「本当にいいのか」
「ああ」
小さく頷いてそう言ったのだと思いだす。
それは、もはや自分すらも忘れていた心の奥へと追いやられた遠い記憶。
「……もう、二度と出られなくなるかもしれないのだぞ」
懐かしい声が、何処か叱咤するような響きで言う。それでも、決意は変わらない。
「構わない」
目を閉じて。
全てを忘れられればいいのにと願いながら。
全てを忘れてはいけないと心に刻みながら。
「もう、誰も傷つけなくて済むのならば、それで、構わない」
薄く目を開けると、目の前に立つ懐かしい人と、その背後に控える白い服の狂った研究者どもが見える。本当に目に映るものが目の前にあるのか、それすらもよくわからないけれど。
厳しくも悲しげな目をする懐かしい人を直視できない。
だから、目を逸らして窓の外を見た。窓の外に広がっているのは夜闇に光るビルの明かり。そしてその中に建つ、ひときわ高い時計塔。多層光学文字盤を決してはっきりとは見えない目で無意識に読み取ろうとしていたとき、「目が合った」。
人の姿など、見えたはずがない。
この距離で、しかも表に人がいるはずも無い、高層に位置する機械の時計塔を見ているだけだというのに。
何故、自分はそこに「誰かがいる」と……まして、「目が合った」などと思ってしまったのか。
手に握った、小さなビー玉が、重い。
『そのときには』
頭の奥で、声が聞こえた。
振り返ると、その時には既に周囲の景色は一変していた。
花の咲く、大きな部屋。部屋の真ん中には巨大な振り子が上下していて、それに合わせて空気を震わせる針の音が響く。
そして、振り子の前に立っていたのは、小さな少女。
純白のドレスに身を包み、サファイアのような、古代の海のような美しい青の瞳で、こちらを見つめていた。
少女の口が、微かに動く。
『わたしと……』
こちらに伸ばした少女の手の中には、四つのビー玉があった。赤、橙、黄、白。見ただけで、一つ足りない、と直感的に思った。
だから、わかるのだ。
最後の一つは、この手の中にある。
今まさに、自分の手の中にあるそれが、最後の一つ……
小さな少女が、真っ直ぐにこちらを見つめる。
青い瞳は、手の中のビー玉の色と同じ。
まるで、それは青い、遥か遠くの星のよう。
そう思った瞬間、意識が遠くなる。少女の姿も花が咲き乱れる振り子の部屋も、全ては白い光に塗り潰される。少女が何かを言ったようだったが、聞き取れない。
光の中で、ただ。
手に握ったビー玉の重さだけを感じていた。
全てが光に埋没した、あの時と同じように――――
ラビットは、自動運転になっている車のハンドルに腕をかけ、そこに顔を埋める形にして仮眠を取っていた。
第三ブロック街は、第四ブロック街からそう遠くは無いとラビットは記憶している。ただ、龍飛にはスピードを上げるなと指示してあるため、到着まではまだある程度の時間があったのである。
軽く車体が揺れて、浅い眠りから覚める。まだ真夜中らしく、黒い天球に針で穴を開けたような、小さな星が見える。その中でひときわ大きく輝く、青い星も。
何か不可解な夢を見た気がするが、それはいつものことだと思う。特に、このような悶々としている状態では深く眠れるとも思えない。
『迷っているのですか、ラビット』
「龍飛……」
フロントガラスの前に設置された立体映像映写機が、オリーブ色の髪をした女性の姿を浮かび上がらせる。ラビットはそれを一瞥してから、再び腕の中に顔を埋める。
「わからないのだ。どうすればいいのか、私には、わからない」
『それでも、行くのですか』
「もう……時間が無いからな」
目を上げて後部座席で眠るトワをバックミラー越しに見やる。車内は暗く、龍飛のホログラムが放つ光だけが、トワを照らしていた。トワもあまりいい夢を見ていないのだろう、その表情は軽く歪んでいた。
時間は無い。
『ゼロ』の衝突までの時間も、ラビット自身に残された時間も。
『ゼロ』が地球に到達する前に、トワの願いを叶えて、彼女を地球外に何とかして逃がしてやらなくてはならない。自分はともかく、先のある彼女をこの星に残すわけには行かないのだから。
だが、その後は、どうするというのだろうか。
一人残されたトワは、また、軍の連中に引き渡されていくのだろうか。元々彼女がそうであったように、一人で帰って行くのだろうか。
脳裏にフラッシュバックするのは、あの時悲しげな表情を浮かべた懐かしい人と、冷たい目でこちらを見ていた白い服の科学者。
『もう、誰も傷つけなくて済むのならば、それで、構わない』
そう言ったのは、一体誰だったのか。
自分の力を恐れた臆病者。だが、それすらも今の自分よりはよほど、確固たる決意を持っていたに違いない。
「矛盾、しているのはわかっているのだ」
呟く声にも、力は無く。
「いくら考えても、おかしいのはわかっている。それでも……」
『 「全てを認められるほど、私は強くない」、と?』
「……龍飛」
『ワタシにもラビットが理解できません。……理解不能です』
悲しげに、龍飛は言った。あくまで仮想実体でしかない瞼を閉じ、儚い蜻蛉の羽を揺らして。
『貴方は、決して弱くなどないのに』
放たれたその言葉に、ラビットは反射的に顔を上げていた。意識しなければ表情の浮かばない顔に、一抹の怒りにも似た感情が走る。それはラビットを良く知る龍飛で無ければ感じ取ることすら出来ない微かな変化だったが。
それでもラビットは、確かに激昂していた。ハンドルを強く握り締め、虚ろな赤の瞳で龍飛を睨みつけ、上ずった声を上げる。
「っ! あ、貴女に、何がわかる……っ! 何がわかるというのだ、私のことも何も知らない貴女がっ!」
言ってから、後悔した。
龍飛が、酷く傷ついた表情で俯いてしまったから。
ラビットはぎり、と歯を鳴らしてから、また腕の中に顔を埋めて呟いた。
「すまない……何か、本当におかしいみたいだ」
何故、龍飛の言葉がそこまで気に障ったのか。深く考えなくとも、理由は何となくわかっていた。
『貴方は、何にでもなれるのに』
その声が、かつて聞いた声にあまりにもよく似すぎていたから。
ラビットの判断を鈍らせる、思い出の底に沈んだ声に。
「龍飛」
呼びかけるも、龍飛は答えない。
ラビットは深々と溜息をつくと、顔を上げて左手を開いた。手袋を嵌めた手の平の上には、青い小さなビー玉があった。何処で手に入れたのかも思い出せない、かつてトワが持っていたものだという、ガラス球。
そういえば、何故思い出せないのだろう。
過去の記憶を辿る、ということは今のラビットには出来そうになかった。ただ、このビー玉を見るたびに、何か大切なことを思い出しそうで、それでいて忘れてはいけないことを忘れてしまったような嫌な感覚に襲われる。
それに、かつてトワが持っていた、というのも何かが変だ。
自分とトワに、面識は無かったはずだ。あの日、トワが天文台を訪れるまで。それ以前にトワと出会った記憶は、少なくとも「ラビット」には無いはずで。
ならば、それより過去に?
思考は、やがてラビットの中の闇へと向けられそうになり、無理矢理自分自身で軌道を修正する。いつも繰り返すこととはいえ、ともすればそのまま闇に埋没してしまいそうになる。
その闇の先に何があるか、など考えたくも無い。
「龍飛。私は強くない」
答えない龍飛に向かって、ラビットは呟く。
「強くない。臆病な兎に過ぎない。……だから」
握るビー玉は、手袋の上からでも冷たく、そして、重い。
淡々と近づく、運命の場所。
それを思うだけで、声も、手も震える。
全てを壊すくらいなら自分が壊れる方が気が楽だと、少し前の自分ならば言えた筈なのに、今になると全てが、怖い。全てを壊すことも、自分が壊れてしまうことも。
だから、ラビットは、かろうじて言葉を紡ぐ。
「もしも私が間違えたら、私を止めてくれ。どんな手を使ってでも」
白の原野は、近い。
Planet-BLUE