何故、気づかなかったのだろう。
ラビットは、無限色彩によって実体化したルークの狂気を感じながら、ただそれだけを考えていた。
爪と牙を伴った黒い狂気は眼前に迫っていた。避けようにも、ルークの手に握られている刀が脇腹に突き刺さったままで、動きようが無い。だから無意識のうちに左腕を振り上げて、ルークを狙っていた。
ルーク本体はあまりにも無防備で、恐怖に顔を歪めたまま涙を流すその姿を見て、ラビットはもう一度、考える。
何故、気づかなかったのだろう。
上着に隠されていない首元や手の平に刻まれた紋章。どんなに狂おしい感情に流されても手放さない刀の柄。そして。
――――何故、気づかなかったのだろう。私と、この男はまるで鏡映し。
この男と戦い始めた瞬間には、完全な怒りに支配されていたと言うのに、今この男に感じるのは、ただ「同調」。
黒い狂気が、迫る。
そう、この狂気すらも「同じ」。
『殺せよ』
目の前の男から放たれた、耳ではなく頭に響いた言葉に、一瞬、気が遠くなる。
無意識のうちに目の奥から涙が溢れる。
『殺せよ』
『殺せばいい』
『いっそ楽にしてくれ、化物……っ!』
否応無く流れ込んでくる意識を受け止めながら、ラビットは目を閉じる。左腕に力を込めて、何とか自分の意識からルークの意識を引き離そうとする。
これ以上、この男の狂気に当てられていたら、それこそこちらもおかしくなってしまう。
それはわかっていることだというのに。
ルークに向かって振り下ろす剣は、やけにスローモーションに見える。黒い靄のような狂気はすでにラビットの喉元に狙いを定めているというのに……
剣の切っ先は、ルークには届かない。
理由は、わかっていた。
自分は迷っているのだ。
そう、ラビットがルークを斬ることは、出来ない。
一連の思考も、刃の交差も、時間に直せば一瞬だった。
密着状態で放った一撃であるにも関わらずラビットの刃はあらぬ場所を斬り、そしてルークの放った実体ある狂気の牙はラビットの喉笛に――――
トワの叫び声が、聞こえた気がした。
次の瞬間、彼は、そこに立っていた。
あまりに無機質な白い回廊に立ちすくんでいた。
頭の中は朦朧としていて、何故自分がこの場所にいるのかよくわからない。
自分の放った一撃を当てることが出来ずに、相手が放った牙に喰われる瞬間は見た気がする。
ならば、これは一体何だ。
「……っ」
頭が痛い。思わず手で頭を押さえて……異様な感覚に囚われる。
ふと、彼は自分の両手を広げる。手袋を嵌めていない、紋章も刻まれていない手の平。今は動かないはずの右手も、普通に動く。
白い袖。自分の身体を見ると、全身真っ白な服を纏っていることに気づく。
だが、それが一体何なのかという思考にいたる直前、酷い頭痛が走って無理やり思考を中断させる。
そして、それは同時に、鋭い警鐘だった。
耳を澄ますと、聞こえてくるのは悲鳴。真っ白な回廊の向こうから、確かに聞こえる無数の断末魔。
知っている。
彼は知らずに息が速くなるのを感じていた。
自分は、この光景を知っているのだ。白い空間も、聞きたくも無い悲鳴も、全て彼の記憶の中にあった。
ただし、「この視点ではない視点」で。
目を背けることは出来なかった。まるで自分の身体では無いように……いや、「これ」は実際に彼の身体ではないのだろうが……足は強張り、目は真っ直ぐに回廊の奥へと向けられたままで。
来る。
激しさを増す頭痛はそう告げていた。まだ何も視界に入ってはいないというのに、まるで喉が締め付けられているような息苦しさを感じる。
彼は知っている。この瞬間、自分が何に追われているのかを。
べちゃり、と。
真っ白な回廊の奥から、確かに聞こえた粘着質な音。
その瞬間、彼は走り出していた。音が聞こえた方向に背を向けて、全速力で駆け出していた。
白磁の回廊はどこまでもどこまでも続く一本道。彼は裸足で駆け続ける。何も聞こえない。何も見えていない。彼を支配するのは恐怖。背後から迫り来る形のある「死」への恐怖。
息が切れる。
頭が割れそうだ。
足は今にも壊れそうで。
だが、自分は知っている。
もう、すぐ後ろに、それが。
「……死にたく、ない」
走る彼の耳元で囁く、声。
思わず彼は振り向いてしまう。
そこにいたのは、人の形をした化物。
全身を返り血に染め、唯一赤に染まらない黒の髪と、焦点の定まらない青い深淵の瞳を持つ、狂気の獣。
それが歩いてきた白い床には、べっとりと赤い足跡がついていた。
「死にたくない」
確実に今まで目の前にあったものを全て壊してきたはずのそれは、目を見開き、涙をぼろぼろとこぼしながら、呪文のように口ずさむ。
「死にたくない……」
動けない彼に向かって、それはゆるゆると腕を上げる。ぼろぼろになった袖から覗く血まみれの手には、禍々しい紋章が刺青されていた。
記憶が、混濁する。
自分自身の意識とは無関係に、唇から言葉が漏れる。
「殺せよ」
びくり、と。腕を上げたままそれの動きが止まる。
「殺せばいい……いっそ、楽にしてくれ、化物……っ!」
化物なんかじゃない。
意識に反して唇から搾り出される言葉に対して、彼は思った。
自分は知っている。目の前のそれには、殺意など存在しない。
ただ、「死」への恐怖しか、存在しない。
恐怖に支配された、哀れなモノ。
それは、こちらが何もしていないのにも関わらず急に血に染まった手で自分の頭を押さえて、悲鳴を上げる。よろよろと、一歩、二歩と彼から離れながら、それはうわごとのように呟く。
「私は、何を……貴方が、私? 私は、誰だ? 皆、死んでいく。私も、また。あの人が、私を見ていた。私があの人に」
押さえた手の間から、深淵の瞳がこちらを見つめる。
「皆、死んでいく。私も、貴方も」
その時、足元が大きく揺らいだ。白い床に亀裂が入る。
「止めろ、聞こえるんだ、皆が死ぬ声。死にたくないという声。殺せという、声……」
床は一瞬陥没したかと思うと、瞬く間に再構成される。それはまるで、白い蛇の顎のように……
「助けて」
それが放つ悲痛な声と同時に、白い蛇はこちらに向かって牙を向け、
彼の意識は、闇に落ちる。
意識の闇に沈みながら、ラビットは確信した。
これは、ルークの記憶。
交差の瞬間「同調」した、ルークの恐怖。
死を呼び、死を恐怖する血染めの獣がルークの心に残した深い傷。
確かにこれならば同調できるはずだ。
自分も、かつて同じ場面を見ていたのだから。
「許せとは言わない」
底の無い闇の中、低い声でラビットは呟いた。
ゆっくりと、意識の腕を伸ばしながら。
「……これは罪だ。貴方には裁く権利がある。だが」
これだけは止めなくてはならない。
ラビットは落ちていく意識の中、手を、開く。実際には目の前にいるはずの、ルークに向かって。
「貴方までこのまま私と一緒に堕ちる気か!」
トワは見た。
ルークの黒い狂気の牙がラビットの喉元に突き刺さる瞬間、2人の間から純白の光が広がったのを。
トワはそのまぶしさに思わず目を覆った。光は霧を裂き、瞼の外からでも目を焼くような激しいものだった。
が、その光の奔流は一瞬のものであった。トワが恐る恐る目を開くと、ルークに向かって突き出したラビットの左腕が淡く輝いていたような気がしたが、それもすぐに消えた。
そして次の瞬間、まるでふつりと糸が切れたかのようにラビットとルークは同時に地に伏した。
Planet-BLUE