Planet-BLUE

080 セピアの情景

 声をあげ、名を呼ぶが応えない。
 男は、薔薇の花束を片手にただ、人の波の中を早足に歩いていくだけで。
 トワは走って男に追いつこうとするが、男の背は近づくばかりか徐々に遠ざかっているようにも思える。セピア色の人々が、時折背の低いトワの前に立ちはだかり男の姿を隠す。その度にトワはこのまま見失ってしまうのではないか、という不安に駆られながら男の姿を探す。
 何度も出会いながら、何も伝えられずにいた。
 いや、今まで出会ってきたのは本当の「彼」ではなかったと、理解していた。
 だから、この場所まで来たのだ。『白の二番』を……自分と同じでありながら根本的に異なった無限色彩保持者、クレセント・クライウルフを探して。
 遠い彼女の言葉を伝えるために。
 そして、自分の答えを見つけるために。
「クレセント、待って……っ!」
 しかし、クレセントはただ歩いていくだけ。クレセントの歩む先にあるのは、大きなドーム状の建物だった。トワはそれが一体何であるのかは知らなかったが、おそらくはコンサートホールなのだろう。やはりその一際大きな建物もセピア色の色調に沈んでいたが。
 クレセントは、人の流れと共にホールの中に消えていく。トワは慌ててそれを追った。エントランスでは本来なら色とりどりの色彩を持っているはずの花束や、開場を待ち談笑する人々がセピアのコントラストだけで構成されている。
 そこに、一つの看板があった。色は周囲と同じに見えたが、文字はかろうじて読み取ることが出来た。あまり難しい言葉は知らないトワだが、そこに書いてある内容はわかった。
『ミューズ・トーン クリスマスコンサート』
 ミューズ・トーン。
 前に龍飛から聞いた名前。五年ほど前に死んだ、世界的に有名なピアニスト。そしてトワの無限色彩としての感覚を信じるのならば、かつて無限色彩の『赤』であった女性。
 会ったことはない。姿すら知らない。それでも、わかるのだ。彼女が『赤』で、この『白の原野』を作った人間であるということが。
 クリスマス、ということは地球の暦で十二月だろうか、とトワは数少ない知識を呼び覚ましながら思う。その間にも、クレセントはエントランスを抜けて、ホールの奥の方に足を進めていた。トワはすぐに看板からクレセントの背に目を戻し、小走りに追った。
 クレセントは周囲の人の目を引いているようだった。
 セピアの世界の中、クレセントだけが色彩を持って見えるのはトワの目から見た場合だけで、クレセントも周囲の人間も通常の色彩で知覚しているということはトワにもわかった。その点彼だけが目を引く理由はないように思えたが、人々の目は明らかにクレセントに向けられていた。
 その目線に含まれた感情が決して良いものではない、と思ったのは、トワだけだったのだろうか。
 クレセントは階段を下りていく。ゆっくりと、高い足音を立てて。花束から落ちた一枚の花びらが、セピアの床に赤い印を落とす。
 トワはその花びらを拾って、なお彼の背を追う。
 やがてクレセントは一枚の扉の前に立った。楽屋、なのだろう。クレセントの手がドアノブに伸びて、一瞬ためらってから扉を開けた。
 楽屋の中はセピア色の花束で埋め尽くされていた。その無数の花束に囲まれるように、一人の女性がクレセントとトワに背を向ける形で座っていた。
「ミューズ」
 クレセントが名を呼び、後ろ手にドアを閉めようとする。トワは急いでドアの中に滑り込んだ。このセピアの世界ではトワの存在自体が知覚されていないのだろうか、彼がトワに気づいた様子はなかった。
「クレス、来てくれたの」
 ミューズと呼ばれたその女は、聞き覚えのある声で嬉しそうに言ってクレセントの方を向く。
 トワは、息を飲んだ。
 真紅のドレスに、短く切ったオリーブ色の髪。それはいつか夢で見た、雪の中に立つ女の姿と同じだった。そして、それ以上にトワを驚かせたのは、その顔立ち。
 明るいブラウンの瞳を細めて笑う顔は、龍飛のものとよく似ていたのだ。
 違うところと言えば、龍飛の顔や表情が人形じみたシンメトリーを描いていたのに対し、ミューズの作る表情は少しだけ歪んでいるように見えた。
 言うなれば、ラビットが意識して作ろうとする「笑顔」の延長線にあるような、そんな表情。勿論ミューズの表情は意識せず自然と浮かぶものではあったが。
「すまない、遅くなって」
 クレセントは心地よい音程の声で言う。トワのよく知る、それでいて聞いたことのない響きの声で。
 ミューズは足を曲げて目線を落としたクレセントの首に腕をかけ、その唇に軽くキスをした。
「いいの。それより、レイとセシリアはどうしたの?」
「……連絡がつかない」
 ミューズの問いにクレセントは答えたものの、とても歯切れが悪い。状況を知らないトワですら、彼の言葉が間違いなく嘘だと思った。
「あ、まだレイと喧嘩したままなの? さっさとクレスから謝っちゃえばいいのに」
 レイ、というのはやはりあのレイ・セプターのことなのだろうか。トワはここしばらく目にしていない軍人の姿を脳裏に思い浮かべながら思った。
 クレセントはミューズの肩を抱きとめながら、軽く首を振る。肩の上くらいまで伸ばした黒髪が、揺れる。
「謝る気はない」
「もう、クレスはいつもそうなんだから」
 まるで小さな子供を咎めるような口調で言いながら、ミューズは片手をクレセントの頭の上に載せた。
「レイが怒ったのはクレスが無神経なこと言ったからよ?」
「私が?」
「そ。自覚してないでしょ」
 何処かいたずらっぽく、ミューズは言った。クレセントはしばらく黙り込んで、何かを考えているようだった。そんなクレセントを見つめるミューズの表情が、トワから見て何故かほんの少しだけ翳ったように思えた。
 トワはゆっくりと、二人に近づく。二人とも、トワの存在に気付いた様子はない。
「だから、謝っちゃいなさい、ね? クレスから謝れば、レイだってすぐに元の調子に戻ってくれるわ」
「そういうもの、なのか……?」
 クレセントは首を傾げる。その所作がやけに子供っぽいものに見えて、トワも思わず微笑んでしまった。そういえば、今まで旅の中で見たこの男が、ここまで無防備な姿を見せたことはなかった気がする。
「そういうものなの。レイとは昔からの友達じゃない、そんなこともわからなかったの?」
 ミューズの言葉には決してきつい響きはこめられていなかった。しかしクレセントは少しだけ肩を落として呟いた。
「わからない。今までこういうことは、無かったから」
「そう、よね。じゃあ今回がいい機会ね」
 にっこりと、ミューズは笑った。詳しいところはよくわからないが、今の話を聞く限りではどうやらクレセントとレイ・セプターの間で些細な言い争いか何かがあったに違いない。
 クレセントはまたしばらく悩んでいたようだったが、ふと、言った。
「……わかった。後で、謝っておく」
「会ったらすぐに謝るんだからね。いつもみたいに変に突っ張ってたら損なんだから」
「言われなくとも」
 トワには背を向けているが、クレセントもおそらく、微かに笑ったのだろう。ミューズは満足そうにぽんぽんとクレセントの頭を軽く叩いた。
「子ども扱いは止めてくれないか」
 ちょっと不機嫌そうな声を立てるクレセントだったが、それに反してミューズはきゃらきゃらと笑いながら言う。
「だってクレスってば、こんなに背は高いのにまだまだ子供っぽいんだもん」
「……貴女の言い方も結構失礼だと思うぞ、私は」
「あら失礼」
「別に、もう慣れたがな」
 軽く溜息混じりにクレセントは呟く。それがまたおかしかったのか、ミューズは声を上げて笑う。
 でも、何故だろう。
 トワは、思う。
 何故、ミューズはこんなに寂しそうなのだろう。
 クレセントもそれに気づいたのかもしれない。ミューズの笑い声が収まると、少しだけ真剣な口調で聞いた。
「……ミューズ? どうかしたの」
「あ、もうそろそろ時間ね」
 しかし、その言葉はミューズの声に遮られた。ミューズはクレセントの身体を解放するとゆっくりと立ち上がった。炎のような色をしたドレスがセピアの色調の中に映える。クレセントも慌てて立ち上がると手にした花束を差し出そうとするが。
 ミューズは、それを片手で押し留めた。
「忘れたの、クレス? それは、ステージで渡して」
「だ、だが……」
 クレセントは明らかに狼狽していた。
 理由はトワにもわからないでもなかった。ステージというのは人の注目を否応無く浴びる場所だ。元々感度の高すぎる精神感応能力者であるクレセントにとってはある種の苦痛でしかない。
 当然それを知らないはずはないミューズだったが、にっこりと笑ったままの彼女は言った。
「お願い、クレス」
 お願い、と言われて断れるクレセントではなかったのだろう。渋々といった様子ながら、こくりと頷いた。
 ミューズは赤いドレスを翻し、クレセントの先に立って言う。
「それじゃあ、舞台袖まで一緒に行きましょ。近くで、聞いてて欲しいの」
「いつになく、張り切っているな」
「そうかしら? そう……かもね」
 ふ、と。
 何故か、ミューズの目が、トワと合った気がした。トワはどきりとしてミューズを見るが、次の瞬間にはミューズはクレセントを連れて楽屋のドアを開けていた。