Planet-BLUE

081 幸福の意味

 ラビットはセピア色のコンサートホールの前に立っていた。
 五年ほど前に奪われ今は作り物である左目も、元より光しか映さない右目も、はっきりとドーム型の建物を捉えていた。
 それが視覚とは全く別の知覚であると、夢遊病者のごとき今のラビットがはっきりと把握できるはずはなく、この状況が明らかにおかしいという認識すらも出来ない。
 これ以上先に進んだら戻れなくなる、と。
 頭の奥で鈍く、響く声。
 それが彼に残された唯一の理性だったのかもしれない。しかし足は声に反して真っ直ぐに、コンサートホールへと向かっていく。
 あの日の出来事を、そのままなぞるように。
 
 
「ミューズ」
「何?」
 舞台裏。
 せわしなく動き回るスタッフの間を悠々とした足取りで歩くミューズ、その後ろを何故か身体を縮めるようにしてついていくクレセント。好んで人前を歩くことをしなかっただろうクレセントがそのような反応をするのはある意味で当然なのだが。
 その対比がやけにおかしく、トワはまた少しだけ笑った。
 しかし次に放たれたクレセントの声は至って真面目なものだった。
「緊張しているのか?」
「え、私が?」
 ミューズはクレセントの方を振り向いて笑ってみせた。非対称ながらとても華やかな印象の笑み。
「うん。少しだけ、ね。でも大丈夫よ、クレスが見ててくれるから」
 少しだけ背伸びして、身体を屈めていてもなお背の高いクレセントの唇に軽く口付ける。周囲の目もあるからか、羞恥心でクレセントは余計に身体を曲げた。ただ、どのような表情をしているのかトワからは見えなかった。
 ただ、ミューズがほんの少し、笑みを翳らせたのはここからはっきりと見えた。
「ねえ、クレス?」
 背伸びしたまま、ミューズは言った。
「何だ?」
「私ね、たまに怖くなるの」
「どういうことだ」
 クレセントの声が、一瞬沈んだのがわかった。ミューズはすぐに「そんなに真面目な話じゃないからそんな怖い顔しないでよ」と笑顔のまま言う。何かを反論しようとしたクレセントの先手を打って、ミューズは口を開く。
「私、今とっても嬉しいの。こうやって私のために皆が集まってくれてる。私はこんなステキな場所で大好きなピアノが弾ける。それに……クレスが、一緒にいてくれる。だから、すごく幸せ。だけど」
 明るいブラウンの瞳が、微かに震える。
「いつも、ふと考えるの。全部が全部、ずっと続くものじゃないんだなあ、って。これがいつ終わってしまうんだろう、って思うと、たまにどきっとする。怖くなる」
「ミューズ、私はずっと貴女の横にいる……絶対だ」
 クレセントは、唐突な話題に困惑を交えながらもあくまで誠実に、はっきりと答えた。おそらく、このようにミューズが脈絡の無い話題を振るのはいつものことなのだろう。ミューズはしなやかな指先をクレセントの左頬にかける。
「でも、どちらかは先にいなくなっちゃうでしょう? 永遠なんてないって、クレスだっていつも言ってるじゃない」
「……それは、そうだが」
「ねえ、クレスはどう? 今、幸せ?」
 いたずらっぽく、ミューズは言った。
 クレセントはしばらくその単純な問いの意味を深く考えるかのように黙り込んだが、やがてゆっくりと、言葉を放つ。
「今まで、そんなことは考えたことが無かった。私は、誰も傷つけたくなくて、でもいつも誰かを傷つけながら生きていた。幸せなんて、考えること自体分不相応なことだと思っていた」
 声は淡々としていながら、中には深い感情が込められているのがトワにもわかる。独特の口調は、トワがよく知っているものに思えた。
「今も、それは変わらない。今までしてきたことが許されたとも思っていない。それでも……貴女と出会えたことが嬉しい。今ここで一緒にいられるのが、嬉しい。だからきっと、私はとても幸せなのだと思うよ」
 暖かな感情。
 トワにはミューズやクレセントが考えていることを読み取れるわけではなかったが、その言葉を聞いているだけでも、クレセントが優しく暖かな想いをミューズに対して抱いていることがわかる。
 今までトワが見てきたのは常に氷のように冷たく頑なな、何処までも孤独な男としてのクレセントだった。自身を求めるトワすらも拒絶するような、閉ざされた心を持った存在。それでいて心の奥で止めどない焦燥を抱いていただろう存在。
 だからだろうか、目の前のクレセントが別人のように見える。姿形は確かにクレセントのそれなのだが、トワの記憶とはあまりにかけ離れていた。
 それとも。
 目の前の彼が、本来のクレセントだったのか。
『私を、捜してくれ』
 かつて、旅の中で見たクレセントは、トワにそう呼びかけたはずだ。
『貴女の求めている存在は、私ではない』
 そう、言っていたはずだ。
 ならば、クレセントの言う『私』とは、一体何だというのか。
 求めながら、いつも届かない。自分は一つだけ、ただ一つだけを問いたいと願っているだけなのに。
 ミューズに目を戻すと、彼女の表情からはいつの間にか影が消え、晴れ晴れとした笑みに戻っていた。
「クレス、変わったわね」
「そうか?」
「うん。初めて、クレスに会ったときには、『ああ、何てこの人は悲しそうな目をしているんだろう』って思ったの。綺麗なのに、すごく、悲しそうだった。悲しくて冷たくて、触ったら壊れてしまいそうだった」
 両腕をクレセントの肩にかけて、ミューズは囁くように言う。
「だけど、私、信じてるの。幸せの意味を知ってる人なら、どんなときにも幸せを見出せるって」
「……幸せを、見出す?」
「幸せは永遠に続くわけではないし、目に見えないものだけど……クレスは、もうわかってると思うの。だから、大丈夫。クレスも、私も」
 何処か要領を得ない話に、クレセントは首を傾げるが、ミューズは熱っぽい目でクレセントを見上げるだけだった。クレセントの手が、ミューズの背にかかり、動きが止まった。
「ミューズ……震えてるのか?」
「ん、大丈夫、だよ」
「本当に今日はどうしたんだ、らしくないぞ」
「そうかな。クレスの言ってる通り本当に緊張してるのかも」
 クレセントは、少しだけ腕に力を込めて、ミューズを抱きしめた。その一瞬だけ、周囲の人の目も忘れて。今度は逆にミューズが驚いて問い返す。
「クレス?」
「貴女が不安そうにしていると、私まで不安になる。言いたければ何でも言ってくれ。私は、頼りないかもしれないが、それでも……」
「ん、ありがと。それじゃあ」
 ミューズは、顔を上げた。
 何故か。
 笑顔だというのに今にも泣きそうな表情をしていた。
「キス、してくれる?」
「な、何で突然」
「だってクレスからしてくれたことないじゃない。ほら、もうすぐベルも鳴っちゃう」
 ミューズは楽屋裏にかかっている時計を指差した。彼女の言うとおり、開演時間までもう時間が無かった。
 クレセントは一瞬ためらってから、ミューズの体を抱きしめて唇を重ねる。先ほどのキスより長く口付けて、それから唇を離す。
 その時、ベルが鳴った。
 ミューズはドレスを翻してクレセントから身体を離し、靴を鳴らしてステージへと向かう。その前に一度だけ振り向いて、言った。
「行ってきます、クレス」
「ああ」
 クレセントは、軽く手を振って、ミューズを見送った。
 全てを見ていたトワは、無意識に自身のジュエルに手を当てていた。歯を噛みしめ、悲痛な面持ちでクレセントの背中を見据える。
 やっと、気付いたのだ。
 これが、最後の……
 
 
 広い観客席の入り口に、ラビットは立ちつくしていた。
 観客席は人で埋まっている。まだ開演までに時間があるのだろう、談笑する声があちらこちらから聞こえてくる。それでも、ラビットの目はまだ誰もいないステージの上に向けられていた。
 大きなグランドピアノが一台、ステージの上にぽつりと置かれている。
 ある、ピアニストの物語がラビットの脳裏に蘇る。
 知っている。
 全部。
 知っていて、目を背けていた部分。
 そう。
 
 ここが、『白の原野』の中心地。
 
「……繰り返す、気か……?」
 ラビットの口は、本人が意識しなくとも言葉を紡ぐ。
 
 
 その時、ベルが鳴った。
 全ての終わりを告げる、鈴の音が。