな旋律が、響き渡る。トワも知っている曲だが、題名は知らない。散々ラビットが車の中で流していた曲だということだけは覚えている。時代遅れのスピーカーから流れていたものと同じでありながら格段に臨場感のある演奏が、トワの耳に届く。
流れるような音を聞きながら、ラビットが「彼女のファンだった」と言っていた事を思い出す。
はっとして、トワは涙を拭って楽屋裏に取り付けてある観客席を見渡せるモニターに目を移した。
何故気づかなかったのだろう。
ラビットがそう言った理由も、かつて第四ブロック街にいた理由も、わかりきっているはずだったのだが、今の今までそれを失念していた。この異様な幻に惑わされたのか、それとも無意識に考えまいとしていたのか。
『私はその日、そこに居た』
淡々としたラビットの声が、蘇る。
今この瞬間、過去のラビットは、ここにいるはずなのだ。
気づいた途端、胸が激しく鳴るのがわかる。つい先ほどまで感じていた悲しみとは全く違う意識が、彼女を支配し始めていた。モニターにラビットらしき人間の姿は映っていないが、それが余計にトワの中に焦燥にも似た冷たい闇を広げていく。
セピアの過去を持つ、白い原野に唯一残された人間。
この惨劇を唯一「知る」人間。
トワの目に映る「過去」は、この原野に刻まれた記録だと思っていた。事実、半分以上はそうなのだろう。トワの『青』はモノに刻まれた過去を読み取ることとて容易く可能とする。だが、本当にそれだけなのだろうか。
これは、原野に残された「記録」なんて曖昧なものではなく、誰かの「記憶」なのではないか?
そう考えたとき、セピアの空間が一瞬、ノイズが走ったかのように歪んだ気がした。ピアノの旋律に混ざって、聞き取りづらい声が聞こえる。
『そう……そうね』
囁くような、女の声。
それがミューズのものであることは、すぐにわかった。トワはピアノを弾くミューズを見る。セピアの空間全体に感じられる、いや、白の原野に残された過去の思念がトワに語りかけているのだ。
『わかってる。そうしたら貴方が悲しむことくらい』
曲を終え、ミューズは一度手を鍵盤から離す。トワからは背中しか見えないが、少しだけ俯き加減になった彼女から感じられる思いは、「決意」。
『でも、私は貴方を守りたいの』
言葉の意味が、わからない。なのに、何故だろう。息が苦しい。
ミューズの指が、再び鍵盤に乗り、滑り出す。プログラム最後の曲だ。
これもまた、トワの知っている旋律だった。淡々としていながら、全てを包み込むような優しさを持ち、それでいてどこか儚い。抑え目の演奏は、眠りにつくものを仄かに照らす月の光を思わせる。
『……許してね、クレス』
白い指が、中空を舞う。
『貴方を愛してる』
クレセントが、びくりと震えた。腕を伸ばして、一歩踏み出そうとして、留まる。もしかすると今のミューズの声が届いたのかもしれない。トワは胸に手を当てて、深く息を吸う。そうでもしなければ、苦しすぎるのだ。
最後の音色を響かせて。
ミューズの指が、白と黒の世界から離れる。
途端に、ホールは拍手の渦に包まれた。アンコールを求める声があちこちから聞こえる。ミューズは優雅な仕草で立ち上がり、観客に深々と一礼する。それだけで、拍手の音量はさらに増した。
嬉しそうに微笑んだミューズは、舞台裏に目を向ける。それが合図なのだろう、クレセントは花束を両手に持ち直してステージに向かう。少々ぎこちない歩き方ながら、彼なりに背筋を伸ばしてミューズに歩み寄る。
沸き起こる拍手の中、クレセントは手にした真紅の薔薇の花束を、ミューズに手渡す。ミューズは「ありがとう」と唇を動かす。
トワもじっとその様子を見ていたが、ふと、横の観客席モニターが目の端に映った。拍手をする観客の中に、帽子を目深に被った男がいるのが見える。観客たちはミューズとクレセントに目を向けているため、男に気づいているものはいない。
その男の手に、長い砲身の銃が握られていることも。
その狙いが、「クレセントに向けられている」ことも。
誰も、気づかない。
ミューズが、クレセントに微笑みかける。
クレセントが、少しだけ恥ずかしそうに微笑む。
トワは、叫びながらステージの上に走り出す。
鳴り止まぬ拍手の中では声も音も通らない。ミューズの唇が、今度は別の単語を放ち、そして。
ミューズは一歩踏み出して、観客には背を向けるようにしてクレセントを抱きしめた。ほんの少しだけの寂しさと、確固たる決意をその笑顔に込めて。
音は聞こえない。
ただ、静かに。
放たれた銀色の弾は、ミューズの背を貫いていた。
「え……」
ずるり、と。
クレセントの肩から、ミューズの腕が落ちる。そのまま、糸の切れた人形のように彼女の身体は床の上に倒れる。クレセントは、何が起こったのかわからないらしく、呆けた表情でミューズを見下ろす。
トワもその場から動けなくなっていたが、目だけはかろうじて観客席に向けることが出来た。奇妙な静寂に包まれた観客席の中で、帽子の男だけがまだ銃口をこちらに向け続けている。
真紅の花弁と血が、床を赤く染め上げる。
しばしそれを見つめていたクレセントは、急に力が抜けたらしくがくりと膝をつく。だが、その鋭い青の瞳だけは、きっと観客席……いや、そこにいる狙撃手を見つめていた。
「何故だ……」
狙撃手の指が、引金にかかる。
「何故……」
クレセントは、徐々に冷たくなり始めているだろうミューズの身体を抱きしめる。だらりと垂れ下がった指は、鍵盤の上を舞っていたときそのままの美しさだったが。
風が、吹く。
何処からともなく風が吹くのを、トワは感じていた。だが、それは風ではないことも、すぐにわかった。
これは、クレセントの「悲しみ」。そして、「怒り」……
「駄目、クレス」
今まさに、命の灯火が消えようとしているミューズは、微かな声で呟いた。
しかし、もう。
遅すぎた。
「何故だああぁっ!」
悲痛な叫び声と同時に、クレセントの左腕から純白の翼が展開する。
止めどない絶望に任せて広がる無限の翼は、まるで醜悪な蔦のようにホールに広がっていく。その一端に触れた観客たちは、卒倒し、発狂し、精神を侵され死んでゆく。何とか翼を逃れた観客たちも、ほとんど恐慌状態でホールから我先にと逃げ出そうとするが、それも人知を超えたスピードで追いすがる白い光に捕らわれ倒れていく。
混乱の中で、帽子の男は銃口を向け続けていた。クレセントの意識そのものである白い翼の一端が、男に向けて放たれる。
男は、笑っていた。
寂しそうでありながら、何故か晴れ晴れとした表情で。
引金が引かれる。
既に翼が男を侵していたのだろうか、狙いは大きく外れて天井に穴を穿ち、男は光に包まれてそのまま倒れた。おそらく、完全に精神を焼ききられただろう。
それでもなお、暴走し続ける枝分かれした翼はホールのみでなくこの都市全てを包み込む勢いで増殖する。クレセントはミューズを抱きしめたまま、狂ったように……いや、実際に狂っているのだろうが……吼え続ける。
トワは、立ちすくんだまま見ていることしか出来ない。
これだけで、終わるはずが無い。
クレセントは、ある意味では『青』を上回る能力を持つ、異端の色彩『白の二番』。制御の利かない力は、やがてクレセント自身の命を喰らいながらこの星全体に広がりかねないのだから……
「……ね、クレス」
掠れた声と共に、すっと、冷たい指がクレセントの頬に触れる。
クレセントは、ほとんど狂気に捕らわれた血走った目で、腕の中にいるミューズを見た。
「ミューズ……?」
まるで子供のような声で呟くクレセントを見上げて、ミューズは苦しそうに、笑った。
「ごめんね」
「違う、ミューズは、何で……」
言葉を放つたびに、クレセントはがくがくと震える。身に余る『白』の暴走は、クレセント自身を徐々に侵しているようだった。もはやまともな思考も残ってはいないのだろう。そのような状態でこの暴走を止めることなど、出来るはずもない。
その間にも、クレセントの腕から伸びた翼は広がっていく。白い影のように。全ての形無いものを壊しながら。
「クレス、私、今、夢を見ていたの」
薄く開いたミューズの目は、光を映していなかった。
「ステキな夢よ。白い男の人と、不思議な女の子の話。今まで見た夢と違うの」
ミューズは長く息をつき、苦しそうに咳き込む。クレセントは余計に強くミューズを抱きしめる。嫌々をするように首を横に振りながら、ミューズの名を呼び続ける。
「ずっとね、怖かったの。いつも、貴方がいなくなるところで夢が終わるの。だけど、もう、そんな夢は見ない」
ぽつり、ぽつりと。
生きるものの声が聞こえなくなったこの世界で、ミューズの小さな声だけが、響き渡る。
「誰も知らない未来が、待ってる」
「嫌だ! ミューズがいない未来なんて嫌だ!」
「大丈夫よ」
ミューズの指先が、ほんの少し熱を帯びる。
「私は、いつでも貴方の側にいる……貴方を、思い続ける。貴方の思いに、生き続ける」
指先の熱は、赤いヴェールのような形を取る。それは言うなれば炎の帳。ミューズの中に形作られた、無限色彩『赤』のイメージ。
「貴方の深淵で、ずっと」
声と同時に、ヴェールが展開される。形無いものを壊すクレセントの翼に対し、ミューズの帳は明らかな熱を伴った炎だった。町中に無軌道に広がろうとする白い翼を覆い隠すように、町の外周を赤い帳で包み込む。
周囲の温度が急激に高まる。クレセントは頬に触れるミューズの手を左手で握り締める。ミューズの手首に埋まっている真紅のジュエルがその手や頬を焼くのも構わず。
ミューズは華やかな笑顔を、浮かべる。左右が非対称の、とても彼女らしい、笑顔。
「だから」
最後は、唇だけが、言葉を紡ぎ。
ミューズは残された力で、無限色彩を全解放した。
赤い帳に象徴される熱波は全てを焼き尽くす。死した人々も、コンサートホールも、町の建物も、そしてクレセントの白い翼も、全て。白の力を巻き込んだからだろうか、赤い熱波はいつの間にか白い色に染まっていた。
全てが白い光に染まる、その瞬間。
「ミューズ――――っ!」
光を貫く、クレセントの叫びが。
誰かの声とよく似ている、と。トワは朦朧とする頭で思った。
Planet-BLUE