ラビットたちを乗せた車と、聖の乗ったホバーはゆっくりと丘を登っていた。トワは後部座席から身を乗り出すように前を見ていた。フロントガラスの前に立つ龍飛は、トワに問う。
『……どうかしましたか?』
「声が、聞こえるの」
『声?』
「あ、ううん、何でもない」
トワは慌てて首を横に振った。龍飛は何が何だかわからない、とばかりに首を傾げる。何しろこの場にはラビットとトワ、そして龍飛しかいないのだから、その他に声など聞こえるはずも無い。
しかし、トワはじっと前を見つめながら、何かを思案しているように見えた。
ラビットは相変わらずハンドルに腕をかけたまま、何処を見るともなくサングラスの下の目を彷徨わせている。何度かトワに「大丈夫?」と問われたが、気の無い返事をするばかりで心ここにあらずといった様子である。
「ねえ、龍飛」
トワは、一度深く後部座席に座りなおして小声で龍飛に問う。
『何ですか』
「……ラビットは、怒ってるのかな」
『何故ですか』
龍飛がやはり小声で問い返す。トワは言葉を選びながらゆっくりと言った。
「わたし、やっぱりラビットのこと何も考えて無かったんだなって思うの。元々ラビットを巻き込んだのはわたしだし、『白の原野』に行くって言い出したのもわたしだもんね。ラビットが、辛くないはず……」
「貴女が気に病むことは無い」
意外にも、ラビットがトワの言葉を遮った。声もはっきりとしていて、その言葉だけ聞けば普段どおりのラビットであると思えた。
「前にも言っただろう。『私は、貴女とこの星を見たい』。そして『貴女の旅の終わりを見届けたい』と。その言葉に偽りはない。だから、貴女が気に病む必要は無い。これは単に」
私個人の問題だ、と。
そう紡がれるはずの声は声になっていなかった。情けない、とラビットは思う。せめてトワの前では醜態をさらすまいと思っていながら、身体も心も言うことを聞きそうにない。
それだけラビットの『白の原野』に対する闇は、大きい。出来ることならば、この命が尽きるまで目を背けていたかったとも思う。それも、今になっては叶わない。ここまで来たのだ。トワのためにも、もう逃げ続けているわけにもいかない。
それは、わかっているのに。
「すまない、トワ……」
「え?」
「私は」
――――貴女に真実を告げてはいないのだ。
唇だけが、動いた。声は出なかった。
当然ラビットが何を言おうとしていたのかなど知るはずもないトワが首を傾げる。
「どうしたの?」
ラビットは、のろのろと首をトワの方に向ける。トワは青い、海の瞳でラビットを見つめていた。何処までも澄み渡り、穢れを知らない青。
『……くして……』
「?」
そんなトワの瞳を見ていた時、何かか細い声のようなものが聞こえた気がした。ラビットは少し周囲を見渡して声らしきものが出る媒体がないことを確認してから、トワに問う。
「何か言ったか?」
「ううん、何で?」
ラビットは首を横に振り、視線を戻そうとして……強烈な悪寒に襲われた。
胸の動悸が高まる。息が切れる。
こんなに寒いのに、身体が、左の半身が熱い。
普段ならばすぐに「大丈夫?」と問うトワだったが、今回ばかりはラビットではなく、前方の風景に目を奪われていた。ラビットも息を整えながら、前を見る。
車は、いつしか丘の頂上にまで登っていた。
そして、眼前に広がっていたのは、
見渡す限りの、白の原野。
それは、おそらく灰に包まれた土地なのだろう。建物の跡すら残ってはいない、何処までも平らな大地に純白の灰が降り積もっているのだ。まるで、雪のように。
灰色の空と白い大地の冷たいコントラスト。その狭間に、ラビットたちは存在していた。
トワは、言葉もなくその光景を食い入るように見つめていた。ラビットは、無意識に目を背けていた。
『ラビット……』
龍飛の声が、沈黙に包まれた車の中に、むなしく響く。
しばらくの重苦しい沈黙の後、ラビットが口を開いた。
「どうすればいい、トワ」
トワは、その言葉を聞いてやっと我に返ったのだろう、一瞬きょとんとした顔でラビットを見たが、すぐに目を伏せて呟いた。
「もう少し先に行って欲しいの。そうすれば、何かが、わかりそうな気がする」
「何かが、わかりそうな?」
「うん。ここじゃあ、まだ」
「……わかった。少し走るぞ、龍飛」
『了解しました』
車は、少しだけスピードをつけて丘を下り、白の原野に入った。車が通ると地面の灰が舞い上がり、まるで霧のような幻想的な風景を作り上げる。トワはじっと外を見つめながら言った。
「ここは、悲しい場所なんだね」
ラビットは意識的に視力補助装置のピントを外しながらトワの言葉に相づちを打つ。
「そうだな」
言いながら、ラビットは目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、いつからか曖昧になってしまった過去の記憶。思い出すまいとしていたばかりに何処までが事実で何処からが虚構なのか、自分でも判別がつかなくなってしまったかつての思い出。
これは自分の記憶ではない、と無理矢理自分を納得させながらも、この場所を見ると否応なく実感させられる。
「この場所で、罪もない……何も知らない人々が、死んだ。何人も。何千人も。影すら残さず」
自分に言い聞かせるように、いや、むしろ懺悔とも取れる口調でラビットは呟く。
「本来ならば、一人の男が死ねばそれで済んだはずなのに……」
「ラビット?」
「何故、何故過ぎた力は必ず全てを傷つけるのだろう。存在が許されないのなら、何故強大すぎる力が存在するのだろう」
「……大切なもののためだよ」
ラビットの、うわ言にも似た言葉を遮って、トワが言った。
「大きな、大きすぎる力でも、きっと。何か大切なもののためにあるんだって信じてる。今はまだ何が大切なのかわからないけど、絶対にそうなんだって、今なら信じられる」
ラビットは、思わず目を見開いてトワを見た。トワは、不安げな表情など浮かべてはいなかった。真っ直ぐ、ラビットを見つめて言った。
「だから、わたしは、ここに来たの。わたしの大切なものを、探しに来たの」
「それは」
どういうことだ、という言葉はラビットの口から出ることはなかった。今度は、トワに言えなかったわけではない。ただ、唐突に目に飛び込んできた映像が信じられなかっただけで。
原野の画像を目に入れないために、視力補助装置のピントを外したはずだというのに、ラビットの見えない目ははっきりと窓の外の風景を捉えることができた。
ここは、灰に閉ざされた白の原野ではなかったのか。
ならば、何故。
色あせた建物と道を歩く人々の姿が、この目に映っているというのだろう。
息を飲み、ラビットはトワからフロントガラスに目を戻す。ラビットたちの車が走っているのは大通り。車の時計は正午近くを指しているというのに、周囲はもうすぐ夜になろうとしていた。道を歩く人々はきらびやかな服を身にまとい、皆同じ方向へと歩いていく。
ラビットは、知っていた。
この風景を。
この道を歩く人々が何処へ行こうとしているのかを。
これから、何が起ころうとしているのか、も。
「……嘘、だ」
道の脇の街灯が、淡い光を放ちはじめる。それでも、何処か周囲の風景はセピアがかっているようだった。ラビットは龍飛に向かって半ば悲鳴じみた声を上げる。
「止めてくれ、龍飛!」
『ラビット?』
「車を、止めてくれ。頼む」
車は音もなく道の真中に停まった。ラビットが夢見心地のまま車を降りる前に、トワが後部座席のドアを乱暴に開けて、道に躍り出ていた。ラビットはトワを止めようと手を伸ばしたが、それより早くトワは道の向こう……人々が歩く方向に走り出していた。声を上げて。
「待って、クレセント!」
「……っ?」
ラビットがトワの走っていく方向を見ると、そこに、一人の男の姿が見えた。着飾った人々に混ざるように、やはり余所行きの服を着て、片手に花束を持った長身の後姿。セピアの色調の中で、何故かはっきりとした色彩を持ってこの目に見える、黒髪の男。
ゆっくりと、ラビットが一歩を踏み出す。虚ろな表情で、ほとんど無意識に、遠ざかるトワの背を……いや、正確に言うのならばトワが追う男の背を追っていた。その先に何が待っているのかも理解していながら、ラビットの姿もまた、人ごみに飲まれていく。
人ごみの中に消えた二人の背を追うように、何者かが囁いた気がした。
『 「白の二番」を、見つけて……』
歪み、止まっていた歯車が今、淡々と動き出す。
Planet-BLUE